第14話 求める者

「セレファンス様、セレファンス様……!」


 慟哭のようなレシェンドの叫喚がイルゼのぼやけた意識を鮮明にした。


(――セレ……?)


 イルゼは感情に従って飛び起きた。いや、飛び起きようとしたのだが、途端に烈火の如く身体中に痛みを感じて地をもんどりうった。あまりの激痛に嫌な汗が背中に滲み出る。


 イルゼは暫くの間、自身を抱くようにして酷い痛みに耐えた。そして苦痛が和らぐと、そっと瞳を開いてみる。


 ……雪?


 地面に近い視界が捉えたのは、一面を白く覆ったもの。イルゼは首をもたげて、ゆっくりと辺りを見渡してみた。

 だが、すぐに雪ではないことは知れた。自身にまで降り積もったそれは冷たさを全く感じさせず、先程まで凪いでいた風は、その白いものを軽く巻き上げた。そして薄らと白く霞みがかった上空には、あれほど存在を顕示していた化け物の姿がどこにも見あたらなかった。


(……まさか、この白い粉は化け物の……?)


 そう考えながら、おもむろにイルゼは身体を起こした。


「イルゼお兄ちゃん」


 横から幼い少女の声が聞こえた。イルゼは顔を上げ、その少女――メリルの姿を認めると、安堵の表情を浮かべる。


「……良かった、無事だったんだね」

「うん、お兄ちゃん達のおかげだよ」


 メリルは柔らかく微笑む。イルゼは、そんな彼女が一本の枝を抱えていることに気がついた。


「もしかして、それ――」

「うん、守護樹様の枝。お兄ちゃん達が真っ黒いモノを払ってくれたから、守護樹様は本来の姿に戻れたの」


 メリルは愛おしそうに、乾いた細枝を腕に抱いた。


 それはイルゼから見れば変哲のない枯れ枝だったが、そうしてメリルが大切そうに抱く姿を見ると、彼らにとっては何よりも大切な至宝なのだろうと思うことができた。


 白く霞んだ周囲の光景は、どこか夢の中にいるようだった。イルゼの身体と脳裏の感覚も、白昼夢でも見ているかのように曖昧としている。


 イルゼは漫然とした意識で景色を眺めやっていた。すると、そんな彼の耳に、自分の名を小さく呼ぶ声が届いた。


 イルゼは背後を振り向く。その先には、横たわったセレファンスを腕に抱いたレシェンドの姿があった。彼女の双眸は、イルゼを射竦めるほどの鋭さを放っている。


「レシェンドさん……」


 イルゼの力ない呼びかけに、女騎士は憎悪に近いものを表情に閃かせた。


「……お前のせいで、セレファンス様は――」


 彼女の押し殺すような声に、イルゼは動かないままの金髪の少年を認める。


「あ――」

(……セレ!)


 イルゼは彼女達に駆け寄り、咄嗟にセレファンスへと手を伸ばした――が。


「触れるな!」


 途端、思いきりレシェンドに弾かれる。

 鋭く襲った手の痛みと、思わぬ女騎士の行動にイルゼは唖然とした。


 レシェンドは一瞬、言葉を失った少年を苦々しい表情で見やると、


「セレファンス様は気を失われているだけだとは思うが……あなたが触れると同調の影響があるかも知れない。今はまだ、セレファンス様に触れないで欲しい」


 先程までの表情を少し変質させて、呻くように呟いた。


「あ……そ、そうですね。ごめんなさい――」


 イルゼは動揺を引きずりながらも素直に謝る。


 確かに彼女の言う通りだった。セレファンスが気を失っている原因は、自分の力にあるのだろうから。


「あの、レシェンドさん、この状況は一体……? 化け物はどうなったんですか?」


 困惑に満ちた表情で再度、イルゼは周囲を見渡す。レシェンドに叩かれたおかげか、身体の機能はともかく、思考の働きは多少の回復をみせていた。


「覚えていないのか……」


 レシェンドは独白のように呟くと、自身が目にした事実をイルゼに伝え始めた。


 真っ白い閃光が辺りを包んだ時、あまりの眩さに、とてもではないが目を開けてはいられなかったとレシェンドは言った。だから彼女も、どのようにして化け物が消え去ったのかは分からないらしい。ただ、次に目を見開いた時には、白い粉雪のようなものが大量に舞い落ちる光景があったのだという。


