第二章

第6話 金色の髪の少年

 目覚めると、そこには見慣れない天井があった。


 ここはどこで、自分は何故こんなところにいるのだろうか――と、イルゼは記憶の糸を手繰ろうとしたのだが、途端、頭の奥で鋭い痛みを感じてあっさりと挫折した。それを耐えてまで、模索に耽ろうという気にはとてもなれなかった。


 イルゼは自分の置かれた状況を簡単に確認してみる。


 そこは小さな寝室だった。恐らく午後のものであろう淡い光が小綺麗な室内を穏やかに満たしており、その壁際の寝台に自分は寝かされていた。身にかけられた毛布は柔らかく清潔で、気を抜くと再び睡魔に引き込まれそうだ。


 記憶にない場所には違いなかったが、身の危険を感じる要素は一切なかったので、取り合えず様子をみてみようとイルゼは考えた。顔をしかめながら少しばかり身をよじる。身体のあちこちが鈍く痛みを発し、節々の間接が嫌な悲鳴を上げる。はっきり言って、この上もなく最悪な気分だった。


「お、やっと目を覚ましたのか?」


 そんな声と共に、ひょいと自分を覗き込んできた見知らぬ少年。イルゼは突然の出来事に訳が分からず、その顔を凝視してしまった。


「お前、ここ四日間、ずっと熱に浮かされて眠りっぱなしだったんだぞ」


 金色の髪と青い瞳をした少年は、安堵したように笑いかけてくる。そして、断りもなくイルゼの額に手を添えると、もう一方の手の平を自身の額に当てて「うん、熱は下がったみたいだな」と満足そうに頷いた。


 そんな少年をイルゼは呆気となって見つめた。


 どちらかというとイルゼは人に触れられることが好きではない。よほど親しい者ではない限り、どうしても不快感が込み上げてしまう。ましてや初対面の者から今のように軽々しく触れられることは、不愉快以外の何物でもないはずだったのだが、何故かこの少年に対しては嫌な感覚を持たなかった。


 ぼんやりとイルゼが少年を見続けていると、彼は気がついたかのようにニッコリと笑った。


「ああ、心配するな。ここはトゥエアっていう町の宿屋だ。気を失ってたお前を、どこかで休ませなきゃって思って泊まったんだ。それにしても四日間も目を覚まさないから心配してたんだぞ。まあ、医者の見立てでは極度の疲労ってことだったから、もう大丈夫だろうが――でも、まだ休んでたほうがいいからな」


 少年は牽制のように言ってから寝台脇の卓上に近づくと、陶器の水差しを手に持って杯に水をそそぐ。それからイルゼに向かって起き上がれるかと聞いてきたので、彼は頷き、倦怠感に耐えながらもゆっくりと半身を起こした。


 水の満たされた杯を手渡され、それにイルゼはのろのろと口をつけた。すると乾き切っていた口内に潤いと水の甘味が広がった。あとは欲するままに全ての水を飲み干した。


 ほっと一息をついたイルゼに、少年は「もう少しいるか?」と問いかけてくる。イルゼは少し戸惑いながらも頷いた。


「……ありがとう。あの、君は――」

「ああ。俺の名前はセレファンスだ。よろしくな」


 金色の髪をした少年――セレファンスは、人好きのする笑顔で自己紹介を済ませる。そしてイルゼの手から杯を取り上げると、再び水差しのある卓上に向いた。


 イルゼはセレファンスと名乗った少年を改めて見てみる。


 歳は自分より少し上に見える。綺麗に整った顔立ちは凛としていて大人びてはいるが、垣間見せる無邪気な笑顔は快活でやんちゃな印象を与える。そして柔らかく輝く金糸のような髪と、相手を真っ直ぐに見つめる青い双眸。

 まるで透き通った夏の空みたいだ、というのがイルゼの持った印象だった。煌めく金の髪は初夏の太陽に似ていて、青い瞳は草原を抱く蒼穹を思わせた。


(ああ、そういえばフィーナの瞳も、春の空のような柔らかい色をしていたっ……け……)


