第7話 別れ

 一体、どのくらいの時を泣き続けていたのだろうか――

 イルゼは漫然とした意識の中で天井を眺めた。


 今の頭の中は、泣いてすっきりしているというよりも、疲れきって停滞しているような状態だった。身体の感覚は鈍重でだるく、目に映る全ては薄暗く霞んで見えた。


 仰向けに寝転がったイルゼの胸の上には、フィーナの遺髪として渡された白い布の包みがあった。


「……フィーナ……」


 その包みにそっと手を乗せて今はもういない恋人の名を呟く。すると再び涙が溢れ出てきたので、イルゼは頭の片隅で、いくら流しても涙は枯れないのだなとぼんやり思った。


(これから、どうしようか……)


 村に、戻ろうか――。ここは確かトゥエアの町だと聞いた。そこは村の大人達が良く買い出しに出かけていた先だった。だとしたらセオリムの村からはそう遠くないはずだ。


 だが、戻ってどうするというのか。あそこにはもう、自分を待つ者も、村の温かな暮らしも、何一つ残っていないというのに。


 見通しのきかない行く末を思ってイルゼが途方に暮れていると、コンコンと部屋の扉が鳴った。


「入っていいか?」


 続いてかけられた躊躇いがちな声。先程のセレファンスという少年の声だった。


 イルゼは一瞬迷ったが、特に断る理由は思いつかなかった。それに世話になっている以上、無碍な対応をするわけにもいかないと思ったので、すぐに寝台から起き上がり、濡れていた頬を手で拭うと「どうぞ」と答える。


 静かに扉が開き、金色の髪の少年が入ってきた。その手には木の器や林檎を乗せた盆を持っている。


「食べ物を持ってきたんだ。腹減ってるだろうと思って」


 少年はイルゼのいる寝台に近づいてくる。そして「これで顔を拭いたらさっぱりするぞ」と濡らして絞った厚手の布を差し出してきた。


「ありがとう」


 イルゼは少年に気後れしながらも布を受け取った。それを涙で腫れた眼窩に押しつけると、ひんやりと冷たくて心地が良かった。きっと水に浸したばかりのものを持ってきてくれたのだろう。


 次にイルゼは黄色みがかった白濁色の食べ物が入った木皿を手渡された。それは何かをすり潰してドロリとさせた堅めのスープのようなもので、イルゼが今までに見たことのない料理だった。湯気と共に香る匂いは悪くなかったが、あまり美味そうには見えない。


 そんな思いがイルゼの表情に見て取れたのだろう、セレファンスは少し苦笑いをすると、


「今までの四日間、ずっと眠りっぱなしで何も食べてなかっただろう? だから今は消化にいいもののほうがいいんだ。そういうことだから今はそれで我慢してくれよ。でも、味は保証するぞ」


 そう言って近くにあった椅子を引き寄せ、寝台の傍に腰をかける。


 正直、イルゼはあまり空腹を感じてはおらず、どちらかというと口に物を入れたくない気持ちのほうが強かった。だが、せっかく運んできてくれたセレファンスに悪いと思ったので、無理やり匙を持ち上げて料理を口に含んでみた。


「…………」


 反応を止めたイルゼに、セレファンスは期待を込めた視線を送ってくる。


「どうだ?」

「……おいしい」


 お世辞ではなく自然と感想が零れた。こくのある甘みと程良い塩加減が絶妙で、まろやかで優しい味だった。


「これ、ここの宿の人が?」


 イルゼの問いにセレファンスは首を横に振る。


「いいや、レシィが作ったんだ。宿の台所を借りてな」


 レシィというと、先程一緒にいた女性のことだろうか。背の高い黒髪の美女だったのをイルゼは思い出す。


「あの人、君のお姉さん?」


 違うだろうとは思ったが、他に上手い訊ねようがなかったのでイルゼはそう聞いてみる。案の定、セレファンスは違うと答えた。


「まあ、そういう存在ではあるけどな。彼女はレシェンドって名前で、今は買い出しに出かけてる。あとから改めて紹介するよ」


 それにイルゼは頷くと、今度はきちんと完食をするつもりで、その料理を食べ始めた。

 そんなイルゼをセレファンスは暫く見守っていたが、盆の上に乗っていた林檎とナイフを手に取ると、その皮剥きに専念し始める。


 暫くの間、お互いに無言で、それぞれの作業に没頭する。


 イルゼは器の中身があとほんの数掬いになった頃、ふとセレファンスに視線を向けてみた。セレファンスはイルゼの視線に気づかない。一生懸命に手の内の林檎と格闘していた。


 恐らく林檎の皮を剥きたいのだろうが、皮どころか身までも剥いている。しかも先程から始めていたにもかかわらず、まだ半分にも達していない。これでは剥き終わる頃には日が暮れ、食べるところなど残らないだろう。


