第12話 メリル

 翌朝、イルゼ達はオルウッド父娘に見送られながら彼らの家を出た。オルウッドはどこか不安そうな表情を浮かべて一行の無事を願い、メリルはすっかり仲良くなった少年達と共に自分も一緒に行きたいと駄々をこねた。


 そんな我が儘をオルウッドから嗜められ、メリルは不満そうに下唇を突き出して俯く。少年達にとっても、せっかく心を許してくれた少女との別れは寂しいものだった。


「そろそろ参りましょう。ラヴィニア様がお待ちです」


 イルゼの背後で彼らの心情など全く配慮しない声が響いた。その声の主はイルゼ達を迎えに訪れた装束着の娘だった。


 イルゼは内心、その無機質な彼女の声音に眉を顰めながらも、少しだけ時間をくれるように頼んだ。イルゼは娘の了解を得てから、俯いたままのメリルに歩み寄り、軽く前屈みになって優しく語りかけた。


「行ってくるね、メリル。きっとメリルと村の人達を助けられるよう、頑張ってくるから」


 ここでメリルは弾かれたように顔を上げた。その幼い面立ちには強ばった表情が浮かんでいたので、イルゼは柔らかく微笑んでみせる。


「あ……」


 メリルは何かを言いかけて口を開く――が、そのあとの句は継がれず、泣き出しそうに表情を歪めると素早く踵を返して家の中へと駆け込んで行ってしまった。


「え……メリルっ?」


 思わぬ少女の行動にイルゼは呆気とし、次には慌てて彼女のあとを追おうとした。しかし、それをオルウッドの腕が軽く制する。


「あとは私が宥めておきますから大丈夫ですよ。それよりも皆様は、ラヴィニア様のもとへお急ぎください」


 どこか有無を言わせぬ声音で促され、イルゼは戸惑いながらも頷かざるを得なかった。


 装束着の娘を先頭に、イルゼ達は昨夜も通った道を今度は逆に辿って歩き出す。暫くしてからイルゼが振り返ると、家の前にはメリルが姿を現していた。その隣にはオルウッドが寄り添っている。だが、それはすぐに分厚い霧に遮られて見えなくなってしまった。イルゼは、もう少し早くに振り返っておけば良かったと後悔した。


 一行は無言で霧に沈んだ薄暗い道を歩み続ける。前をゆく娘は、後続のイルゼ達など少しも気にしようとはせず、まるで彼らがついてこようがこまいが関係ないような風情だった。


 イルゼは重苦しい心地に肩を落とし、隣を歩くセレファンスも気力が涌かないといった様子で溜め息をついた。


「オルウッドさんの特製香茶のおかげで身体の疲れは取れたみたいだけど……こうも朝っぱらから湿っぽくて薄暗いと気分が鬱々してくるな」


 そんなぼやきにイルゼも頷いた。無愛想な娘の態度だけが彼らの気分を滅入らせている原因ではないだろう。体の調子は決して悪くはないのだが、それに気分が伴わない。気を抜くと溜め息ばかりをついてしまいそうになる。


「確かに毎日これでは村人達の体調も悪くなりますね。それが一年も続いているとあっては……」


 レシェンドも同情を寄せるようにして呟いた。


 イルゼはふと昨夜のことを思い出す。メリルは、この森を出たら生きていけないなどと、まるで妄信に近いことを言っていた。あんな言葉を幼い少女に言わせた原因は、この環境にあるのではないだろうか。だとしたら、確かに一刻も早い解放が必要だろう。

 大人は常識という抵抗力で身体に変調をきたすが、メリルのような幼い子供は純粋で経験が浅いゆえに、今の異常な状況を当然のものとして取り込んでしまっているのかも知れない。

 順応が早いと言えば聞こえはいいが、無防備な少女の心が芯から蝕まれていっているようで、イルゼには痛ましく思えた。


 イルゼ達は昨日と同じくして、ラヴィニアの住まいから裏の森へと抜けて小道を進む。そうして守護樹の切り株に辿り着くと、すでにラヴィニアが彼らを待っていた。


 イルゼ達は型通りの挨拶を受けたあと、ラヴィニアに森の更に奥へと続く道の前までいざなわれる。


「ここを道なりに歩いてゆけば、枝が安置された場所へと辿り着くことができます。美しい滝と豊かな水源を湛えた森の聖域とも言えるところですわ。そこまでの距離は、おおよそ三エードほどでしょうか」