「恐らく守護樹の化け物は、あなたの〈マナ〉によって粉砕されたのでしょう。この白い灰のようなものは、その残骸だと思われます。そしてセレファンス様は、あなたに同調していたがゆえに、その影響をまともに受けてしまわれた……」


 レシェンドは苦しそうに顔を歪め、セレファンスの額にかかっていた金髪を横に取り分ける。その仕草は深い労りに満ちており、優しく丁寧だった。


 イルゼは遠慮がちに、セレファンスの様子を覗き込んだ。双眸を閉じた面は少し赤い気もするが、苦しんでいるような様子はなく、疲労困憊で眠り込んでいるだけのように見えた。


「あの、気を失ってるだけって言ってましたけど、セレは大丈夫なんですよね……?」


 イルゼは恐る恐るレシェンドを見る。

 こんなことをレシェンドに訊ねること自体が見当違いだったかも知れない。だがイルゼは、セレファンスのことならば彼女が一番、良く分かっているような気がした。


「そうですね……少し熱はあるようですが、脈はしっかりとされていますから心配はないかと思います。それに昔は、こうして寝込んでしまわれることが多々ありましたから」


 どうやらイルゼの認識は正しかったようだ。レシェンドはすぐにセレファンスの状態を教えてくれた。


「セレファンス様は精神的な感応力が高くていらしゃいます。見えない存在を見て、時に会話が成立するのも、その優れた資質をお持ちだからです。ですがその分、他者の影響を大きく受けてしまわれがちですが……」

「昔は寝込んでたっていうのも、そのせい……?」

「ええ。それこそ、ご幼少の頃は、現の者と異質である存在の区別さえつけられず、その影響を常に受けておいででした。それも成長された今では、滅多にないことだったのですが――」


 その語尾が自分への非難に感じられたのは、恐らくイルゼの気のせいではないだろう。

 イルゼは居た堪れなくなり、自責の念から逃れるようにして他の事柄に意識を向けようとした。と、ここで、傍らにいたはずのメリルがいないことに気がつく。


「……メリル?」


 少女はイルゼから離れ、木々に遮られた奥――村がある方角を見つめていた。イルゼの呼びかけにも微動だにしない。

 不思議に思ったイルゼが再度、少女に声をかけようとした時。


「お父さん!」


 途端、メリルは弾んだ声を上げる。


 少女の視線の先を見やると、終息しつつあった白い霞みの向こうから、複数の人影がこちらに近づいてくるのが分かった。


 だんだんと朧気な人影が明確になり、その中にはメリルの言う通り、彼女の父親であるオルウッドの姿が見て取れた。そしてその他にも、この聖域にイルゼ達を向かわせたラヴィニア本人と、その取り巻きである装束着の女性達の姿もあった。


「ラヴィニアさん、何故、貴女がここに……?」


 自分達の前まで歩んできた銀髪の女性に、イルゼは不審を抱きながらも問うた。確か彼女は、村人達を見舞うために村に残らなければならず、その代わりにイルゼ達がここまで足を運ばなければならなかったはずではないか?


 しかしラヴィニアはイルゼの問いには答えず、


「素晴らしい御力でしたわ、イルゼ様。噂に違わず、類い希な御力――」


 と、目を細めて微笑んだ。


(噂?)


