第9話 新たな異変

「いやー、あっはっは。まいったまいった、だったな」


 セレファンスは全く悪びれもせずに笑う。イルゼはそれに少々引きつった笑みで応えるしかない。レシェンドは何かを言いたげに渋い顔を作った。


 ここはガタゴトと揺れる質素な造りの荷馬車の上。イルゼとセレファンスは荷台へと乗り込み、レシェンドが御者台で手綱を引く。彼らはまだ夜も明けやらぬうちにトゥエアの町を出立し、今はテオフィルの東街道を北上する。


「全く……笑いごとではありませんよ、セレファンス様。金品で片をつけられることができましたから良かったものの、警備兵にでも知らされたらどうなります。野次馬の宿泊客のように、そう簡単には解放してくれませんよ」


 そう言ってレシェンドはますます渋面になった。


 セレファンスが笑い飛ばす出来事の直後、目尻を吊り上げて駆けつけた宿屋の主人に、レシェンドは間髪入れずに宿泊代金のほかに何枚かの硬貨を彼の手の平へと押しつけ、謝罪を交えて夜間の出立を告げた。

 怒りを発火させるつもりであったのだろう宿屋の主人は、いきなり出鼻をくじかれた様子で弁償というには明らかに多い金額を控えめに確認すると、すぐに女騎士の思惑を正確に汲み取り、受け取ったそれを愛想笑いで懐に収めた。


 そうした経緯でイルゼ達は町の静まる夜更けを待ってから、人目を避けるようにして宿屋を出たのだった。


「分かってるって、レシィ。今度からは気をつけるよ」


 セレファンスは多少、耳が痛いように苦笑する。


「でも、おっかしいんだよなぁ……いつもだったら、あんな大げさなことになるはずなんてないのに。少し紙を吹き飛ばそうとしてただけなのに、途中で訳が分かんなくなっちゃったんだよな……」


 セレファンスは納得のいかない様子で呟くと、ふと思い至ったかのようにイルゼへと視線を向けてきた。


「……何?」


 イルゼはセレファンスの言葉を伴わない視線に、少しばかり怯んだような目で応える。


「いや、別に……まさか、な……」


 金髪の少年は一人ごちると、ゆっくりと流れていく長閑な風景に視線を転じる。イルゼはそんな彼の横顔を眉を顰めて見つめた。


 それにしても……とイルゼは思う。まさか自分と同じ能力を持つ者が、この世に存在するなんて今まで考えてもみなかった。

 聞くとイルゼやセレファンスのように〈マナ〉を顕現できる人間は稀だがいるという。そして全く世間に知られていない存在ではないらしい。


「ようはちょっと変わった才能の一種だな」


 セレファンスは軽く一言のもとに論じた。ただし、やはり物珍しいことには違いないので、むやみやたらに人前で使うことは避けたほうが良いと忠告はされた。

 どうやらセレファンスはイルゼとは違い、その特異な能力を忌むべき対象とは思っていないようだった。


「まあ、確かに煩わしく感じることはあるけどさ」


 能力を持っていることで苦労はなかったのかとイルゼが問うた時、セレファンスは首を傾げながら言った。


「でも、それ以上に助けられていることのほうが多いと思う。俺の家系は俺みたいな力を持つ者がそう珍しくないんだ。母や姉も同じような力を持っていたしな。この能力は俺が母の子だっていう証だ。だから消えてしまえばいいとか、疎ましいとか思ったことは一度もないよ」


 セレファンスの率直な答えにイルゼは「そうなんだ」としか言うことができなかった。あまりにも自分と彼の境遇が違い、何かを言えば全てが当て擦りのように伝わりそうで嫌だったからだ。


