第13話 守護樹

 イルゼ達が目的の地へと辿り着いたのは、午後が少し過ぎ去ったばかりの時分だった。

 途中、メリルが持参した弁当で昼食を取ったり、美しい花々が咲き乱れる原っぱに寄ったりと楽しみながら歩いていたせいか、終始、疲労を感じさせない道程だった。これもメリルが一緒だったおかげだろう。


 そんな一行を迎え入れたその地は、激しさと静けさが同居するような場所だった。

 とうとうと流れる水音と、心が静穏になる冷たい空気。鬱蒼とした深緑の中には豊水をたたえる天然の水瓶があり、白い飛沫を放つ滝が絶えずしてその中へと注ぎ込まれていた。


 そこはまさにラヴィニアの言っていた通りの場所で、しかも何故か、ここの一角だけは鬱陶しい霧が晴れていた。周囲の木々からは幾本もの柔らかな木洩れ日が射し込んでいて、神秘的な雰囲気を作り出している。


 イルゼ達は暫くの間、はっきりと目に映る美しい風景に、ただ声もなく魅入っていた。


「……確かに聖域と呼ぶのに相応しい場所だな。それに、ここだけ妙に霧が晴れてるし……」


 この清浄な空気に感化されたのか、セレファンスは密やかな声で呟いた。それにイルゼも頷いて、


「きっとここが、ラヴィニアさんの言っていた守護樹の枝が安置されている場所だよね。でも、ここのどこにあるんだろう……?」


 実のところイルゼ達は、枝の正確な位置を知らされてはいなかった。ラヴィニアに訊ねても、行けば分かるとしか答えてくれなかったのだ。


「行けば分かるって言ったってなあ」


 そう言ってセレファンスは肩を竦め、辺りを左右に見渡す。


「目印も何もないのに、どうやって捜せって言うんだ?」

「とにかく、まずは辺りを捜してみましょうか? 恐らく小さな祠などに安置されているのではないでしょうか。皆で手分けして捜せば案外、簡単に見つかるかもしれませんよ」


 女騎士の提案に、セレファンスは「そうだな」と気を取り直したように頷いた。


 かくしてイルゼ達は、枝の安置場所を求めて周辺を探索することになった。メリルなどは宝捜しでもしているかのように辺りを楽しげに駆け回っている。

 そうして半時ほどを捜し回っただろうか――彼らは誰が見ても渋い顔つきで、水際近くの一ヶ所に集まっていた。


「……ない、な」


 ぼそりと呟くセレファンスに、レシェンドは困ったような表情を浮かべた。イルゼも小さく溜め息をつく。メリルは、はしゃぎ過ぎて疲れたのか、イルゼの隣で眠たげに目をこすっていた。


「行ったら分かる? 全くどこがだ。こんだけ捜しても、それらしいものさえ見当たらないじゃないか」


 セレファンスの苛立ちはもっともだった。イルゼにしても、ここまできて目的の物が見つからないとは肩透かしもいいところだ。


「……どうされますか?」


 レシェンドが遠慮がちにセレファンスへと問う。


「どうされるも何も、ここまできたんだ。見つけないわけにはいかないし、守護樹の枝がなければ儀式自体、成立しないわけだし」


 イルゼはセレファンスとレシェンドの会話を聞きながら、少しばかり憂鬱な気分になって水辺を見やった。すると、水の中をユラリと黒い影がよぎる。


(……なんだ?)


 魚でもいるのだろうか、と思い、イルゼは目を凝らした。


「イルゼお兄ちゃん?」


 メリルが首を傾げてイルゼを見上げてくる。


「うん、ちょっと……何かいるみたいなんだ」


 イルゼはメリルから離れて、揺れる水面に歩み寄った。


 水際に立ち、そこを覗き込んだイルゼの目に冴えない自分の顔が飛び込んでくる。それはユラユラと揺れて歪み、今にも泣き出してしまいそうにも見えた。

 イルゼはしゃがみ込んで、そっと水鏡の中の自分に触れてみる――


(……冷たい)


 指先に伝わる清涼な水の感触。それ以外にイルゼの気を引くものは何もない。


(なんだ、気のせいか――)


 そう思ってイルゼが立ち上がろうとした瞬間、彼の手首には力強い何かが絡みついていた。


(えっ?)


