第5話 二人の少年

『イルゼ、駄目……!』


 フィーナは悲鳴のように叫ぶと、夜の帳を駆け始める。


「あ、おいっ……!」


 セレファンスは夜空に透ける少女を見失わないように、そのあとを急いで追った。

 暫くすると行く手に薄らと朱色に染まった空が見えてくる。そのちょうど中央には、白い不可思議な光の筋が天に向かって伸びていた。


「あれは」


 何か身震いするほどの威圧感を感じて、セレファンスは思わず立ち竦む。


「セレファンス様……」


 レシェンドが答えを求めて少年を見たが、それは彼にも分からなかった。


「……何が起こっているのか、俺にも見当がつかない。ただ、急いだほうがいいってことだけは確かだ」


 その白い輝きを見つめながらセレファンスは呟く。


「行こう」


 暗闇に満ちた前方を見据えると、少年は再び勢い良く走り出す。レシェンドも一つ頷いて、それに従った。




「これは――なんて、酷い……」


 無造作に転がった血だらけの遺体をいくつも見つけ、レシェンドは顔を歪めた。


 漆黒の空の下、明々と照らし出された村の凄惨な末路。家屋を包み込む炎が無情に揺れている。崩れゆく木材の音と微かな火爆ぜだけが虚しく響き渡っている。


 一体、どれだけの悲劇がこの村を捲いたのか。もしも自分達が、もう少しだけでも早くここに辿りつけていたのならば、このような惨状を回避することができたのではないだろうか? 


 ……分かっていたのに、救えなかった。この栗色の髪の少女だって、こんなことには――。


 そんな今ではどうにもならない思いがセレファンスの胸をよぎった。


『早く、こっちに……!』


 フィーナの差し迫った声が頭上で響く。そこでセレファンスは、その悔恨を断ち切るようにして炎に明るく照らされた道を走り始めた。今は後悔するよりも、できることをしなければならない時だ――そう心で強く信じながら。


 少女に導かれて行きついた先は、恐らく村の中央だった場所。そこには、この世のものとは思えないほどの光景が彼らを待ち受けていた。


「なんだ、これは……!」


 レシェンドが驚愕の声を上げる。

 セレファンス達の見つめる先には、唸るように低音を発し続ける大きな光球があった。目映い白光を放ちながら、茶肌の地をえぐるようにして巡っていた。


 それを前にした女騎士は唖然とするしかなかったが、一方、少年のほうはというと、その光球を落ち着き払った表情で見、それから躊躇いもせずに近づいていった。


「セレファンス様っ……? 何をなさるおつもりですか!?」


 レシェンドが我に返って声を上げる。そんな彼女にセレファンスは振り返ると、


「きっと、この中に彼がいる。早く助けてやらないと」

「た、助けるとはおっしゃいましても、まさか、この中に……」

「そりゃあ入らなきゃあ、助けられないだろうな」

「そんな……! 何をおっしゃいますか!」


 全く動じない少年とは対照的に、レシェンドは絶句するが、


「大丈夫さ。なんとなく、そう思うんだ。だから大丈夫」


 セレファンスはニッコリと無邪気なまでに微笑む。それは全く根拠のない宣言だったが、どこか信じてしまえそうな力強いものに満ちていた。

 それにレシェンドは一瞬、言葉に詰まるが、それでも何かを言おうと口を開きかけた時だった。


「その恐れを知らぬ度胸は見上げたものだが――やめておいたほうがいい」


 いきなり響いた聞き馴れない声に、セレファンスとレシェンドは驚きを隠さずに背後を振り返った。


「この光の渦は、これを作り出した者の激しい感情だ。巻き込まれたが最後、お前の精神は破壊されてしまいかねないぞ」


 そう言いながら近づいてくるのは、見知らぬ一人の男。抜き身の剣を手に持ち、隙のない身ごなしと感情の薄い視線で歩んでくる。


 レシェンドはすぐさまセレファンスを背後に隠すと、鞘を走らせ、男の出方を見逃すまいと鋭い視線を放った。しかし男は、そんなレシェンドに対して全く表情を変えることなく近づいてくる。そして女騎士の間合い擦れ擦れのところで立ち止まった。


「死にたくないのなら諦めることだな」


 男――カルカースはレシェンドの後ろに立つセレファンスに視線を向けた。しかし少年は男の忠告に大した感銘を受けた様子もなく、再び光球に視線を戻す。


「だけど俺は、必ず助けてやるってあの子と約束したからな」


 セレファンスは独り言のように呟き、それにカルカースが怪訝な表情を閃かせた――と、同時だった。少年は止める間もなく、光の渦へと踏み込んでいた。


「セレファンス様!!」


 レシェンドは光の中に消え失せた少年の名を悲鳴のように呼ぶと、一瞬も迷わずに彼を追おうとして身を翻した。


「やめろ!」


 カルカースは素早くレシェンドの二の腕を掴む。


「っ……放せ!!」


 女騎士はそれを乱暴に振り払おうとしたが、彼女の腕を捕らえるカルカースの力は少しも揺るがなかった。それにレシェンドは驚きと困惑の表情を閃かせる。

 剣の技量はもとより体術においても、そこらの男に引けを取る気などレシェンドにはない。それは慢心からくるものではなく、今まで実際にセレファンスや自身を守り通してきた経験に基づく自負だった。それなのに、この目の前の男は、先程は剣術で並ならぬ気迫を発し、今は体術においても明らかに彼女の力量を上回っていた。