 かたや、その能力を当然のものとして周囲から認められていた少年。かたや能力を奇怪なものとして教え込まれた自分。


 セレファンスの立場を羨ましいと思うにはあまりにもイルゼの心情は複雑過ぎたが、能力のことで一切の疎外感を味わわずに育った少年を妬ましくは感じた。


 イルゼは微かな溜め息をつき、セレファンスと同じように風景を眺めようとした、その時だった。


「わ……!?」


 突然、荷馬車が激しく揺れ動き、イルゼは驚愕の声を上げる。


「どうか! どうか我が村をお救いください! 救世主様っ!」


 続けて男の必死な叫び声と馬の甲高い嘶き。


「くっ……!」


 レシェンドは顔をしかめて手綱を素早く手繰る。すると馬は再び嘶き、本来の道から外れて全く舗装されていない草地を激しく突き進んだ。


「わ、わわわっ!」


 イルゼとセレファンスは悲鳴を上げながらも振り落とされまいとして必死に荷台へとしがみつく。

 興奮した馬はかなりの距離を突進するように走ったあと、レシェンドの何度目かの制止を受け入れた。


 ゆっくりと歩みを止めた荷台の上で、一行は揃って安堵の溜め息をもらす。


「……お怪我はありませんでしたか、セレファンス様」


 振り向いたレシェンドにセレファンスは「ああ」と頷く。


「大丈夫だ。それにしても一体、何事だ?」


 怪訝そうに荷台から身を乗り出して街道のほうを見やる。するとそこには、こちら側を茫然と見つめる一人の男が立っていた。


「全く、何を考えてるんだ」


 レシェンドは憤った様子で御者台から降りて、セレファンスに「ここで少々、お待ちください」と告げてから男のほうへと歩んでいく。そんな彼女を見送ると、セレファンスも荷台から身軽に飛び降りて、まだ興奮冷めやらぬ馬の鼻面を優しく撫でてやった。


 暫くの間、激しさの反動のような漫然とした時間が流れる。


「……ねえ、セレ。レシェンドさん達、何か揉めてるみたいだけど」


 荷台の上から彼らの様子を眺めていたイルゼはセレファンスに声をかける。馬の相手をしていたセレファンスは「うん?」という仕草で顔を上げた。


 どうやら男がレシェンドに対して何事かを訴えているようであった。男は身振り手振りを交えて激しく言い募り続けている。さすがのレシェンドも、そんな彼を持て余し始めているようだった。


「……そういやあの人、助けてくれとかなんとか言ってたっけな」


 御者台に登りながらセレファンスは呟き、手綱で馬を軽く叩いて荷馬車を動かし始めた。その場に近づいていくと、男の必死の形相とレシェンドの困り果てた顔が判別できた。


「お願いです、騎士様! どうか、どうか救世主様に話を通させてください! このままでは私達の村が……!」

「救世主だって? どういうことだ、それは」


 荷馬車で近づき、その上からセレファンスが声をかける。すると男はこちら側に驚いた表情を向け、途端、感極まった声音で叫んだ。


「救世主様!」


 しかしその瞳は、問いかけたセレファンスにではなく、荷台上のイルゼに向けられていた。


「救世主様! どうか我が村にお越しいただき、その優れた御力で私達をお救いください!」


 そんな直向きな視線を向けられたイルゼは、目を大きく見開いて困惑する。


「え……ええっ? ちょ、ちょっと待って。まさか、その『救世主様』って……」

「ええ、見まがうことなく貴方様です。ずっと、ずっとお待ち申し上げておりました……! 鳶色の髪と瞳、気品ただよう整った容姿、そして金の髪と黒の髪を持つ凛々しく美しい従者二人。まさにラヴィニア様の予言通りだ!」


 男は狼狽えるイルゼには構わず、自身の感激を露わにする。しかしそこでレシェンドが柳眉を逆立てた。


「金の髪と黒髪の従者だと? なんて無礼な! セレファンス様は従者などではない! それに私は彼ではなくセレファンス様の……!」

「まあまあ、レシィ」


 セレファンスが軽く宥める。それにレシェンドは「しかし、セレファンス様!」と抗議の声を上げた。


「そんなことくらいで、いちいち目くじらを立てなくてもいいだろう? それに『凛々しく美しい』なんて最大級の褒め言葉じゃないか」

「そのような問題ではありません!」


 面白半分苦笑半分のセレファンスに、レシェンドは憤然冷めやらぬ様子で更に眉を吊り上げる。


「それよりもイルゼが救世主っていうのはどういうわけなんだ? 良かったら詳しい話を聞かせてくれないか?」


 セレファンスは柔和な口調で男に問う。すると男のほうも落ち着きを取り戻したように頷いた。


「ああ、すみません。つい嬉しくて……申し遅れました、私の名前はオルウッドと申します。ここから少し東に行ったところの村に住む者です。私達の村は今、とても大変なことになっておりまして……。それを救っていただくために私は、占術の姫巫女であるラヴィニア様のご命令を受けて、ここで救世主様をお待ち申し上げていた次第です」


 男――オルウッドの説明に、セレファンスは「へえ」と興味深そうに応える。


「つまり、その占術の姫がイルゼを救世主だと?」

「ええ、そう言われました。ラヴィニア様の予言では、近くこの街道を一組の旅人が通るだろうとのことでした。そして、その中の鳶色の髪の少年こそが、私達を救ってくださる救世主に成り得るだろうと――」