 脳裏が異変を感じ取ったのと同時に、イルゼの身体は水の中へと引きずり込まれる。


「イルゼ!?」


 盛大な水音にまぎれて、セレファンスの驚愕が耳に届いた。それを最後に、イルゼの感覚は水中のものへと切り変わる。


 肌を覆い込む冷たさ、上下の判断がつかない浮遊感、外界から遮断された聴覚――。

 何が起こったのかを全く理解し得ないまま、イルゼはそれらに支配された。そして、自分の右腕をしっかりと掴んで深みへと引きづり込んでいく容赦のない力。


 イルゼは必死に抵抗を試みたが、だんだんと深淵に連れられていく自分が理解できた。


(苦し……! なんで、こんな……っ)


 とても耐え切れずにイルゼは息をついた。もちろん、空気のかわりに吸い込むものは冷たい水だ。


 もう……駄目だ――!


 そんな諦めがイルゼの中によぎった――と、その瞬間。


「何やってんだ、この馬鹿!」


 耳元で怒声が響く。気がつくとイルゼはセレファンスの腕に抱きかかえられて水面に顔を出していた。


 そのままイルゼは岸辺に向かって引かれていく。

 岸辺に着くとセレファンスは自力で、イルゼは激しく咳き込みながらレシェンドの手を借りて陸に上がった。


「イルゼお兄ちゃん、大丈夫っ……?」


 メリルが困惑に満ちた声音をかけてくる。


「全く小さな子供じゃあるまいし、変なところで手間をかけさせるなよな!」


 そう言って顔をしかめたセレファンスは、自身の様相を振りかえって「ああ、びしょびしょだ」と情けなく呟いた。


 そんな非難がましい声を聞きながら、イルゼは自分に起こった出来事を茫然と思い起こす。そして、脳内に理解が駆け巡ると、慌てて説明を口にしようとした――が、すぐに異常な引っかかりを胸に覚えて再度、激しく咳き込む。どうやら胸の奥に、まだ水が残っていたようだった。


「泳げないのに、なんで水に落ちるような真似をするんだ」


 セレファンスの呆れ果てた声にイルゼは「違う!」と叫んだ。


「水から、何かが伸びてきて……! 引っぱり込まれたんだ! この池、何かいる!」

「――はあ? 何か?」


 イルゼの訴えにセレファンスが眉を顰める――と、それは同時だった。


「セレお兄ちゃん、後ろ!」


 メリルが悲鳴を上げた。その声に一同は振り返る。そこで彼らが見たものは、なんとも奇怪な光景。


 水面の中央に一本の太い枝がはえていた。それは先程まで、そこにはなかったもの。今、まさに出現したものに違いなかった。


「な……」


 彼らの視線が集まる中、その枝はグニャリと身悶えるようにして揺らめいた。それはまるで、柔らかい皮膚を持つ生き物のような動きで――そして次の瞬間、こちら側に切っ先を向けて突進してきたのだ。


「なっ……嘘だろう!?」


 セレファンスは叫び、それが言い終わらないうちに、その不気味な先端はイルゼの間近まで迫っていた。


「危ない、よけてっ!」


 鋭い警告が鼓膜を打つ。しかし、それでもイルゼは動くことができなかった。すると、硬直したままの身体が横からの乱暴な力で突き飛ばされる。

 イルゼは地に転がり、直後、その視界に入ったものは、今まで自分が座り込んでいた位置に突き刺さる太い枝だった。あのまま、その場にとどまっていたのならば、今頃は……言うまでもないだろう。