「お前には無理だ、一瞬にしてその存在を消されるぞ!」

「だが、セレファンス様が!」


 敵わぬと分かっていながらも、レシェンドはカルカースの拘束から逃れようと必死で藻がき続ける。


「彼はお前の主君ではないのか? 己の主君が自身の可能性を信じたのならば、お前も信じてこの場で待て!」


 その低く厳とした声に、レシェンドは思わず動作を止める。


 カルカースは一つ小さく息をつくと、レシェンドからついと視線を外し、光の渦に顔を向けて軽い笑みを浮かべた。


「見かけによらず、なかなか豪胆な気性を持つ少年のようだ。さぞかし仕えがいのある自慢の主君だろう」

「……当たり前だ。私が剣を取る理由は、あの方を守ることにのみあるのだからな……!」


 レシェンドは男を強い意思で睨みつける。それにカルカースは小さく笑い、女騎士の直向きなまでの実直さに好感を抱いた様子で目を細めた。


「お前もまた、得難い臣下のようだ。彼は幸せ者だろうよ。……あの少年とならば、もしかすると、もう一つの可能性を見出すことも可能かもな……」


 レシェンドは眉を顰める。後半の部分は彼女に向けたというよりも、カルカースの独白のように聞こえたからだ。


「お前も自身を忠臣と自負するのならば、真に主君が望むことを見届ける覚悟を持て。そして彼が望まぬようなことはしないことだ」


 カルカースはレシェンドの腕を解放すると、踵を返して彼女から離れていく。

 レシェンドは去る男の背中を半ば茫然と見送っていたが、我に返るとすぐさま慌てて声を上げた。


「ちょっと待て! お前は、一体――」


 しかし、その声は遠ざかっていくカルカースに少しの影響も与えることはできなかった。

 徐々に暗闇へと紛れてゆく男の姿を、レシェンドはただただ見送るしかなかった。




 熱い……いや、冷たい――?


 どちらにしろ、普通ではない感覚の中をセレファンスは歩いていた。


 殆ど何も考えずに飛び込んでしまった光球の中。そこは、どこもかしこも真っ白な光で溢れていて、広さや方向の何一つが分からなかった。


 それどころか今では時間の感覚さえもあやふやになりつつある。ここに入ってから、かなり長いことを歩み続けている気はするが、辺りには少しの変化も見受けられなかった。もしかしたら、光球の中をグルグルと歩き回っているだけなのでは――と不安にもなってくる。


 それに気を抜くと、頭の中が周囲の眩さに翻弄されて、意識も記憶も何もかもが吹っ飛ばされそうになるのには参っていた。ここで気を失おうものならば、恐らく無事に外へは出られないだろう。


(本当に全く……! おい、どこにいるんだよ。手間をかけさせるんじゃあないぞ!)


 セレファンスは顔も見たことのない『イルゼ』に怒りをぶつけ、なんとか気を保とうと努力する。


(いいか、俺はあの子と約束をしたんだ。だから俺はお前を助けなきゃならないんだよ。大体、あんな健気で可愛い子をあそこまで心配させて泣かせるなんて、男として情けないと思わないのかっ? さっさとここから出て、フィーナに謝れ!)


 セレファンスはムカムカと腹を立てながら、足を踏み鳴らすようにして歩く。そうしていると周囲の光が自分を敬遠して近づいてこないようだった。


『……フィーナ――?』


 と、そんなセレファンスの怒りに誰かが微かに反応した。


 セレファンスは周囲を見渡す。誰もいないし、何も変わっていない。だからもう一度、心の中で『そいつ』に話しかけてみた。


(ああ、そうさ、フィーナだよ。お前を助けてくれって、俺に泣いて頼んできたんだ)

『……僕を助ける? 嘘だ、フィーナが僕を助けになんかくるわけがない。だって僕は――……ああ、そうだ、僕こそが助けられなかったんだ、彼女を……フィーナを! とても、本当にとても大切だったのに――!!』


 ……見つけた!


 激しい悲愴が捜し求める少年に繋がる道を示す。セレファンスは、それを感覚で掴み取り、真っ白に輝く中を走り出した。


 身を切るような鋭い感情がセレファンスの頭の中をよぎる。まるで凍った霧の中を走っているようだ、と彼は思った。それらを振り抜け、ひたすら見えない先を目指す。


 そうして、どのくらいを走り続けただろうか――いや、走っていたのかさえも分からない。大体、外から見た時の光球は、こんなに真っ直ぐ駆け続けられるほど大きくはなかったはずだ。だとしたら、ここは夢の中で、自分はどこかで昏々と眠っているだけなのかも知れない……。