「ふーん。なんだってさ、イルゼ」

「な、なんだってさ、って言われても」


 感銘の薄いセレファンスと動揺しか見せないイルゼに、オルウッドは少なからず気勢をそがれたような顔つきになった。そこでレシェンドが考え深そうに呟く。


「それにしても、そのラヴィニアという占術師、随分と予言に長けた者のようですね。まあ、セレファンス様が従者などという馬鹿げた部分は完全に外れていましたが」


 いまだにこだわり続ける女騎士に、セレファンスは苦笑を閃かせながら言った。


「その人の能力は占術というよりも〈神問い〉に近いみたいだな。〈神問い〉は明確な応えを得るのが何よりも難しい。俺達の情報を何も持たない状態で、それだけ確かな応えを得られるなんて大したものだ」


 そう評してセレファンスは「うん、興味あるな」と頷いた。


「それで肝心の村の様子はどういったものなんだ? どうしてイルゼの力を必要としている?」


 セレファンスはオルウッドに振り向く。


「それは……口で説明できるものかどうか――。とにかく今は一度、村へおいでいただけませんか? ここからはそう遠くない場所に村はあります。そこで直接、ラヴィニア様より詳しいお話をいただけると思いますので」


 ここでオルウッドは真摯な瞳をイルゼに向けた。


「救世主様――いえ、イルゼ様。どうか我が村をお救いください。私達の村は少し前までは、とても豊かで光に満ちた場所でした。ですが、それも今では見る影もないのです……」


 オルウッドの痛ましい表情を見て、イルゼは胸の奥に重苦しい思いを抱いた。


 自分は大切な故郷であるセオリムの村を守れなかった。そこに住む優しくて温かな人々を永遠に奪われてしまった――。

 そして今、同じように、そんな温かい場所が誰かから失われようとしているのならば。そして自分に救える力が本当にあるのなら、どうにかして助けてあげたいと思った。だが今は……


 イルゼは返答をしかねて黙り込んだ。自分には選択権がないと思ったからだ。そんな少年をオルウッドは縋るように見つめ続けている。


「……行ってみるか」


 そう呟いたのは、もちろんイルゼではない。セレファンスだ。


「ここまで聞かされて『嫌です、はい、さようなら』とも言えないだろう。それともイルゼは行きたくないか?」


 思わぬ問いかけにイルゼは驚いたように頭を振る。


「そんなことはないよ。できることなら、この人達に協力してあげたいと思う」


 イルゼの素直な回答にセレファンスは頷いた。


「分かった。そういうことなんだけどさ、オルウッドさん。村までの案内、頼めるかな」


 軽い笑みで振り返ったセレファンスにオルウッドは喜色満面の顔で「もちろんです」と答えた。


 こうして一行は思いがけずに急遽、旅程を変更することになった。


 二人の少年は今や奇譚的な事の起こりに心を奪われているようだったが、レシェンドだけは納得のいかない複雑な表情を浮かべていた。




 鬱蒼と盛り上がった深緑にイルゼは思わず深呼吸をした。胸に冷たくて気持ちの良い空気が流れ込み、荷馬車に揺られ続けて硬くなっていた身体がゆっくりとほぐれていくようだった。


 イルゼ達は今、立派な木々が寄り合ってなった森の入り口に立っていた。だが入り口とはいっても獣道よりはまし、といった程度の道が伸びているだけだ。知っていなければ見過ごしてしまいそうな小道だった。


「この先に私達の村があります」


 オルウッドは森の奥に続く道を指差して言った。


「こんな細い道の奥に?」


 イルゼは少しばかり眉を顰めて、その道の先を覗き込む。どうやら近くに村があるわけではないらしい。少なくともここからは人の気配を窺うことはできない。


 そんなイルゼの様子にオルウッドは少し困ったような表情を向けた。もしかしたら不審に思われているとでも感じたのかも知れない。


 イルゼは自分の非礼に気がついて慌てて弁明しようとしたが、オルウッドは苦笑いで「いいんですよ」と首を振った。


「珍しいとお思いでしょう。こんな薄暗い森の中に村があるなんて。でも知っていますか? この大陸は元々、殆どが木々で覆われた自然豊かな大地だったんですよ」


 そう言ってオルウッドは目を細めて森を仰ぎ見る。


「ですが聖皇と呼ばれるシエルセイドが大陸に入り、それに伴って渡ってきた人間達が無造作に開墾を繰り返したために豊かだった森は見る見る間に減ってしまいました。この大陸で生きる者達にとって、森が周囲にあることは当たり前のことだったのに……。ですが今の私達にとれば、ここにある辛うじて残った森を護ることだけで精一杯ですが」