 何げなく浮かんだ思考は、イルゼの中の全てを止めた。


 ……何か、触れてはいけない琴線に触れたような気がする――


 背中に、ひんやりとした嫌な汗が滲み出る。感情が何かに侵された前触れのように、ざわざわと落ち着きなく揺れ動いた。


「イルゼ?」


 セレファンスが訝しんだ声で自分の名を呼んだ。


 次の瞬間、何かがイルゼの脳裏で決壊した。今まで鳴りを潜めていた様々な記憶が、イルゼの中で秩序なく氾濫を起こし始める。


「うあっ――あ、ぁ、あああッ……!? あッ、あぁあああ、あああああっ!!」


 イルゼは堪らず頭を抱えて悲鳴を上げる。身体中に激しい震えが起こり、あちこちの筋肉が四肢を引きちぎらんばかりに引きつれた。


「お、おいっ……大丈夫か!?」


 セレファンスの焦った声が聞こえる。しかしイルゼのほうは、それに答える余裕などなかった。


(頭が痛い! 嫌だ……! 怖い!!)


 水面に迫り上がる泡のように、様々な光景がイルゼの脳裏で弾けた。


 真っ赤に染まって燃える村、道端に転がった動かぬ人々、硝子玉のように変わり果てた空色の瞳――


(……違うっ、こんなの違うっ! こんなのは全部、全部嘘だ――!!)


 思い切り破り捨てるようにしてイルゼは全てを拒絶した。


「セレファンス様? どうかなさったんですかっ?」

「あ、ああ、レシィ。それが、急に――」


 困惑に満ちたセレファンスの声と、新たに現れた耳慣れない女性の声。


「フィーナは……フィーナはどこ!?」


 なければならないはずの声がないことに気づき、イルゼは力任せにセレファンスの腕を鷲掴みにする。


「うわっ」


 いきなり腕を取られたセレファンスは、驚愕の表情をイルゼに向けた。


「フィーナは、フィーナは――!?」


 必死にすがる思いで、イルゼはセレファンスの身体に掴みかかった。あまりにも乱暴に掴んだためか、金髪の少年は軽く顔をしかめる。


「やめろ!」


 強い非難に満ちた女性の声が上がった。続いてセレファンスを庇うようにして彼女は彼らの間に割り込んでくる。その力にイルゼは押し退けられて、体力のない老人のようによろめくと寝台の下へと転がり落ちた。


「わ……! お、おい、大丈夫かっ?」


 慌ててセレファンスが倒れたイルゼの傍らに膝をつく。


「……フィーナ、フィーナは……?」


 イルゼはセレファンスの声には応じず、茫然と床を見つめたまま、恋人の名前を呟いた。


 何がどうなっているのか。何一つ、現状が理解できなかった。何故、自分はこんなところにいて床に座りこんでいるのか。自分に何事かを言う周囲の者達は、一体なんなのか。


 だが今のイルゼにとっては、それらのことなど、どうでも良いことだった。ただ、あの優しい少女の声を一刻も早く聞きたい――それだけを強く願った。


 セレファンスはイルゼに黙って肩を貸すと、彼を持ち上げるようにして寝台の端へと座らせた。イルゼを押しのけた女性も、それを慌てて手伝った。


 なすがままに寝台へと戻され、イルゼは暫くの間、抜け殻のようになって座っていた。やがて虚ろな視線をセレファンスに向けると、心を占める想いを拙く口にした。


「……ねえ、君――君は知らない? フィーナを、栗色の髪をした女の子を。一体、どこに行っちゃったんだろう……。でも、きっと、どこかで僕を待っていると思うんだ。だから早く行って安心させてあげなくちゃいけないのに……」