「……三エードか、けっこう距離があるな。往復で、たっぷり夕方まではかかるか」


 セレファンスがやれやれとばかりに小さく息をつく。


「この先に危険は?」


 レシェンドがラヴィニアを振り返った。すると彼女は頭を振る。


「こうなる以前は、その豊かな恵みを求めて人が入り込むような森でしたが、このような事態になってからは、その奥へと出かける者はおりませんので正直、今はどうなっているのか――」

「つまり何があっても責任は持てないということですね」


 どこか皮肉めいたレシェンドの言葉に、ラヴィニアは肯定を示すかのように軽く目を伏せた。

 そんな彼女らのやり取りに、二人の少年は小さく肩を竦める。


「まあ、考えたって仕方がないよな。こうなったら、さっさと行って、ちゃっちゃと取ってこようか」


 セレファンスは諦めの入った苦笑をイルゼに向ける。それにイルゼも同じような表情で頷いたのだった。




「はあ……」


 森に入ってから何度目かになる溜め息が、密やかな空気に響き渡った。その溜め息の主であるセレファンスは、さきほどから重たそうに歩を進めている。


「本当に、なんっにも起こらないのな」

「いいじゃありませんか。起こらないに越したことはありません」


 レシェンドがセレファンスを宥めるように言った意見にイルゼも心の中で同意する。このまま何事もなく目的を達成できるのならば願ったり叶ったりだった。


「だけどなぁ……こうしてただ黙々と歩くだけってのは、いい加減に飽きてきたというか。それに分厚い霧も息苦しくて鬱陶しいし」


 どうやらセレファンスは、この霧中の環境に馴染めないでいるらしい。この件に関わり始めてから、どことなく覇気がない。日の下では燦然と輝く金髪も、今では重たく湿気を含んでくすんでいた。


「でも馬車に揺られてばかりいるより、たまにはこういう野歩きもいいと思うけれど。僕も昔、よく森の中を散策して歩いたんだ」


 イルゼは少しでもセレファンスに元気を取り戻して欲しくて、できるだけ明るく言ってみた。


「豊かな森の自然を楽しみながら、散歩をしているとでも思えば――」

「鳥の声も風のさざめきさえもしない濃霧の森を、どうやったら楽しめるっていうんだ?」


 セレファンスはイルゼの気遣いなど全く汲む余地なしで撥ねつけた。そのうえ「こんな陰気くさい森を楽しもうっていう気が知れないな」と、半ば八つ当たり気味の言葉まで付け足す。


 そんな彼の言い草に対して、さすがのイルゼもムッとする。そして売り言葉に買い言葉の状態で、つっけんどんに言い返した。


「悪かったね、気が知れなくて。大体、君が子供みたいな愚痴を言い出すから、こっちは気を遣って――」

「はあ? 誰が子供だって? 言っておくが、俺はお前より二つも年上なんだからな」


 ふんと偉そうに鼻を鳴らしたセレファンスにイルゼは顔をしかめる。


「そんなの、今は関係ないだろう」

「いいや、関係あるさ」

「ないよ」

「ある」

「ない」

「ある」

「…………」


 そこでイルゼは強い嫌気を感じて黙り込む。対してセレファンスは、全く涼しい顔つきで小憎たらしいほどである。


 こうなってしまえば内容のくだらなさなど当人達にとっては重要ではない。だからイルゼも目一杯の反感と苛立ちを込めて、一段と大きくなった声で言い放った。


「もうっ! ないったらない!」

「お二人とも、少しお静かに!」


 ここでレシェンドの抑えてはいるが鋭い一声が上がった。途端、イルゼは攻撃された貝のようになって口を閉ざす。一方、セレファンスはというと、平然としながら「何か気になることでもあったのか?」と、油断なく周囲を窺うレシェンドに声をかけた。