「……代わろうか?」


 イルゼは器の中身を食べ終えてから、見かねてセレファンスに声をかけた。このままでは彼の指まで剥いてしまいかねないと思ったからだ。


 するとセレファンスは驚いたように目を上げ、照れくさそうに苦笑いをした。


「案外、簡単そうに見えて難しいな」

「……もしかして、皮剥き、やったことないの?」

「ああ。レシィがやってるのを見て、挑戦してみたいとは思ってたんだ。でも、あいつに見られるとすぐに止められるからな」

「…………」


 イルゼはセレファンスに対して、何か微妙なズレを感じてしまった。


 大体、イルゼにとれば林檎など皮を剥いて食べる代物ではない。そのまま丸かじりをしたり、ただ半分に割って食べるほうが美味しいと思う。


 恐らくセレファンスは裕福な家の出なのだろう。思い起こせばレシェンドという女性は、彼に対して敬語と敬称を使っていた。


「貸してみて」


 イルゼはセレファンスから林檎とナイフを受け取ると、それをスルスルと剥いてみせる。セレファンスは、そんな流れるような所作に「へえ、上手いもんだな」と感嘆の声を上げた。


 そんなことで感心するセレファンスが可笑しくてイルゼは思わず笑いを零した。


「こんなの、村の女の人達なら誰だってできるよ。男達だって、芋の皮を剥いたり、魚をさばいたり……。僕は一人暮らしだったから、特に上手いって言われたけどね」


 そういえばフィーナも「イルゼはナイフの扱い方が上手いわね」と感心してくれたことがあった。あれは確か、去年の収穫祭の準備で料理の下ごしらえを手伝っていた時のことだったか――


 と、ここで突然、イルゼの両目から涙が零れ落ちた。それを見たセレファンスは顔を強ばらせる。ふいのそれにはイルゼ自身も驚き、慌てて涙を拭う。悲しいと思うよりも先に、涙のほうがいち早くに反応したようだった。


「ご、ごめん。ちょっと、村でのことを思い出して――」


 口に出すと一層、涙が溢れ返り始めた。イルゼは人前で泣くことの恥ずかしさに混乱して慌てるが、そんな思いとは裏腹に涙は流れ続ける。


 セレファンスはイルゼから無言で林檎とナイフを取り上げると、代わりに先程の濡れた布を渡してくれた。そして見て見ぬ振りをするように、林檎の皮剥きを再開させる。


「…………」


 そんなセレファンスの気遣いをありがたく思いながら、イルゼは顔に布を押しつけて、不安定に揺れ動く感情を落ちつかせようとした。


「……俺もさ、同じだった」


 ぽつりとセレファンスが呟いた。イルゼは少しだけ布から顔を上げる。セレファンスは林檎に目を落としたままだ。


「俺が六歳の時だから今から十年も前の話だな。俺も目の前で母と姉を殺されたらしいんだ。遠方に向かう道中に多勢の賊に襲われて。そのあと、いくら涙を流しても流し足りなかった――」


 イルゼはセレファンスの説明に違和感を覚える。


「らしいって……?」


 自分の目の前で起きた出来事を推測のように語るのは不自然だった。


「覚えてないんだ」


 セレファンスは手元から顔を上げて苦笑する。それは自虐のように痛々しい笑みだった。


「本当は記憶がないわけがない。母と姉は、とてもおぞましい状況の中で殺されていったのだけは確かなんだ。それなのに俺は、その光景を覚えていなかった」


 幼いが故に耐えられない出来事だったのだろうと、周囲の者達はセレファンスを労ったという。


「皆は仕方がないと言ったけれど、ようは俺に、それを受け止められる強さがなかったってことだ。だから、あの後は感情だけが苦しくて悲しくて辛かった。そして今でも思い出せないでいるのは、子供の頃と全く変わらず、俺に真実を受け止めるだけの勇気がないからだろうさ」


 そう言ってセレファンスは口元を歪めて自嘲する。だが、それに失敗したかのように顔を歪める。


「でも母と姉は、必死に俺をかばいながら、誇り高く死んでいったのを、なんとなく覚えてる気がする……」


 セレファンスは表情を隠すようにして、再び手元の林檎に視線を落とした。


「俺はお前に結構きついことを言ったけど、あんなこと、本当は俺が言えた義理じゃないんだ。お前は偉いし強いと思う。きちんと辛い記憶を持ったまま、こっちに戻ってこれたんだから」