 イルゼは本当にそう思っていた。今もどこかでフィーナは自分を待っていて、自分は彼女を捜さなければならないのだと。彼女に必ず戻ると約束したのだと。

 ぼんやりとイルゼは部屋の中を見回した。いるはずのない、少女の姿を求めて。


 セレファンスは一瞬、苦々しい表情を閃かせた。だが次には気を落ち着かせるようにして吐息をつくと、真っ直ぐにイルゼを見つめてこう言った。


「イルゼ、フィーナは死んだんだ。セオリムの村を襲った賊の手にかかって」


 抑揚のないセレファンスの声を、イルゼはきょとんとした表情で受け止めた。セレファンスは更に続ける。


「お前は知っているはずだ。教会堂にいたフィーナは婚礼の衣装をまとっていた。あれは彼女が死んでから、お前が身につけさせたんだろう? 違うのか? だったら分かっているはずだ――フィーナは死んだんだ。辛いだろうが現実を受け入れろ。じゃないと、また何度でも同じことを繰り返すぞ」


 無視できない真摯さで、セレファンスは同じ意味の言葉を繰り返した。


 イルゼは数回、瞬きをした。セレファンスに言われた単語が頭の中で理解を伴わずにグルグルと巡る。感情が困惑に満たされた。

 そんなイルゼをセレファンスは静かに見つめていた。


 イルゼは徐々に怒りと苛立ちを覚えていく。自分に訳の分からないことを言い、惑わそうとする目の前の少年が、途轍もない悪意の塊に見えた。


「……嘘だ、嘘をつくな! フィーナは死なない、死ぬわけがないっ! だって、僕達は教会堂で結婚式を挙げて、これからはずっと一緒に暮らしていくんだから! そうフィーナと約束をしたっ……だから――!」

「だから『死なない』って? ……違う。お前はフィーナの最期を教会堂でみとったはずだ」

「……なんでそんなこと、君に分かるんだよ」


 イルゼはセレファンスの知り得るはずのない事柄を聞き咎める。たとえそれが事実であったとしても、この少年にそんなことが分かるわけなどないのに。


 敵意と悪意のこもったイルゼの態度に、セレファンスはムッとした表情で口を開きかけた――が、すぐに閉じた。それをイルゼは勝ち誇ったように見やる。


「ほら、やっぱり嘘なんだ。見てもいないくせに、もっともらしいことを言って。君は嘘つきなんだな、酷い奴!」

「嘘じゃない。フィーナは死んだ、お前の目の前で。死んでもなお、お前のことを案じてた」

「だからっ……! なんでそんなこと、君に分かるんだ!」

「ああ、分かるさっ! 俺は、そういうのが見えるんだからな!!」


 もはや限界が超えたとでも言わんばかりにセレファンスは怒鳴る。イルゼは驚いて身体を震わせた。


「思い出せよ、きちんと! こんなこと、いつまでも逃げて通せることじゃないんだ! 夢想の中に逃げ込んでもフィーナは戻らない! そんな単純で簡単なことも分かんないのかっ!!」


 そこまでを一気に捲くし立てると、セレファンスは何度も肩で大きく息をついた。そんな彼を背後に控えていた女性は痛々しそうに見つめている。


 イルゼは唖然としてセレファンスを見た。話の内容うんぬんよりも、何故この少年が、ここまで自分に対して怒鳴るのかが理解できなかった。たった今、会ったばかりの全く知らない赤の他人なのに。


 セレファンスは懐から何かを丁寧に包んだ白い布を取り出した。それを彼がおもむろに開くと、栗色の小さな一房が現れる。見覚えのある柔らかな色合い――それをイルゼは凝視した。


「フィーナの遺髪だ。彼女の遺体は、広い丘の木の根元に埋めた。……多分、そこがいいと思ったから」

「…………」


 イルゼはセレファンスの顔を見、そしてフィーナの遺髪だという代物に再び目を落とした。


「……埋めたって、フィーナをか。フィーナを埋めたのか……?」

「ああ」


 その答えを聞いた瞬間、イルゼはセレファンスの胸倉に掴みかかる。


「なんで、なんで埋めた!? なんでそんな酷いことを!!」

「――くっ……仕方ないだろう! 埋めなきゃ、晒したままのほうがもっと可哀想だ!」

「っ……!! このっ!」


 イルゼは怒りに任せてセレファンスをどこかへと叩きつけようとしたが、身体に力が入らず、それはままならない。それどころか立つのもやっとで、半分はセレファンスにぶら下がっているような有様だった。