「ええ――先程、そこの木々の向こうに人影のようなものが垣間見えまして……」


 レシェンドが答えた途端、まさにその辺りが不自然に揺れ動いた。ガサ、ガササッと、その向こうから何かが這い出してきそうな様子を見せる。


 一行に緊張が走った。おもむろにレシェンドが剣の柄へと手を添える。彼らが見守る中、草木は揺れ続ける。揺れ続ける、が――


「……?」


 イルゼ達は眉を顰める。何故か、それが一向に姿を現さないからだ。そのうえ、少しも移動をする気配がない。その正体不明の存在は、ただそこにとどまって草木を揺らし続けていた。


 暫く経ってからイルゼは「どうするの?」と伺うようにしてセレファンスを見た。それに彼は困惑の表情を浮かべる。


 一行が対応を考えあぐねていると、葉擦れの音に交じって小さく啜り泣く声音がイルゼの耳に届いた。


 え? とばかりにイルゼがセレファンスを振り向くと、その声を彼も聞き取っていたようで、揺れる草木を凝視していた。


 二人の少年は、どちらからともなく揺れる草木に駆け寄る。そしてセレファンスが木の枝を掻きのけ、イルゼが膝をついてその奥を覗き込むと、


「……メリル!」


 そこには茶色い髪の小さな少女が、緑に囲われるようにして座り込んでいた。大きな瞳には溢れんばかりの涙を溜め、細い肩をしきりにしゃくり上げている。


「イルゼお兄ちゃんっ……!」


 少女が泣きながらイルゼに向かって両手を伸ばしてくる。しかし、その手はイルゼの身体までは届かない。


「痛いよぉ……助けて!」


 少女の悲鳴のような声に、イルゼは怪我でもしているのかと思い至って、すぐさま木の下へと潜り込んだ。


 イルゼが少女の傍まで這いずりよると、彼女は先程よりも激しくしゃくり上げながら親を求める子供のようにしがみついてきた。


「メリルがそこにいるのかっ?」


 外からは少女が見えないのだろう、セレファンスが問いかけてくる。


「うん、いるにはいるんだけど……」


 イルゼはメリルの状態を確認する。どうやら怪我はないようだったが、彼女の長く豊かな髪が周囲の枝葉に酷く絡みついているのが分かった。しかも激しく藻掻いていたためか、簡単には外せそうもないほどになっている。


 イルゼが状況を説明すると「そんなに酷いのか?」とセレファンスが聞いてくる。


「うん、一つ一つ外すのは難しいかも。髪の毛を切るしかないかな……」


 イルゼの何気ない呟きに、メリルがぎゅっと身を縮こませた。するとこちら側を覗き込んだレシェンドが提案をする。


「髪の毛ではなく、まずは周囲の枝を切り落としましょう。それからならば絡んだ髪を外すのも容易になるはずですから。女の子の髪を切るなんて、簡単に言っては可哀想ですよ」


 女騎士の諌めるような声を聞き、イルゼは自分の配慮の足りなさに赤面する。


 まもなくしてセレファンスとレシェンドが周囲の枝を切り落とす作業に取りかかる。イルゼも外に出て手伝おうとしたのだが、メリルが怯えて身を放してくれない。どうしようもなくイルゼは少女にしがみつかれたまま、作業の終わりを待った。


 上部の枝葉が徐々に取り払われ、こちらを見下ろすセレファンスとレシェンドの顔が見えてくる。


「メリル、大丈夫か?」


 セレファンスが声をかけると少女は小さく頷く。さっぱりと周囲を刈り取られた木は、メリルの髪を絡め取る枝と根元しか残っていない状態になった。あとは丁寧に、そこからメリルの髪を外していく。


「これで最後っと……よし、綺麗に取れたぞ」


 少女の乱れた髪を手櫛で整えながら、セレファンスは満足そうに言った。だが、それにメリルは応えず、ただ黙って木の残骸を見つめている。


「……この木がね、痛いって言ってるの……」


 メリルはポツリと悲しそうに呟いた。イルゼは思わず目を瞬かせたが、すぐに幼い子供の感性を理解して頷く。


「そうだね。でも、この木を切らないと、メリルの髪を切らなきゃならなかったから」

「……うん、ごめんなさい――」


 メリルは自身を責めるようにして俯いた。イルゼは一瞬、その謝罪は一体、誰に向けられたものなのだろうかと考えたが、それを改めて少女に問おうとまでは思わなかった。


「それにしてもメリル、まさかここまで一人できたのか?」


 セレファンスが問うと、メリルは気まずそうに小さく頷く。


「じゃあ、オルウッドさんは」


 イルゼは呆れたように呟いた。恐らくオルウッドは、幼い愛娘が森にきていることを知らないのだろう。もしも知っていたのならば、彼がメリルの一人歩きを許すはずがない。レシェンドは渋面になって溜め息をついた。