「何をしている、早く立って!」


 イルゼの腕を掴み、レシェンドが厳しい表情で叱咤した。ここでイルゼは自分を突き飛ばして串刺しの運命から救ってくれたのは、彼女だったのだと気づく。


「森の中へ!」


 女騎士の指示に一行は全速力で走り出す。メリルはセレファンスの腕に抱き抱えられ、荷物のように運ばれる。


 そうして脱兎の如く逃げ出そうとしたイルゼ達は、何か大きなモノが水面下から迫り上がってくる水音を聞いた。


「う、あ――」


 思わず背後を振り返ってしまったイルゼは、言葉にならない声を洩らした。目の前で起こっている出来事が、とても現実のものとは思えなかった。


 水中から現れたそれは、樹齢数千年かと思われるほどの巨大な樹だった。しかし、それは普通の樹ではない。ゴツゴツとした太い幹は大蛇のようにくねり、甲殻虫の足に良く似た枝は地をまさぐって全身を陸地に這いずり上げようとしていた。そして一部、盛り上がった部分の幹が異様な胎動をし始め――そこの木皮がめくれ上がると、大きな丸い目玉がイルゼ達をギョロリと見つめた。


「こんなものが本当に、この世に存在するなんて!」


 こうした存在をイルゼは良く知っていた。まさに化け物と呼ぶに相応しい姿は、フィルファラード大陸に伝わる神話や伝承には必ず登場するものだったからだ。それは〈闇からの支配者〉に生み出された〈闇の従属〉という存在だった。


 しかし、それはあくまで神話の中だけの存在。まさか、こんなものが実在していようなどとは思ってもみなかった。そして、こうして目の当たりにする日がこようとは――


「イルゼっ!」

「え?」


 いきなりセレファンスに腕を引かれ、よろめくようにイルゼは後方へと下がる。

 寸前まで彼らが立っていた地面に化け物の枝――通常の樹の幹に相当する太さのそれがのめり込む。


「気をつけろ! 殴られたら一貫の終わりだぞ!」

「……!」


 セレファンスの鋭い警告を受けながら、イルゼは身を震わせる。

 一行は再度、化け物から遠ざかるために走り出した。


 幸いなことに奴の動きは鈍重で、いまだに半身が水に浸かっている状態だった。だが、長い枝での攻撃は執拗で激しく、逃げるイルゼ達を容赦なく苦しめた。


「全く……! こんな目に遭うとは思ってもみな」


 そこまで吐き捨てたセレファンスが、驚愕の表情を閃かせる。次に彼の身体は空中で半円を描き、もろに肩を打ちつけるような体勢で地面に倒れ込んだ。


「セレ!」


 その横を走っていたイルゼは慌てて立ち止まる。


 腕に抱えていたメリルを庇うようにして地に転がったセレファンスの足首には、茶色の蛇のような枝が絡みついていた。


「くそっ……!」


 呻きながら立ち上がろうとするセレファンス。と、そんな彼の背後に、新たな太い枝が迫るのをイルゼは見た。


「セレ!!」


 イルゼは悲鳴を上げる。しかし、それが金髪の少年を救う要素には成り得ない。セレファンスは腕の中の少女を咄嗟に自分から突き放した。


 その刹那、イルゼは何かをどうこうしようと考えたわけではない。ただ、感情や思考でもない何かに強く突き動かされ、咄嗟に自身の身をセレファンスと化け物との間に呈していた。


「ば……!!」


 その時、イルゼの耳にセレファンスの短い非難が聞こえた。それと同時に、イルゼは迫りくる太い枝の恐怖に双眸を閉じる。

 次の瞬間、身を掬うような衝撃が身体中に走った。続いて空中へと放り出される浮遊感――。意識が薄れそうになる中、セレファンスも一緒に巻き込まれたのがイルゼにはなんとなく分かった。


 ……ズザザザザザアッ――!