 オルウッドの話を聞いてイルゼは驚いていた。話の内容よりも聖皇シエルセイドの行いを悪く捉える人間がいたことに驚きを感じていた。


「でも聖皇シエルセイドのおかげで僕達の祖先は、この大陸で暮らせるようになったのでしょう? 確かに森を破壊し過ぎたことは褒められることではないでしょうけど……」


 イルゼの率直な考えにオルウッドの表情が複雑に歪められた。それは怒りとも悲しみともつかないような――


 それを見た瞬間、イルゼは口にした言葉を後悔したが、すぐにオルウッドはにっこりと笑った。


「まあ、こんなところで大昔の話をしてもどうしようもありませんね。申し訳ありません、変な話をしてしまって。さあ、私達の村へご案内いたしましょう。皆も首を長くして待っているはずですから」


 そう言って身を翻し、さっさと先を歩き始める。何やら無理やり話を切ったとも思える態度に、イルゼは少々肩すかしを食らったような気分になったが同時に安堵もする。


 一行が暫く歩みを進めると広めの道に出た。荷馬車が悠々と通れる道幅だった。


「やっぱり、馬だけでも連れてきたほうが良かったかな」


 セレファンスは森の入り口で置き去りにした馬のことを思って後ろを振り向いた。そんな彼にオルウッドは「心配なさらなくても大丈夫ですよ」と言葉を向ける。


「村に着いたら、すぐに使いを出しますから。遠回りになりますが、迂回をすれば大きな道からも村に入ることができるんです。そちらの道から馬はお連れしましょう」

「……まあ、馬も森に入るのを嫌がってたしな。あれを連れて歩くのはちょっと辛いし」


 セレファンスは仕方がないかと肩を竦めた。

 本当は荷台から切り離して連れて歩くつもりだったのに、何故か馬は凄まじい勢いで抵抗したのた。そのまま無理をすると暴れて逃げ出してしまいそうだったので、イルゼ達は仕方なく彼を置き去りにしたのだった。


(確かに、この森は少し不気味だものな)


 オルウッドに悪いと思ったので口には出さなかったが、イルゼは周囲を窺って身震いをした。入る前は清々しいとさえ思えたのに、いざ中へ入ってみると思っていた以上に薄暗く、湿っぽい空気が常にたゆたっていた。


「それにしても……何か嫌な霧が出てきましたね」


 レシェンドが憂うように辺りを見渡す。濃霧が立ちこめ、視界は近くをも見通しがきかなくなっていた。


「大丈夫です。もう少しで村ですから」


 オルウッドは周囲の重苦しい風景とは裏腹に、にこやかに微笑んだ。


「…………」

「セレ、どうかしたの?」


 どこか厳しい表情をしたセレファンスに気づき、イルゼは小声で声をかける。


「何か――おかしい」


 金髪の少年は独白のように呟いて立ち止まると、急に行く先とは逆の方向へと歩いていく。


「え……ちょ、ちょっと、セレっ?」


 止める間もなくセレファンスの姿は濃霧に巻かれ、すぐに見えなくなった。


(ど、どうしよう――)


 追いかけたほうがいいだろうか? だがこの深い霧だ。下手に別行動をとれば合流できなくなるかも知れない。ここは一旦、すぐ前を行くレシェンド達に知らせて――


 そう思っていた矢先、先程とは逆にセレファンスの姿が徐々に見えてきた。イルゼはホッとして胸を撫で下ろす。


「この霧だし、一人で歩き回らないほうがいいよ」


 目の前まで戻ってきたセレファンスにイルゼは安堵の溜め息をついた。が、対称的にセレファンスの表情は硬いままだった。


「……俺は今、真っ直ぐに歩いていったんだ。ここに引き返してきたつもりはなかったんだけどな」

「え?」

「これは、どういうことだ? オルウッドさん」


 セレファンスはイルゼの背後に視線を送った。そこには静かな表情を湛えたオルウッドが立ちつくしていた。


「……すみません。こんな状態を皆さんに話せば、絶対にきていただけないと思ったんです」

「ええっと――つまり?」


 イルゼはなんとなく嫌な予感を察しながらもセレファンスに答えを求める。


「つまり、だ。俺達はこの森から出られなくなったんだよ。恐らく事が解決するまではな」


 セレファンスは視線のみをずらしてイルゼを見やった。そして「馬が暴れた時点で気づくべきだったのかもなあ」などとぼやきながら自身の湿った金髪を掻き上げる。


 ……今、聞いた限りでは、自分達は途轍もなく大変なことに巻き込まれてしまったのではないだろうか――


 イルゼはそう思ったのだが、隣にいる少年のあまり深刻そうには見えない様子に、どうにも判断のつかない心境で霧に満ちた天空を仰ぎ見たのだった。

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