「きっとオルウッド殿は、メリルさんのことを心配していますよ。今頃は必死で捜していらっしゃるのではないでしょうか」

「……一端、村へ戻る?」


 イルゼは伺うようにしてセレファンスを見た。しかし彼は「これから戻ってたら、完全に日が暮れちまわないか?」と、あまり気乗りしない様子だ。


「でも、このままメリルを連れて行くわけには……」

「あのね、お兄ちゃん」


 メリルはイルゼの声を遮って決心をつけたように顔を上げる。


「メリルね、お兄ちゃん達に忘れ物を届けにきたの」

「忘れ物……?」


 そんなものあっただろうか、とイルゼ達は首を傾げる。


「これ」


 ずずいっと、まるで切り札のように、メリルは手に持っていた籐籠をイルゼ達の目の前に置いた。


「お兄ちゃん達、お昼ごはんを持たないで出かけて行ったでしょう? だからメリルね、この籠にお弁当をいっーぱい、詰め込んできたの」


 メリルは『いっぱい』というところを特に力を込めて言う。


 イルゼ達は、その籠を思わず凝視した。そういえば、ほのかに美味そうな香りが立ち込めている。ちなみに彼らが持参している昼食は、長期保存が可能な味気のない乾燥食ばかりだ。

 ラヴィニアは彼らの昼食にまで気を回してくれたようではなかったし、イルゼ達にしても、それをわざわざ要求するような真似をしようとも思わなかった。だから小さな少女の気遣いがこの上もなく嬉しかったし、有り難くもあった。それに彼女の料理の腕前は、昨夜の夕食で証明されており、否が応にでも期待は高まる。


 少しの沈黙のあと、セレファンスはイルゼを見て、おもむろにニッコリと笑った。


「連れていこうか」

「えっ?」

「メリルは俺達と一緒に行きたいんだよな?」


 セレファンスはイルゼの驚愕を無視してメリルに確認を取る。すると少女は嬉しそうに頷いた。


「――ちょ、ちょっと待って! 本当にメリルを連れていく気? この先、危険があるかも知れないのにっ?」

「大丈夫だって。今まで、これだけなんにも起こらなかったんだからさ」


 イルゼの抗議にも、セレファンスは全く楽観的に答えた。イルゼは信じられないとばかりに語気を強める。


「そんなの、なんの保証にもなってないじゃないか。今まではそうだったとしても、これからは分からないだろう? 大体セレ、君ってば、食べ物に釣られて決めなかったかいっ?」


 イルゼのきつく冷ややかな声音に、セレファンスは「お前って結構、可愛くない物言いをするのな」と不満げに口元を尖らせる。


「まあ、確かにそれもある。だけど、それだけじゃないぞ」

「……他に何が?」

「もちろん、メリルが可愛いからさ」


 すました表情で答えるセレファンスに、イルゼは唖然とした。


 ……なんとなく、この少年の性格が分かってきたような気がする。しかも、自分が相手とするには、かなりの強か者だ――


「そういうことだからさ、メリル、俺達と一緒に行こうな」


 セレファンスは息を詰めて自分の行く末を見守っていたメリルに笑いかけると、その腕に軽々と彼女を抱き上げる。するとメリルは途端、安心しきったように頷いた。


「……レシェンドさん、いいんですか?」


 なんとなく助けを求めるようにしてイルゼは女騎士を振り返る。


「そうですね……まあ確かに、今から村に戻るとなると日が落ちてから森を歩くことになりますから。それに、こうなってしまったら、もはやお聞き入れ頂けそうにはありません」


 軽く肩を上下させて嘆息するレシェンドには、もはやセレファンスを説得する気などないようだった。だがイルゼにしても、これ以上、意固地になってまで反対する気にはなれない。