 胸が浮くような感覚を経て、イルゼは身体中を木々に弾かれながら落下した。次には、ぼすんと低木に受け止められる。


「……うう」


 身体中が痛い。チリチリとする。イルゼは枝葉に埋もれて呻きながらも、ゆっくりと確かめるようにして身をもがく。

 ……どうやら骨は折れていないようだ。身体の痛みは打撲というよりも木々に弾かれた擦り傷のようで、立って歩けないほどでもないだろう。


 よくこの程度で済んだものだとイルゼは自分を受け止めてくれた低木から抜け出し、思わず安堵の息をついた。


「イルゼお兄ちゃん!」


 自分を呼ぶ声が聞こえてイルゼは顔を上げる。


「メリル」

「イルゼお兄ちゃん……無事で良かった、良かったよぉ……っ」


 メリルはイルゼに駆け寄り、その傍らに座り込むと半べそ状態で声を震わせる。それにイルゼは微笑み、小さな少女の頭を軽く撫でた。


「うん、なんとかね……。それよりもメリル、セレを捜してくれないか? 多分、僕と一緒に飛ばされたんだ。きっと、この辺りにいると思うから――」

「セレお兄ちゃんなら、さっきレシィお姉ちゃんが……」

「――ああ、いたいた!」


 メリルが言い終わらないうちに聞こえた少年の声。

 それにイルゼが振り向くと、レシェンドを伴って近づいてくるセレファンスの姿があった。


「セレ! 無事だったんだ、良かった……!」

「ああ、歩けるくらいにはな。もっとも身体中は痛いが……イルゼは? どうだ?」

「うん、僕も取りあえずは、なんともないけど」


 よくよく考えてみれば、これは奇跡に近いことなのかも知れない。あれだけ思い切り撥ね飛ばされたのならば、大怪我どころか即死してもおかしくはないはずなのに。


 そこでふと思い至ってイルゼはセレファンスを見た。


「もしかしてセレ、君、何かしたの? 前に見せてくれた君の不思議な風の力――〈マナ〉を使ったとか。あの時、あの化け物に殴られた瞬間、何か不自然な空気の抵抗があって、あまり痛くなかった気がする……」