 イルゼは一瞬、疑問を持ったが、それよりも確認を急がせる事柄があった。


「ラヴィニアさん、もしかして貴女は、守護樹の枝が化け物に取り込まれていることを知っていたのではないですか?」


 声音が猜疑に満ちないよう、多少の気遣いを払ってはみたが、どうにも上手くはいかなかった。それでもイルゼは言葉を続ける。


「貴女は、その危険性を僕達には知らせず、ここに向かわせた。今の口振りからして、まるで僕が力を使うまで待っていたみたいだ」


 イルゼの非難にもラヴィニアは眉一つ動かさなかった。


「そうですわね、確かに結果的にはそうなりましたわね。ですが、わたくしが期待していたのは、もっと別の結果でした」

「別の結果?」


 イルゼは眉を顰める。そんな少年の様子に、銀髪の美しい人は不自然なほどの微笑を湛えながらに言った。


「さあ、イルゼ様。復活の儀式を始めましょう。再び我らが元に、守護樹様をお迎えするための儀式を」

「――な」

「馬鹿な!」


 イルゼは驚愕に目を見開き、レシェンドは怒りを爆発させた。


「貴女には目に入らないのか!? セレファンス様は気を失っておられるのだぞ! それなのに、今ここで儀式などと――!」

「その心配には及びませんわ。儀式に必要な御方はイルゼ様のみですから」

「――!」


 ラヴィニアの微笑さえ浮かべた冷然とした言い草に、レシェンドは青ざめ、言葉を失う。


「さあ、イルゼ様」


 再度、少年を促すラヴィニアの柔和な声。だがイルゼは、それを激しい嫌悪でもって撥ねつけた。それを今度は全く隠そうとは思わなかった。


「ラヴィニアさん、まずはセレを安全な場所に移すのが先です。彼をこのままにして儀式をすることはできません。そうじゃなきゃ、僕は儀式を手伝わない」


 イルゼは強い反感を持ってラヴィニアを見る。ラヴィニアの表情は、いつの間にか微笑から無表情へと変わっていた。


「……貴方がどう思われようと構いませんわ。初めから貴方の意思など、不要なものだったのですから」


 ラヴィニアは抑揚のない声音で囁くと、素早くイルゼの眼前に手をかざした。


(えっ?)


 イルゼは不意のそれに呆気とする。そして二呼吸ほどの後、イルゼは身体の自由を失っていることに気がついた。


 確かに自身の足で立っているはずなのに、その感覚が全くなかった。まるで身体の機能が全て何者かに奪われてしまったかのような。それはイルゼの意思や存在を完全に無視した屈辱的な支配だった。


 訳の分からない事態に、イルゼは恐怖と焦りを隠さずに叫ぶ。


「ラヴィニアさん! 一体、僕に何をっ……?」

「儀式に貴方の意思など必要ありません。必要なのは、守護樹様の新たな器に相応しい、神の御力を宿したその御身体ですわ」

「なっ」


 イルゼの絶句を無視し、ラヴィニアは背後を振り返る。そこには泣き出しそうなメリルにしがみつかれたオルウッドの姿があった。


「ご苦労でしたね、オルウッド。あなたの働きのおかげで守護樹様の器を手に入れることができました。これで我らが森の再生を願うことができましょう」


 ラヴィニアの言葉にオルウッドは何も答えない。その顔は蒼白で、イルゼと目を合わそうとはしなかった。その代わり、彼の娘であるメリルだけがイルゼを必死に見つめている。


「メリル、守護樹様の枝を持っていますね。さあ、それをこちらに」


 ラヴィニアはメリルを見下ろし、穏やかだが有無を言わせないような声音で促す。しかし少女は枝を強く抱きしめ、頑なな様子で首を横に強く振った。


「……渡しなさい、メリル!」


 少女に叱声をぶつけたのはラヴィニアではなかった。声の主はオルウッドで、彼は娘の腕を乱暴に掴むと、そこから守護樹の枝を取り上げる。


「ああ!」


 メリルは悲痛な声を上げて再び枝を取り戻そうとした。しかし、彼女の父親は容赦なくそれを阻んだ。


「さあ、おいで、メリル!」


 オルウッドは素早くラヴィニアに枝を手渡すと、メリルの腕を強く引き、イルゼから逃げるようにして離れていった。

 そんな親子の様子に、イルゼは悲しみや落胆を抱き、切実な救済を願いながらも見送るほかなかった。今となっては声を上げる自由さえも奪われており、去って行く彼らの背に向かって助けの声を上げることさえもできなかった。