 イルゼは自分を伺うようにして見ていたメリルに、絶対に自分達から離れないように注意を促す。すると彼女は、それをイルゼの許可として受け取ったのだろう、ほっとしたような笑みで頷いた。


 イルゼは、先程までの不機嫌さはどこへやらのセレファンスと、メリルの嬉しそうな表情を見ながら、随分と気分が軽くなっていることに気がついた。少女との思わぬ遭遇は、イルゼ達の心をすっかりと和ませたようだった。


「さあ、頑張って守護樹の枝を取りに行こうな」


 セレファンスは抱き上げていたメリルを下ろし、今度は手をつないで森の薄暗い道を歩き出す。そんな二人の背中をイルゼとレシェンドが追う。


 かくして彼らは、気鬱でしかなかった森の中に、楽しげな声を響かせながら目的地へ向かうことになったのだった。




「申し訳ありません、ほんの少し目を離した隙に……」


 オルウッドはラヴィニアの静かな視線を感じながら深く頭を下げ続けた。しかし目の前の美しい女性は、冷たく唇を閉ざしたままだ。


 ここはラヴィニアの住まいである住居の一室。イルゼ達が裏の森へと抜けていった部屋だ。恐らくメリルも、ここを通って彼らを追って行ったに違いない。しかも父親のオルウッドにも、村の責任者であるラヴィニアにも、何一つ告げずに。


 オルウッドは娘の勝手な行動を謝罪するために、ここを訪れていたのだった。

 やや暫くしてから、ラヴィニアがおもむろに唇を開いた。


「あの娘は随分と彼らが気に入ったようですね」

「え? ……ええ。娘は良くしていただいたので」


 オルウッドは恐る恐ると顔を上げた。


「あなたもですか?」

「はい?」

「あなたも彼らが気に入りましたか?」


 オルウッドは思わずラヴィニアの表情を見た。しかし、その端麗な面からは、どんな感情も窺えない。


「……そう、ですね――彼らは、良い人達だと思います」


 ラヴィニアの意図を掴めないまま、オルウッドは正直に本音を述べた。すると目の前の女性は、口元を嘲笑の形へと歪ませた。


「そうですか。ですが忘れてはなりませんよ。彼らは我々を虐げ続けてきた存在であるということを」


 そう口にするラヴィニアの瞳は容赦のない鋭さを放っていた。オルウッドは気圧されるようにして再び視線を床に落とす。


「それは……分かっております、十分に……」

「それならば良いのです。あなたの伴侶も彼らに殺されたようなものですからね。あなたも、あの時の屈辱を忘れることなどないでしょう」


 ラヴィニアの感情の薄い声音は、氷点下の鋭さでもってオルウッドの心に突き刺さった。暗に、亡妻への薄情を責められているようで、ますます彼は背を丸めて項垂れた。


「……いやはや、計画というのは、なかなか思い通りには進まないものですね」


 ラヴィニアの背後に立つ几帳の向こうから、どこか愉快そうな男の声が響いてきた。オルウッドはそこに人がいたことを初めて知り、驚いて顔を上げた。


「カルカース殿」


 ラヴィニアが非難がましく几帳を見やる。するとその影から、オルウッドの見知らぬ青年が姿を現した。使い込まれた鞣革の防具で身を包み、腰には一振りの剣を持つ。その姿からして彼は、明らかに外界からの者だった。


「……ラヴィニア様、彼は……?」

「わたくし達を救ってくださる救世主様です」


 茫然としたオルウッドの問いに、どこか突き放したような物言いでラヴィニアは答えた。


「――え、で、ですが、救世主はイルゼさんでは?」


 戸惑いを隠せないオルウッドに、ラヴィニアは眉根を寄せて目を細めた。


「あれは救世主などではありませんよ。カルカース殿こそが、わたくし達の救世主と言える御方」

「私が救世主?」


 ラヴィニアの言葉にカルカースが呆れたように笑う。


「勘違いをしてもらっては困りますよ、ラヴィニア殿。私はあくまで貴女に方向と方法を与えただけだ。それを貴女達の本懐に繋げるかどうかは、単に貴女達次第。私はその願望の礎になるつもりはない」