「ああ、咄嗟にしては上出来だっただろう?」


 イルゼの問いにセレファンスは少しばかり得意げに答えた。


「俺達の周りに、集積した風を起こして衝撃を緩和させたんだ。あとは落下する時に茂みの中へと落ちるように調節した」


 それを聞いてイルゼは「やっぱりセレは凄いんだな」と思った。あの咄嗟の中で、それだけの判断をやってのけたなんて。


「あの化け物は今、木々の中に飛ばされた俺達のことを見失っているみたいだ。まずは、このまま奴の死角から見下ろせる位置まで移動しよう」


 セレファンスの言う。先程までは守護樹の枝を探し回り、ある程度の地理を把握できていた甲斐があり、丁度良く敵の全貌が見渡せる場所まで移動できた。


「それにしても、あれは一体、なんなのでしょうか? まるで樹の亡霊のような……。もしかして、守護樹の枝と何か関係があるのでは?」

「さすがはレシィ、鋭い」


 女騎士の見解にセレファンスは少し愉快そうに頷いた。


「あれはまさしく守護樹の亡霊だな。だから、あれを退治しないことには、恐らく俺達の目的である守護樹の枝は手に入らないだろう」

「あれが……守護樹の亡霊?」


 確信を持っているかのようなセレファンスにイルゼは眉を顰める。


「なんでそんなこと、セレに分かるのさ?」

「んー……分かるっていうか、今の段階では勘ってヤツかな。でも勘とは言えど、それに基づく理由はあるけどな」

「理由……?」


 再びイルゼが眉を顰めると、セレファンスは「メリル」と幼い少女を呼んだ。


「なあに、セレお兄ちゃん」


 何故か少し緊張した面持ちで、メリルはセレファンスの傍らに寄って行く。


「メリルはあの化け物、どう思う?」


 唐突にセレファンスが少女へと問うた。それにイルゼは訝しげにセレファンスを見る。


 何故、彼がそんな問いをメリルに投げかけるのか、イルゼには分からなかった。そんなこと、この幼い少女に分かるわけがないだろうに。


 だが、問われた側の少女は、少しの戸惑いを見せながらも、


「……あのね、あれは守護樹様の枝に真っ黒なモノが絡みついて生まれたものなの……」


 そう小さな声で答えた。

 イルゼは驚いてメリルを見つめる。幼い少女は悪さを咎められた子供のように身を竦めていた。


「そうか、分かった」


 セレファンスは頷く。そして少女の目の高さに合わせてしゃがみ込むと、


「ありがとうな、メリル。教えてくれて。メリルは俺達を心配して、ここまでついてきてくれたんだろう?」


 聞く者を安心させるかのような声音に、メリルはそろそろと顔を上げ、コクリと頷いた。


「メリル、お兄ちゃん達は好きだから」


 幼く純粋な眼差しでもって、少女は金髪の少年に言った。


「うん、俺もメリルが好きだよ。イルゼだって、そうだろう?」


 急に話を振られてイルゼは驚いたが、すぐに「もちろん」と力強く頷く。


「ありがとう、イルゼお兄ちゃん」


 メリルはどこか儚げに微笑む。途端、イルゼの胸に苦い痛みが走った。

 彼の大切な少女も、同じような微笑みを残して逝ってしまった。そんな彼女とメリルの笑顔が、ふと重なったためだった。


「ですがセレファンス様……あんな大きな化け物を、どのようにして退治するおつもりですか?」


 もっともな問題を口にしてレシェンドは渋面になる。いつもそつなく難題をこなす彼女だったが、さすがにあの巨体に対しての妙案は思い浮かばないようだった。


「まあ、それが一番の問題なんだが――だけど、イルゼの力添えがあれば、なんとかなると思う」


 そう言ってセレファンスはイルゼに透き通った夏空色の双眸を向ける。


「イルゼ、お前の力を貸して欲しい」

「……力ってまさか、僕の〈マナ〉のことを言ってるの?」


 イルゼの確認にセレファンスは強い期待を滲ませて頷いた。それにイルゼは唖然とし、無理だよとかぶりを振る。



「そんなの無理だ! できっこないよ、そんなこと……!」


 途端、言い様のない恐怖に駆られて、イルゼはか細い悲鳴を上げる。

 その脳裏には、セオリムの村での凄惨な光景が鮮やかによみがえっていた。


「僕はセレとは違う、君みたいに、この力を上手くなんて扱えない……! 僕にはできない、絶対に無理だ!」


 そうだ、できるわけがない――イルゼは心底、そう思う。大体、そんなことができるのならば――この力を自由自在に使うことができていたのならば、きっとセオリムの村は救えたはずだ。フィーナだって守ることができたはずなのだ。それなのに今更、この力を使おうだなんて!


「嫌だ、絶対に嫌だっ……!」


 目を瞑って拒絶するイルゼの耳に「いいから話は最後まで聞けって」と穏やかな声が届くとともに、ぽんと頭の上に温もりが乗る。

 それに驚いてイルゼが顔を上げると、セレファンスの手の平が自分の額に置かれていた。


「お前に〈マナ〉を使えだなんて、一言も言ってないだろ。使わなくていいんだ、ただ俺に貸し与えてくれさえすればいい」


 金髪の少年は柔らかく目を細めると、イルゼの髪を軽く撫でてからゆっくりと手を下ろす。


「……か、貸し与えるって? どういうこと?」

「ほら憶えてるだろう? 俺がお前に初めて〈マナ〉を使って見せた時のこと。あの時、俺はちょっと紙を吹き飛ばそうと思っていただけなのに、何故か予想外に強い〈マナ〉が顕現されてしまった。結果、上手く制御できずに大騒ぎになってさ。あの時も同じだったんだよ。お前が無意識に俺と同調して、大量の〈マナ〉を俺に与えたんだ」


 その説明にイルゼは困惑する。いまいちセレファンスの言っていることが理解できなかったからだ。


「……何を言っているのか分からない」


 これ以上、その話は聞きたくないとばかりにイルゼは呟いた。その子供じみた態度にも、セレファンスは小さく苦笑しただけで話を続ける。


「そうだな、ええと……簡単に言えば、俺達二人は協力することで、より強力な〈マナ〉を顕現できるってことだ。本来は〈マナ〉の同調っていうのは相当に難しい行為で、それなりに訓練が必要なんだが――お前の持つ〈マナ〉は何故か無属性で柔軟性に富んでいる。だから風が主属性の俺の〈マナ〉と拒絶反応を起こすこともなく、すんなりと同調できるんだ」


 イルゼは以前、セレファンスから〈マナ〉の属性についての講義を受けていた。今、それを思い出す。


 この世に存在する全ては、精霊が管理する地水火風の基本属性と後援属性が入り混じった物質で成り立っているという。存在を形成する要素を基本属性と呼び、存在を存続するのに必要な要素を後援属性という。あえて例えるとするならば、人間の肉体の多くは水分でできているが、その人間は食事をしないと生きられない――これに添うと、肉体を形成している水を始めとした物質の属性を基本属性、食事が後援属性となる。