「イルゼ様、こちらへ――」


 ラヴィニアがイルゼに――否、イルゼを支配する何かに命じる。

 イルゼの身体は、守護樹の化け物が這い出てきた泉の淵まで誘導された。


「さあ、これをお持ちください」


 銀髪の女性はイルゼに向かって守護樹のものである細枝を差し出す。それをイルゼは自分の意思とは全く関係なしに受け取った。


 枯れ枝を手にすると、冷たく乾いた感触が感じられた。いまだ感覚だけは、イルゼの精神と直結しているようだった。


「……待て!」


 そこで上がった制止の声。

 ラヴィニアは冷ややかに背後を見やり、イルゼも驚きでもって声の主の姿を横目で見た。


 セレファンスを腕に抱いたままのレシェンドが、こちらに剣の切っ先を向けていた。しかし、その表情は気勢に乏しく、彼女らしからぬ戸惑いに揺れている。そんな女騎士を見てラヴィニアはほくそ笑んだ。


「騎士様、もう少し冷静に考え直されたほうがよろしいのでは? ここから貴女達が脱出するのには、この儀式を成功させなければならないことをお忘れですか?」

「……オルウッド殿は、貴女の髪で編んだ腕輪によって外に出られる術を得たと言っていた。では、貴女を脅してでも、それを作っていただく」


 レシェンドの言葉にラヴィニアは嘲るような吐息を洩らした。


「脅す……つまり、人質でも取るというわけでしょうか。そうですわね。ここには貴女達のように剣を取る者など一人もおりませんから。やはり外界の人間は考えることが違う。野蛮なものですわね」

「どちらが野蛮だ」


 ラヴィニアの侮蔑にレシェンドは吐き捨てた。


「被害者面をすれば、なんでも許されると思っているのか。元々我々は、騙されてここに連れてこられたようなものだ。そこに罪の意識など、なんら持てるはずもない」

「……罪の意識など、それだけに限れば持つ者の自己満足に過ぎませんわ」


 ラヴィニアは睥睨するレシェンドに対して皮肉げな表情を浮かべた。


「必要なのは、それに伴う意思表示と行動。それがなければ我らにはなんら意味などない。ですが何も知らない今の貴女には罪の意識さえ持てないでしょう。ですから貴女には対等な取引を求めます」


 ラヴィニアは表情と声音を改めてレシェンドに向き直る。


「わたくしが見たところ、貴女が守りたいと思っている御方は、そこで気を失われている金髪の少年のみではないでしょうか――違いますか?」

「……それが、なんだというのだ」

「周囲をご覧になって」


 勝ち誇ったような笑みでラヴィニアはレシェンドを促す。女騎士は銀髪の女性から注意を放さないまでも、言われた通りに周囲を窺った。


「な……」


 それにはレシェンドだけではなく、イルゼも驚愕した。周囲の森には、いつの間にか大勢の人影がひしめき合っていたのだ。だがその姿は、木々の陰に覆い隠されて表情や容姿さえも窺い知れない。まるで闇に蠢く人ならざる者のような――


「いつの間に」


 レシェンドが呻くとラヴィニアは鈴の音を転がすような声で笑った。


「戦いを知らぬ村人ばかりとはいえ、これだけの人数であれば多勢に無勢。この状態で身体の自由を奪われたイルゼ様と、気を失われた貴女の大切な主君とを、同時に守れる自信はおありですか?」

「……これのどこが対等なのか」


 皮肉交じりに女騎士が浮かべた表情は、イルゼから希望を奪うのに十分だった。ラヴィニアは更に続ける。


「わたくし達にとって必要なのは、先程も申し上げた通り、イルゼ様のみ。ここで邪魔をなさらないとお約束していただけるのであれば――貴女と貴女の主君である少年は、この森から無事に外へと解放して差し上げましょう」


 レシェンドは暫くの間、表情に葛藤を表していたが、最後にはゆっくりと剣を下ろした。

 それをイルゼは諦めの境地で見つめていた。だが、それでレシェンドを責めようという気にはなれなかった。


(……もう、駄目なのかな……)