 口調とは裏腹に柔和な笑みでカルカースはラヴィニアを見た。


「貴女達にとっての救世主はイルゼという少年。救世主とは気まぐれな神から愚かな人間に与えられる憐れな下僕。そして、神の物を神の元へと返すことで人は容赦を得られるというもの――。その意味を理解したからこそ貴女は、私の言葉に耳を傾けた。違いますか?」

「……ええ、そうですね、そうでした」


 軽く挑むような、だが深い悲しみと絶望を隠しきれない口調で、ラヴィニアはカルカースの視線を受け止めた。


「待つだけでは何も得られない、守れない。いつまでも愚かで無知な人間ばかりを贔屓する神と、その摂理に支配される現世に対して従順を示し続けても、我々は何一つ救われない――……」

「ラヴィニア様!」


 オルウッドはラヴィニアの言葉を遮り、悲鳴のような声を上げた。


「ラヴィニア様、これは一体どういうことですか? この男は何者なのですかっ? では、私が彼らを連れてきたのは――!」

「何も傷つかずに何も変わらずに、新たな何かを得ることができると思いますか?」


 相手を射るような目でラヴィニアはオルウッドを見た。


「あなたは初めから分かっていたはずです。それともやはり、はっきりと言わなければなりませんか? あれは過程に必要な供物です。救世主などと持ち上げたのは、彼らに快く協力を仰ぐためです」


 平然と言い放たれたラヴィニアの答えに、オルウッドは声音を震わせた。


「そんな、でも私は――救世主である彼の力が必要だと貴女に言われ、だからこそ私は、イルゼさん達をここまでお連れしたのです。それなのに、そんな『供物』などと――」

「おかしなことを言う。あなたは言葉が変わっただけで、彼らに対して罪悪感を抱くというのですか」


 せせら笑うようなラヴィニアの言葉に、オルウッドは震え、青褪める。


「お話中、大変恐縮ですが」


 言葉を失ったオルウッドと入れ替わって、カルカースがラヴィニアに声をかけた。


「私は、この辺りで失礼させていただきますよ。これでも忙しい身の上なもので」

「貴方の望まれる結果とやらは見届けてはいかれないのですか?」


 ラヴィニアがカルカースを見やると、彼は口角を引き上げる。それは嫌らしい類いの笑みだったが、この青年が浮かべると魅惑的なもののように見えた。


「私は貴女達に期待はしていません。――ああ、悪い意味には取らないでいただきたい。言うなれば私は無精者なのですよ。耕さない畑に種を撒くような真似をしているわけですから。初めから実がなることを期待しているわけではないのです」

「……つまり、わたくし達の件が失敗に終わろうがなかろうが、貴方にとって、どちらでも構わないと」

「まあ、そういうことですね。ですが魅力的な畑であると思えばこそ、種を撒いたのは確かですよ。貴女達が幸いとする結果は、私の望む結果にも繋がるわけですから」


 どこか飄々としたカルカースの態度に、ラヴィニアは皮肉そうに顔を歪め、小さく笑った。


「貴方には貴方の思惑があったとしても、それがどんなものであるにしても、わたくしは貴方に感謝はしておりますわ。このまま朽ち果てる運命にあった我らに、未来へと繋がる希望を与えてくださったのですから――」


 ラヴィニアはカルカースから視線を外すと、小さな灯火のみで光の行き届かない天井へと目を向けた。そして、そのまま自身の思いに耽るようにして目を細める。


 カルカースは暫くの間、そんなラヴィニアの姿を見つめていたが、次には優雅な所作で頭を下げ、


「貴女達の望む新たな守護樹が、この森に宿らんことを」


 朗々とした声音で言い終えると同時に、軽やかに身を翻してオルウッドの横をすり抜けていった。


「ラヴィニア様……」


 部屋を出て行くカルカースを横目に、オルウッドは小さく呟いた。しかしラヴィニアは、呼ばれたことにさえ気づいていないのか、身じろぎ一つもしない。

 オルウッドは再度、口を開きかけ、そして閉ざす。


 自分の心の奥底に、直視し難い真実があるのをオルウッドは確かに感じていた。だが今の彼には、それを見据える勇気など持てそうになかった。


 自分の小さな娘のように、紡ぐべき言葉も取るべき行動も、オルウッドには見出せなかったのだった。

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