 俯いたままのセレファンスをイルゼは漫然と見つめた。柔らかそうな金色の髪が、窓から差し込む日の光に薄く輝いていた。


「……偉くなんかない。あそこから戻ってこれたのは、フィーナと君のおかげだったんだから。それに僕は、怒りに任せて――取り返しのつかないことを」


 あの光の中で指摘されたことを思い出し、イルゼは苦渋を顔に滲ませた。そんなイルゼをセレファンスは痛むような目で見る。


「きっと俺も母と姉が殺された時、お前のように強い〈マナ〉が使えたとしたら、同じようなことをしていたかも知れない。でも……それじゃ駄目なんだよな、きっと。父が言ってたんだ。強い力を持った者は、それに伴う強靭な精神力と自覚を持たなけりゃ駄目だって。強過ぎる力は一瞬にして自分のみならず周囲にも影響を与えるから……その時の感情だけで突っ走ることは、多くの人間をたった一部の一時的な激情に巻き込むことになるんだって」

「でも僕は……あいつらが、あの力に巻き込まれて死んだことなんて少しも後悔していない! でも、してないけど……!」


 あの時、自分の中で煮えくり返った憤怒と憎悪。そして確かに感じていたであろう小さな快感と優越感。それらに身を任せてイルゼは彼らの上に力を振るった。自分は彼らと同じ――違うのは理由という出発点だけで、行きついた先は全く同じだったのだ。


 だがもしもあの時、思いとどまって彼らを容赦していたのならば――自分の中の憎しみは、いつかは昇華されたのだろうか。それとも一生、後悔することになったのだろうか。それはもはや確かめようもないことだったが、はたして今の苦しみとどちらが良かったのだろうか?


 セレファンスは少し長めの沈黙の後、小さく息をついた。そして静かな声でイルゼに話しかけてくる。


「どうするべきかだったなんて今更、俺は言わない。言える立場でもない。ただお前が今、苦しんでいるのは確かだから……それが今回の件で得た答えだと思う」

「……うん、分かってる。僕は間違ってたんだ……奴らと同じで、凄く醜くて許されないことをしたんだね……」


 イルゼの悲痛に満ちた声音と表情にセレファンスは歯痒そうに片目をしかめると、自身の金髪をクシャリと掴んだ。


「あのさ、間違ってたとか許されないとか、そういうことじゃなくてさ。俺が言いたいのは、つまり――お前の持つ能力は武器と同じなんだってことだ。使い方によっては大切な人や自分を守れるけど、その一方で誰かの命を奪ってしまう可能性がある。武器を扱うってことは、常にその理由と相手の命を奪うかも知れないっていう結果を天秤にかけなきゃならないんだ。それらをきちんと理解せずに武器を振るい続けていると、気づいた時には取り返しのつかないことになっているかも知れない。そうなったらきっと、自分の心だってボロボロになっちまうだろう。だから今回のように、自分が酷く傷ついて悲しむような力の使い方だけはするな。お前は奴らと同じなんかじゃないし、醜くもないよ。きちんと天秤の計りを見誤ったことが分かってるんだから」


 セレファンスの言葉にイルゼは泣き出したい思いに駆られる。それと同時に今まで心の大部分を支配していた大量の澱が、ゆっくりと流れて薄くなったような気がした。


 嘘でもいい、気休めでもなんでもいい――こうして人に言われることで、こんなにも救われるものだと初めて気がついた。思えばフィーナは、どれだけ数多くの言葉で自分を救い続けてきてくれたのだろうか。


 イルゼは感情を吐き出すようにして大きく息をつくと、セレファンスが手に持ったままだった林檎を指差した。


「それ半分、もらえないかな」


 イルゼの要望にセレファンスは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに「ああ」と頷いた。そしてやはり危なげな手つきで林檎を半分に割ると、その片方をイルゼにくれた。


「ありがとう」


 多くの意味を込めてイルゼはセレファンスに礼を言った。それを感じ取ったのか、セレファンスは軽くかしこまって「どういたしまして」と微笑んだ。


 イルゼは不格好な林檎を口元に運びながら、フィーナのことを思い起こしていた。


『それがどんなに恐ろしい力だったとしても、その力を持っているのは、あなたなのに? どうして私が、あなたの持っている力を怖がらないといけないの?』


 それはフィーナが優しい微笑みと共にイルゼにくれた言葉だ。


(……もう二度と絶対に、この力を憎しみで使うものか)


 自分を愛してくれた少女のためにもイルゼは心の中で誓う。


 窓から見える外の景色は、そろそろ夕暮れの時刻を告げていた。あと一時もすれば、すぐに闇の帳が辺りを覆い、あの時と同じ暗闇の世界が訪れるだろう。だが、それでも時間が経てば、光に満ちた朝が巡りくるのだと今は思えることができた。


(……フィーナ、最後まで僕を信じてくれて、助けてくれて、本当にありがとう――)


 目を閉じて、イルゼは心の中で祈るように呟く。今は遠くへといってしまった優しい栗色の髪の少女に届くことを願って。

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