 それにしても、なんて呆気ない終わりかただろうか。あの時、セオリムの村で全てを失ったイルゼは、生きることに絶望して死を切望した。だが、そこで出会った金髪の少年と最愛の少女は、それを良しとはせず、死の淵から自分を連れ戻してくれた。

 そんな二人の強い想いを受けてまで助けられたというのに、またすぐに死と直面するなんて。


 今は死を望んでいるわけではなかったが、これが自分の運命ではないかと思えた。だったら、このまま――……


『安易な道に、あなたの未来を委ねてしまわないで!』


 かつて自分を叱咤し救ったフィーナの言葉が脳裏に蘇る。


(安易な道……今も、そうなのかな……)


「……どうやら先程の一件で、全ての気力を使い果たしたようですわね。わたくしの力でも十分に、貴方を押さえ込むことができる――」


 イルゼの朦朧とした様子に、ラヴィニアは好都合とばかりに笑った。そして少年の滑らかな頬に柔らかく触れる。


「欲を言えば、守護樹様の化身が貴方の御力の取り込みに成功されたのであれば――それこそ重畳だったのですが、こうして新たな若い守護樹様をお迎えするのも悪くはありませんわね」

(新たな……守護樹……?)


 イルゼは視線だけでラヴィニアに問うた。ラヴィニアはイルゼの疑問を正確に汲み取り、


「貴方の身体と精神は、我らを守護する大樹の核となり、この地に永く奉じられることになりましょう。その代わり、以前の守護樹様と同様に、わたくし達を末永くお護りくださることが今後の貴方に与えられるお役目です」

(……!)


 守護樹の枝を持つイルゼの手の甲から、まるでそこを苗床にして侵食するかのように、細く小さな緑が芽吹いてくる。

 それは勢い良く繁殖をし続け、腕から背や首にまで広がり、しまいには身体全体を覆い包んで、イルゼ自身を一本の樹のような姿にした。


「おお、なんと神々しくあらせられるのか……!」

「我らが新たな守護樹様の誕生だ!」


 周囲でひしめき合っていた人影が、くぐもった声で歓声を上げる。


(……もう、駄目だ……)


 それらの声を漫然と耳にしながら、イルゼは甘受を選択した。


(なあ、本当にこのままでいいのか? このまま、奴らの思い通りになるのか?)


 イルゼの心に、そんな問いかけが入り込んでくる。それは以前にも耳にした言葉だったが、決してイルゼの思考から生まれたものではなかった。

 まるで、誰かが自分の心に直接語りかけてくるような――


(……セレ?)


 薄れかけた意識の中で、そんな答えを導き出した。


(そうだ。お前の精神に直接、語りかけてる。……どうやら聞こえてるみたいだな)

(なんで……? だって君は)


 霞みがかった視界を動かして、イルゼはセレファンスの姿を捜した。そうして視線の先に捉えた金髪の少年は、案の定、レシェンドの腕の中に倒れ込んだままだった。


(まだ俺達は、さっきの同調の影響下にある。だけど情けないことに、身体のほうは全く動かない。まあ、その代わり、こうして精神を同調させることだけはできたけどな)


 セレファンスは落ち着き払った様子でイルゼに語りかけてくる。


(だから、今はお前を助けてやれない。お前を助けられるのは、お前自身だけだ。でも、それを手伝ってやることはできる)

(……でも僕は――きっと、こうなる運命なんだ。無理やり運命に逆らい続けるよりも、このまま……)

(それはお前が本当に望むことなのか?)

(……そういう、わけじゃないけど……)


 セレファンスの問いにイルゼは言葉を濁す。


(だったらそれは、フィーナの思いを裏切る行為だな。俺だって命がけでお前を助けてやったんだぞ。簡単に生きることを放棄されたんじゃ、堪ったもんじゃない)


 意識的になのか、セレファンスは責めるような声で言う。


(大体、運命ってのはな、大概、誰に対しても意地悪なもんだ。だからこそ、抗おうとすることに意味がある。抗わないで終わる運命なんざ、味わいも瑞々しさもない渋林檎みたいなもんだ。お前もすぐになんでも受け入れてないで、少しくらいは反抗してみせろ!)