 その勝敗は初めから分かり切っていた。セレファンスは相手の息が切れるのを見計らったかのようにその足に軽く蹴りを入れて、そのままイルゼを寝台に押しつけ、素早い動きで彼の両手両足を完全に組み伏せた。


「くそっ……放せ!」


 弱々しい力で抵抗を続けるイルゼに、セレファンスは大した労力を使っている様子もなく、深い色合いの青い双眸を向けてくる。


「お前はフィーナを殺され、その怒りで我を忘れて〈マナ〉を暴走させたんだ。そして、あそこにいた賊を一人残らず殺した。今更、その事実は変えられないが、それを認めなけりゃ何度でも同じ狂気に取り込まれることになる。お前は、それでもいいのか?」


 静かだが良く通る声にイルゼは思わずセレファンスの双眸を見た。それはどこまでも透き通った意思が込められた瞳だった。

 ……そうだ、それはどこかでも見たような――どこでだった?


「安易な道に未来を委ねるな。……フィーナは、お前にそう言ったんじゃないのか?」


 そう言うセレファンスはイルゼから視線を外さない。イルゼも視線を外さなかった。


 いや、本当は顔を背けたい、この少年の瞳を見ていたくない――。このままでは何か嫌なことまで思い出してしまいそうになる。辿ってはいけない記憶を辿りそうになる。それはきっと、今一度、自分を絶望の深淵に突き落とすだろう。この身では受けとめきれない悲しみが怒濤の如く襲うだろう。


 ……そうだ、そんなことは分かりきっていた。彼に言われなくても、とっくに認めていた。だからこそ自分は必死に『それ』から逃げ出していたのだから――


 見続けていたセレファンスの顔が、だんだんとぼやけて歪んでいった。目尻から離れて落ちた涙が、シーツを打ってポトリと軽い音をたてた。


 押さえ込まれていたイルゼの手足は、ゆっくりと解放された。


「そうだ、フィーナは死んだのだ。僕の腕の中で、胸を真っ赤に染めて」


 そんな真実がイルゼの中で見つかった。頭の中が見通しの効く広がりを見せる代わりに、もはや逃げられない現実が目の前へと突きつけられた。


「……――う、うううっ……」


 イルゼは寝台に仰向けのまま、両腕で顔を覆った。そうして沸き上がる感情を必死に抑えた。熱くて大量の涙が、頬をつたって次々に流れ落ちていった。


「……悪かった。手荒な真似をして」


 セレファンスの声にイルゼは何も答えない。いや、答えることができなかった。何かを口にした時点で、湧き上がる激情を抑えきれなくなるであろうことは分かっていたから。


 今はもう放っておいて欲しい――イルゼは、そう切に願った。自分の前から誰もいなくなったら、大声を上げて泣き出したかった。


「もう少し、休んだほうがいいな。あとから何か食べ物を持ってくるよ」


 イルゼの心中を察したのか、静かにセレファンスは言った。


 暫くするとイルゼの耳に扉が開閉される音が届く。部屋の中には、イルゼが望む通りに彼一人だけとなった。


「――う、うううっ……う、あ、ああっ、ああああッ……!」


 抑え込んでいた感情が、少しずつ外へと零れ出す。初めは嗚咽で、やがてそれは悲痛な叫喚へと変わっていった。


 イルゼは寝台に突っ伏し、毛布を口に当て、がむしゃらに叫び続けた。心が狂ったようにそれを求め、イルゼもそれに逆らわなかった。


 一人の少年から流れ出る慟哭は、午後の穏やかな光を帯びて、いつまでも悲しげに響き渡っていた。

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