 なんにしろ、セレファンスが向かった先に彼はいた。ゆったりとした波間をたゆたうように、両手両足をダラリと下げて、白く輝く空中を漂っていた。


 セレファンスは立ちどまり、見上げ、少し離れた場所から声を限りにして彼を呼んでみた。


「……おい! おいったらっ!」


 しかし、宙でたゆたう少年は身じろぎもしない。


「くっそ……もう少し、近づいて」

『――やめろ! とまれ!』


 くぐもった大音量の声が、セレファンスの耳元で炸裂する。


『やめるんだ! 余計なことはするな……! 招かれざる者よ、ここから去れ!』


 空間を満たす空気が風を孕んだシーツのようにセレファンスを取り巻き、白い周囲からは厚みのある黒煙が大量に溢れ出す。

 それらはあっという間に、セレファンスと宙に漂う少年とを隔たった。


(……なんだ、これは!)


 こいつも、あの少年が生み出したものなのか? こんな、どす黒く禍々しい感情も彼が――!?


 だが、すぐにセレファンスは思い直す。

 いいや、違う。これは、あいつに属するものじゃない。何か別の、彼以外の何者かの意思が入り込んでいる!


(こいつが、あいつの心を阻害しているのか……!)

『さあ、出ていけ! 邪魔をするな!!』


 続けざまに叩きつけられる横柄な感情に、セレファンスは激しい頭痛と胸に沸き上がる憤慨を感じて顔をしかめた。


「……ふざけるなよ。そう言われて、はいそうですか、なんて言えるか!!」


 セレファンスは思い切り投げ返すように声を張り上げ、あとはその存在を全く無視し、宙にたゆたう少年に向かって肩を怒らして向かっていく。

 そして、そのちょうど真下に到達すると、セレファンスは眼光鋭く上空を見上げ、これ以上はないというくらいに苛ついた声で怒鳴った。


「おい、お前! いつまでもそうして籠ってないで、きちんと返事くらいしろよ!」

『やめろ……っ! 邪魔をするな!』

「うるさいっ! お前は黙ってろ!!」


 鋭くセレファンスは一喝し、更に少年へと畳みかける。


「本当にこのままでいいのか? このまま『奴』の思い通りになるのかっ? こんな、押しつけられた馬鹿馬鹿しい運命に、お前は全部を取り込まれるつもりなのか!!」



(……だ、れだ――?)


 イルゼは硬く瞑っていた瞼を微かに震わせた。


 誰かの必死な声が聞こえる。先程から自分に何事かを言い続けているような気がする。


 気怠げな心持ちの中、イルゼは何げなく下方を見やった。


(……あれは――)


 彼の意識を惹きつけたのは、透き通った煌めきを見せる対の青。何事をも貫き通す強い意思を秘めた双眸。

 眼下に見下ろした見知らぬ少年の瞳が、愛しい少女のものと重なって見えた。


『お願い、イルゼ――戻ってきて! 安易な道に、あなたの未来を委ねてしまわないで!』

「……フィー……ナ――?」


 失われたはずの彼女が、自分に向かって両腕を広げ、こちらへと呼びかけている。


(ああ、フィーナ……やっぱり僕を……迎えにきてくれたんだね――……)



「……!」


 宙に浮かんでいた少年の身体が、ガクンと均衡を崩した。セレファンスは何かを求めるように伸ばされた腕を必死に掴もうとする。


 二人の少年の腕が絡み合い、セレファンスは空中から引き下ろすようにして、その少年を抱きとめる――と同時に、周囲を支配していた黒煙が地団太を踏むようにして消え失せ、外界を隔たっていた光の壁が淡雪の如く霧散した。


「うわっ……!?」


 途端、抱きとめていた少年の身体がずっしりと重くなり、セレファンスは押し倒されるようにして尻餅をつく。


「うう……いっ痛ぅ……」

「セレファンス様!」


 思わず呻き声を上げるセレファンスに、レシェンドが飛ぶようにして駆けつけてきた。


「ああ、ご無事で……!」


 そう言ってセレファンスの傍らに膝をついたレシェンドの声は、気の毒なほどにか細く震えていた。必死に込み上げる感情をこらえているかのような彼女を見て、


(……ああ、外に出られたのか)


 セレファンスは安堵したというよりも、ただ漠然と事実を思った。


「悪い、レシィ、心配をかけて」


 セレファンスは疲れたように、だが申し訳なさそうに首を竦めて小さく笑う。それをレシェンドは微かに潤んだ瞳で見つめ、頭を振った。


「彼は……」


 レシェンドはセレファンスから、もう一人の少年へと視線を移す。


「ああ、無事だ。生きてる」


 セレファンスも自分の胸に収まった少年を見下ろした。


 鳶色の髪をした自分と同じ年頃の少年。彼の熱に浮かされたような頬は、土埃と涙で薄く汚れていた。

 それをセレファンスは無造作だが丁寧に手の平で拭ってやる。


『ありがとう――』


 ふとどこかで、優しい暖かな風が吹いた。


 セレファンスは空を見上げる。そこにはもはやあの栗色の髪の少女は見当たらなかった。

 その代わり、どこまでも連なる無数の星々だけが優しく儚げに瞬き続けていた。

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