 セレファンスの凛然とした叱咤は、イルゼの気概に十分な影響を与えた。


 イルゼは常々、不思議に思っていたことがある。自分は人との付き合いに慎重だったはずなのに、どうしてこうも出会ってから日の浅い少年相手に気を許してしまえるのだろうか――その理由が今、分かったような気がする。


 セレファンスはフィーナに根の部分が似ているのだ。素直に感情を露わにし、嘘偽りなく自分と向かい合ってくれるところが。それがもたらす信頼と安心感が、空色の瞳を持つ二人に共通するところなのだ。

 フィーナの明るく裏表のない性質は、ともすれば本音を隠して生きようとするイルゼを、その息苦しさから難なく解放してくれた。それにセレファンスも似たようなところがある。そんな二人が有する伸びやかな精神がイルゼを惹きつけたのだろう。


(……分かった、なんとか頑張ってみる)


 イルゼはセレファンスの想いに応える形で決意する。

 その答えにセレファンスは良く言った、とばかりに満足そうな気配を伝えてきた。


(でも、どうやって、この状態から抜け出せばいい? 今じゃ本当に身体が動かないから剣も扱えない。〈マナ〉だって……どうやって顕現すればいいのか――)


 どうにか決心はつけたものの、やはり不安と自信のなさを隠しきれないイルゼに、セレファンスは大丈夫だと力強く答えた。


(そのために、こうして俺がお前に話しかけてるんだから。手伝ってやることはできるって言っただろう?)


 不安に押し潰されそうになりながらも、なんとかイルゼは頷くことができた。自分自身の力は信用できなかったが、セレファンスの言葉なら信じてみようという気になれた。


(大丈夫、きっと上手くいくさ。お前には、その力があるんだから)


 イルゼの不安を見抜いているかのように、セレファンスは言う。


(ただ、今は詳しく説明してやれる余裕はない。このまま完全に取り込まれると、お前が元に戻れなくなる。とにかく、やるべきは何も考えずに俺の教える言葉を復唱すること。いいな?)

(……言葉を? 復唱するの?)

(ああ。俺のあとについて間違えないように唱えればいい)

(……分かった――)


 イルゼはセレファンスの言葉に頷く。


(じゃあ、いくぞ)


 二呼吸ほどののち、セレファンスの朗々とした声がイルゼに伝わってきた。


(『叡智に宿りし聖霊よ、我は其の下にあり、其は我が力なり』)


 ……これは――どこかで、聞いたことのあるような――……


 イルゼの脳裏には一瞬、そんな思いがよぎったが、その思考はすぐにしなければならないことに押しのけられる。

 セレファンスの声に従って、一言一句の間違えもないように、イルゼは細心の注意を払って復唱をし始める。


(『現象の器に寄りて集まり』)

(『現象の器に寄りて集まり』)

(『混沌の凪ぎ間を光で満たせ』)

(『混沌の凪ぎ間を光で満たせ』――)


 セレファンスの声を聞き、イルゼは正確な復唱を続けた。


 それはどこか不思議な韻を含む言葉だった。初めて耳にしたはずなのに、慣れ親しんでいた歌のように馴染みを覚え、心の奥で深い感銘を持って響き渡った。長い間、忘れ去っていた大切なものを思い出したかのような、歓びと感嘆が心身を満たす。