 後援属性は生まれた場所や育つ環境、または生き方や行動で大きく左右するので人間に限ると千差万別。つまり農業を生業とする者は地系が強く、船乗りであるのならば風や水系が顕著になる。


 そして〈マナ〉の主属性――〈マナ〉持ちが顕現できる属性は基本的に一種類のみであり、後援属性が強く影響する。通常は生後数ヶ月、遅くとも幼年期までには固定され、その後に変化することはほぼない。精霊は独占欲が強く、一度、自属性となった者は手放さず、己の影響下に留め置こうとするからだと言われている。


 また〈マナ〉を顕現するためには資質のほかに精霊からの扶助が必要不可欠となる。これは〈マナ〉が精霊の力を源としているためだが、彼らからの扶助を受けるのには、その寵愛にかなう魂の持ち主でなければならない。ただし、その寵愛にかなうのには何が必要なのか、どのような人間であれば良いのか、はっきりとした理由は分かっていない。

 なんにしろ〈マナ〉を顕現するためには、精霊のお眼鏡にかなう者でなければならないという。


 セレファンスの場合、扱う〈マナ〉の属性で分かる通り、風の精霊からの寵愛を受ける身だ。ところがイルゼの顕現する〈マナ〉には、普通ならばあるはずの属性がないというのだ。


「もしかしたらお前の〈マナ〉は、精霊の力が源じゃないのかもな。普通とは違う類いの力が働いているのかも知れない。とにかく、お前の〈マナ〉は同調に適してるってのだけは確かだ」


 セレファンスの説明を聞き終え、イルゼは思わず大きな溜め息をついた。


 正直、〈マナ〉の同調などと言われても、自覚がないだけにピンとこない。自分に関わり過ぎている事柄の割には、あまりにも他人事のような感覚でしかなかった。


「……納得したかしないかは別として、セレの言っていることは一応、理解できたよ。でも、だからといってどうすればいいのさ? 正直、そんなの僕には全く自覚がないんだ。大体、あの時だって宿屋を破壊しそうになったくらいなのに」

「大丈夫、それについては確認済だ。さっきだって咄嗟だったにも関わらず、俺はお前からの協力を得て、力を発動させることができたんだから。だから次だって、きっと上手くいく」


 セレファンスは自信たっぷりの笑みを閃かせ、それにイルゼは眉根を寄せた。


「それって、どういう――」

「ほら、ついさっき、あの化け物に跳ね飛ばされただろう? あの時のあれだ」

「……あの時のあれって、まさか」


 セレファンスが風の〈マナ〉を起こして化け物からの攻撃を緩和させ、落下地点を木々の中に調整したことで、奇跡的に惨事から免れた先程の出来事。


「そうさ、あれは同調したからこそだ。俺はお前の〈マナ〉を譲り受けて風の威力を強化したんだ。あの時は精霊に十分な扶助を願う暇もなかったから」


 だからセレファンスは咄嗟にイルゼと同調し、譲り受けた〈マナ〉を合わせて風の〈マナ〉を顕現させた。


「でも正直、あんなに上手くいくなんて思わなかった。一か八かの賭けだったんだ。恐らく、お前が本当に俺を助けたいって思ってくれたおかげなんだろう」


 だからありがとうな、とセレファンスはニッコリと笑う。そんな彼をイルゼは唖然として見て――

 と、その時だった。落雷が間近で発生したかのような轟音が鼓膜をつんざいたのは。


「わっ……!」

「きゃあっ」


 あまりの地揺れに、イルゼとメリルが悲鳴を上げる。セレファンスは上空を見上げて「見つかったか」と顔をしかめた。


「セレファンス様!」


 レシェンドが叫んだ。刹那、彼女の背がイルゼ達の目の前を遮る。しかし、その姿はすぐさま横に飛び去っていった。


「レシィ!!」


 今度はセレファンスが叫び、巻き添えをくった土や草木とともに勢い良く宙を舞ったレシェンドの身体を目で追う。

 それから地面へと叩きつけられた女騎士を確認すると、金髪の少年は慌てて彼女に駆けつけようとしたが、それは叶わなかった。レシェンドを跳ね飛ばした太い枝が、再びイルゼ達へと伸びてきたからだ。


 セレファンスは鞘を走らせて怒りに満ちた一閃を放ち、その枝を見事に切断する。しかし、新たな枝が横から現れる。金髪の少年は再び攻撃を放つが、またしても新たな枝が一行を襲った。


「くそっ……! きりがない!」


 忌々しげにセレファンスが吐き捨てる。と、イルゼ達の上に薄暗い帳が落ちた。

 見上げると、先程まで地に横ばいとなっていたはずの化け物が、その巨大な身体を立ち上げ、イルゼ達を威圧するが如く天上に存在していたのだ。豊盛とした深緑が空を覆い、それが荒れ狂う海原のようにうねり、その内から伸びる幾本もの太い枝が自分達を狙って揺らめいていた。


「ひっ……うっ、あ、わあああああああっ!」


 イルゼは限界に達した恐怖から悲鳴を上げる。すると、それが合図となったかのように、太い枝の集団がイルゼ達へと突き進んできた。


「親愛なる風の精霊よ!」


 セレファンスが声高に叫ぶ。


「我が意を知り、我が声を聞け! 汝の力を此の内に授け、我が望みを扶翼せよ!!」


 その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、周囲の空気に不自然な変動が起こる。そして、たちまちセレファンスの手前に激しい風圧が生じて、それは空気の塊のようになって化け物へと打ち出される。


 ドゥンッという鈍い衝撃音。と同時に、化け物の伸ばした太い枝が見えない力によって押し留められる。ギシ、ギシシ、という力と力のせめぎ合いによる音が不気味に鳴り響く。


「っ、イルゼっ――手を、手を貸してくれ! 俺の〈マナ〉だけじゃあ、持ちこたえられないっ……!」


 セレファンスが苦しげに顔を歪めながら、イルゼに向かって手を伸ばしてくる。


「で、でも……っ」

「迷ってる暇なんてあるか!! このままだと全滅なんだぞ!? メリルを助けるんじゃなかったのかっ!?」

「っ……!」


 セレファンスの怒号に、もはや選択肢がないとイルゼは観念した。


(もう、どうとでもなれ!)


 心の中で叫び、覚悟を決めてイルゼはセレファンスの手を掴んだ。


「――!?」


 初めに感じたのは、思ったよりも冷たくて繊細な手の感触。続いて身体全体を支配する目くるめく浮遊感。


(な、んだっ……?)


 心臓を掬われるかのような心地、精気を吸い取られるが如く、快感を覚えるかのような感覚――。


 思わずセレファンスの手を振り払おうとしたが、思いのほか強く握られていたため、その束縛を解くことはできなかった。


(な、んだ、これ……! ヘンだっ……嫌だ!)


 恍惚とした眩暈が、身体と感情の均衡を狂わせ、イルゼは堪えきれずに膝を地に落とす。

 気を抜くと、凶暴な衝動に駆られそうになる。脳内に生じた真っ白な渦が、イルゼの理性を吹き飛ばそうとしていた。


 この感覚、どこかで――ふとイルゼは記憶を手繰る。

 ……ああ、そうだ、あの時と似ている。セオリムの村で、限りなく力を放出した時と同じ……!


「ぐうっ……!」


 隣でセレファンスが苦しげに呻いた。見ると彼も地に膝をつき、顔を苦渋に歪めていた。


「セレっ……?」


 その様子があまりにも辛そうだったので、イルゼは彼を支えようとして、その肩に手を伸ばす。


「っ、あ゛……あっ、あああああああああああ!!」


 イルゼが触れた途端、セレファンスは絶叫を上げる。


「うあっ……!?」


 イルゼのほうも、一気に脱力するような感覚を覚えて咄嗟に彼から手を引いた。


(今のは……っ?)