 叡智に宿りし聖霊よ、我は其の下にあり、其は我が力なり

 現象の器に寄りて集まり、混沌の凪ぎ間を光で満たせ

 始まりの海は礎を築き、新たなる創造は恩恵の先となる

 我は其の下にあり、其は我が力なり

 現象の祈りを聞き届け、歓喜の灯火を頭上に与えよ――


 イルゼの記憶の中に正確な譜はあった。少年は分からないどこかに郷愁を馳せるようにして、不思議な言葉を歌い続けた。




 これは――まるで光の大樹だ。

 目の前に出現した光り輝く巨大円柱を目にして、レシェンドは言葉を失うほどに圧倒されていた。


 突然、イルゼが唱え始めた不可思議な言葉。それに呼応するかのように彼の身体を軸にして、光の柱は成長する一本の木のように勢い良く天に伸びていった。

 そして薄暗い濃霧に満たされていた上空は、光柱の放つ光を孕んで純白の天蓋となった。

 レシェンドが形容した通り、一瞬にして生み出された光の造形は、凛々しく美しい大樹を思わせた。


 ……セオリムの村での光景と良く似ている――


 今回と同等の恐怖を味わった出来事をレシェンドは苦々しく思い起こした。


 あの時もイルゼが創り出した〈マナ〉が暴走した結果だった。今回は制御が取れている様子ではあるものの、その現実離れした凄まじさは少しも変わらない。


 レシェンドは知らず知らずのうちに身震いをした。それは、この美しく荘厳な光景に対してではない。あまりにも強大過ぎる資質に対して。未知数の可能性を持つ少年への恐怖だった。


(セレファンス様……)


 レシェンドは胸に抱いた自身の命よりも大切な主君を見た。


(これ以上、このようなことは、もう二度と……!)

「う……」


 レシェンドの思いに反応したかのように、幼さの残る容貌が目覚めの前兆を表す。


「セレファンス様! お気づきになられましたか……!」

「……レシィ?」


 瞼の奥から現れた青い双眸は、ゆっくりとレシェンドを捉える。


「俺は……ずっと気を失っていたのか?」

「ええ――そうです。大事に至らず、本当に良かった……」


 そう呟きながら、レシェンドは己の不甲斐なさに心を潰される思いだった。


 イルゼと出会ってからというもの、彼女は大切な主君を危険にさらす機会が多くなっていた。その元凶は確かに鳶色の髪の少年にあるのだろうが、それを防げない未熟さは己にあることをレシェンドは痛感していた。しかし、それでも彼女がイルゼに向ける感情は、決して良いものにはなり得なかったが。


 事実、レシェンドは先程、危機に陥るイルゼを見てこのように思っていたのだ。やはりあの少年は、セレファンス様の身に危険を及ぼす悪因となる、ならばいっそのこと、このまま彼女らの望む通りに――と。


 それが叶っていたのならば、レシェンドはイルゼから常に与えられる恐怖から逃れることができていただろう。彼女の大切な主君を害するという可能性の恐怖から。


「なあ、レシィ」

「……はい?」


 レシェンドは卑劣だと自覚する考えをおくびにも出さず、唯一無二の存在である金髪の少年に柔らかく応じた。


 イルゼが造り出した光の大樹を目にしたまま、セレファンスはどこか夢現のように呟く。


「レシィ、やっぱりあいつがそうだったんだ……あいつが、俺達の求めるものを持っている」


 レシェンドは軽く目を見張った。それに気づくことなく、セレファンスは言葉を続ける。


「〈ディア・ルーン〉の継承者。ずっと、ずっと探してた――本当は少し諦めかけてたんだ。でも、諦めないで旅を続けてきて良かった。これでやっと――やっと俺は、母上や姉上の想いに応えることができるんだ……」

「セレファンス様……」


『真に主君が望むことを見届ける覚悟を持て』


 以前に自分へと向けられた言葉がレシェンドの胸に蘇る。


(……もう後戻りはできないということか)


 これはいつから逃れられない運命として紡がれ始めたのだろうか。イルゼを助けた時からか。それともセレファンスが旅を決意して、それに伴うと決めた時からか。……いや、それよりも、もっとずっと以前、自分が敬愛する人達を守れずに償いを求めた時からなのか。


(……何故、彼ら一族ばかりが苦しまなければならないのか)


 いつだってレシェンドは納得がいかなかった。同じ立場であるはずの他の一族は、なんら責任を持たずに存在しているというのに。ならばセレファンスだけが責め苦を負う必要などあるはずはないというのに。そう思っていたはずなのに。


「……綺麗な樹だな」


 目を細めるセレファンスに、レシェンドは小さく頷いた。


 二人が見つめる光の大樹は、その輝きに衰えを見せることなく、霧に包まれていた空間をどこまでも満たしていった。

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