 どうやら自分とセレファンスとの間には、何か特殊な影響が働いているようだった。


 セレファンスは言っていた。大丈夫だ、必ず上手くいくと笑っていた。だが、きっと彼は自身の危険を理解していたところで、それをイルゼに決して伝えはしないだろう。


「セレ、こんなことはもうやめよう! このままじゃ、きっと君が……!」


 どうなるのか――イルゼには予想ができた。セオリムの村では憎悪に駆られたまま、そうして相手を力で押し潰したのだから。


 やっぱりこんなこと、はっきりと断るべきだった。自分の力は一体、なんのために存在するのか。いつも誰かを苦しめてばかりで、誰一人、救えずにいる――

 しかしセレファンスは、イルゼの手を放すどころか、更に強く握り締めてくる。


「上、見てみろ……!」


 セレファンスの苦しげな声に促され、イルゼは頭上を振り仰いだ。


「……!」


 そこには化け物から伸びた幾本もの枝が空中で鈍くうごめいていた。その鋭い先端は確実に、自分達に狙いを定めている。

 それらは先程、イルゼ達を貫くはずだった。しかし今はセレファンスが保つ〈マナ〉の力によって、その動きは阻まれているのだ。


「今……同調を解いたら……あれが――」


 一斉に襲いかかってくる。


 セレファンスの言葉は最後まで紡がれなかったが、十分に予測することができた。


「セレお兄ちゃん……っ、苦しいの?」


 メリルが泣き出しそうな表情を浮かべて、セレファンスに近寄ろうとした。


「メリル、遠くに離れてろ……!」


 喉の奥から絞り出すような声で、セレファンスはメリルに命じる。しかし少女はイヤイヤとするように頭を振り、それに従おうとはしない。


「お兄ちゃん達、ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 悲痛な声音でメリルは謝罪を繰り返した。何故、彼女が謝らなければならないのか、イルゼには分からなかった。

 幼い少女の啜り泣く声と、セレファンスの苦しげな息遣いを耳にしながら、イルゼは途方に暮れていた。力に翻弄されて地にへたり込むしかない自身にできることなど、何一つ、思い浮かばなかった。


 すると突然、泣いていたはずの少女がすっくと立ち上がる。そして何を思ったのか、迷いなく化け物へと向かって歩を進め始めた。


「……メリルっ?」


 少女の行動にイルゼは慌てるが、それを止めようにも身体が思うように動かない。


「メリル……! 戻れっ!」


 歯痒さに泣き出したくなりながらイルゼは声を限りにして叫んだ。しかし少女は全く引き返す素振りを見せない。そして、ちょうど化け物の真下に辿り着いたところで、やっと立ち止まった。


 化け物の零れ落ちそうなくらい大きな目玉が、小さな少女をギョロリと見据えた。メリルは目の前の現実を恐れ気もなく振り仰ぐ。


「守護樹様、聞いて……!」


 小さな少女は請い願うような声を大樹の化け物に向ける。


「こんなことをしても、森は元には戻りません! 失われたみんなだって……お母さんだって戻ってこない! お兄ちゃん達を困らせて傷つけて……やっぱり、こんなの間違ってるよぉ……!!」


 メリルが叫んだ言葉の最後は、悲愴な感情によって掠れて消えた。そんな少女を二人の少年は息を詰めて見つめる。今では少女に声をかけることは憚られた。


 と、そこに一瞬、ピキリ、と空気がひび割れた。軽い揺れのような、空間にひずみが生じたような――自身の緊張による耳鳴りではなかったかと思えるくらいの小さな響き。だが、何か大きな事変の前触れのような――


 それがだんだんと揺れて顕著になり、セレファンスも異常に気づく。二人の少年は、どちらからともなく上空を見上げた。


「……!?」


 少年達は声を失い、そのさまを凝視した。彼らの見上げた顔に白い欠片が降り注ぐ。二人の視線の先には、先端から化石のように干涸らびていく化け物の姿があった。中でも特に太く大きな枝が、その重みに耐えきれず、今にも崩れ落ちそうになっていた。


 それは案の定、不気味な軋みを発しながら中途から亀裂が入っていく。


「崩れ落ちる!」


 セレファンスが悲鳴を上げた。

 そして、その枝のちょうど真下にいたのは――


「メリル!!」


 小さな少女はイルゼの叫号に反応して振り返った。しかし、そんな彼女の頭上には、先の尖った枝の残骸が迫りくる。


 直後、イルゼは確かに何かを叫んでいた。しかし、なんと叫んだのかは自身でさえ理解し得なかった。

 ただ、それに伴う感情が内側で爆発し、周囲の総てが白く光り輝いたのをイルゼは見た。

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