第3話 狂気

(良かった……フィーナに、全てを打ち明けられて――)


 イルゼは自分の寝台に腰を下ろすと、天井を見上げて大きく息をついた。


 長い間、誰にも言わずにいたこと。自分の最大の秘密事――

 本当は、このまま何も言わずに済まそうかとも考えていた。それが逃避であり、卑怯なことだとは分かっていても、フィーナを失うことを思えば、どうしても今の今まで言いだせなかった。

 彼女に限ってそんなことはない、きっとフィーナは理解してくれる――そうは思っても何度、告白を挫折したことか。少女の明るく優しい眼差しが、怯臆に変わってしまう悪夢を何度、この寝台で見たことか。


(……でも、もう大丈夫なんだ。もう、あんな恐怖に怯えることはないんだ。フィーナは……それでもいいって言ってくれた。それどころかずっとそれを知っていて、僕を好きになってくれたんだ――)


 この上もない喜びに満たされながら、イルゼは寝台の上に身体を放り投げた。二日後からはこの家で、フィーナとの新しい生活が始まる。


 少年は幸せに包まれるであろう日々に、ゆっくりと思いを馳せようとして目を閉じた――が。


 ドンッ、ドンドンッ

 突然鳴った玄関の扉。イルゼの心地良さは一気に吹き飛ばされる。どうやら誰かが外から扉を殴りつけているようだった。


(――誰だ? こんな時間に)


 イルゼは寝台から起き上がり、玄関口に目を向ける。


 外はもう真っ暗である。この村の人々は日が落ちたら家にいるのが当たり前で、滅多に外を出歩かない。ましてやイルゼの家は村の中心から少し離れたところにあり、誰かが夜に訪ねてくることは稀だった。


(もしかしたら、誰かが酔っぱらって、からかいにでもきたのかな?)


 ここ連日、村の大人達はイルゼ達への前祝いと称して賑やかな酒宴を繰り広げている。祝ってくれるのは嬉しいが、どうもかこつけているような気がしてならない。それに酔っぱらいの冷やかしほど、しつこくて嫌なものはなかった。


 ドン、ドンッ


「……もう、分かったよ。今、開けるから」


 イルゼは小さく溜め息をつき、戸口へと歩み寄る。


「こんな夜遅くに誰……」


 少年は少し小言口調で言いながら、施錠を外して扉を開けた。


「イ、ルゼっ……!」


 自分を呼ぶ絞り出すような声と、胸に押しつけられた生温い感触。


「たっ、いへん……だっ」

「――なっ……グレンっ?」


 イルゼは思わぬ事態に目を剥く。夜更けの突然の来訪者は、イルゼの胸へとしがみついてきた。


「大変、なんだ――とにかく、お前に、知らせなくちゃ……とおもっ、て……」

「ちょ、ちょっと待って。これは、一体っ?」


 仲の良い友人である少年――グレンの様子に、イルゼは困惑気味で視線を落とす。そして息絶え絶えの彼を抱え直そうとした時、自分の腹部辺りが嫌に湿っぽいことに気がついた。


(……なんだ?)


 イルゼは恐る恐るグレンと重なり合った自分の腹をまさぐり、その手を目の前まで持ち上げてみる。


「っ!?」


 イルゼは息を飲んだ。その手の平は、鮮やかな色合いの赤に塗り潰されていたからだ。


「なっ……」

「は、やく――早く、イルゼっ……フィーナが、危ない!」

「こ、これ……い、一体、一体なにが……!?」

「っ、早くっ! フィーナがっ、奴らがっ……! 早く、教会堂へ行け!!」


 ドンッとグレンがイルゼの胸を押す。イルゼはふらつき、グレンはそのまま戸外へと仰向けに倒れる。


「グレン!」


 イルゼは慌てて友人の傍らに膝をついた。そして、屋内からの明かりで浮かび上がったグレンの赤黒い腹に目を奪われる。


「っ!? うっ、ああっ……!?」

「は、やく……イルゼ、早く、早く、フィーナ、を……」


 そうしてグレンはゆるりと宙に視線を彷徨わせると、そのままコトリとも動かなくなった。


 イルゼは暫しの間、茫然とする。目の前で起こっていることが理解できない。今、グレンはどうなった? 腹を赤黒く染めて、そして――……?


『フィーナが……危ない――!』


 グレンの遺した言葉が一気にイルゼの脳天を貫く。


「フィーナ!!」


 バネ仕掛けの玩具のように立ち上がると、イルゼは暗闇の中を一直線に駆け出した。




「フィーナ……! フィーナっ!」


 イルゼは叫びながら、教会堂までの道を一途に駆け抜ける。


 村の中央に辿り着くと、あちらこちらの家屋から火の手が上がっていた。ほのかな明かりしかないはずの村が、明々と大火で照らし出されていた。


 村全体が、何か恐ろしい強大なものに巻かれて崩れ去っていく。今まで当たり前にあった穏やかな空気も、夜の静かな静寂も、そこには何一つ残されていない。あるのは血生臭い空気と荒ぶる熱気だけだ。


 途中、イルゼはグレンのように血まみれで倒れている人を何度も見かけた。恐らく彼らは皆、イルゼの見知った人達だっただろう。だが彼は、一度も足を止めずに走り続けた。地に伏した村人達が視界を掠めるたびに、少年の心臓は突き上がる恐怖に支配された。


「フィーナっ……フィーナぁっ……!」


 足をふらつかせながらイルゼは教会堂の扉へと縋りつく。何故か扉は開いており、ギギィと重たく不気味な音を響かせた。


「フィーナ……! どこだっ? 僕だよ、イルゼだよ! いるんなら、返事をしてくれっ!」


 扉の向こうの暗闇に向かって叫び、その中へとイルゼは駆け込む。


(確かフィーナは奥の部屋に……!)


 イルゼはフィーナの姿を求めて暗闇の中を進み出した。


「イ、ルゼ……」

「……!」


 か細く、自分を呼ぶ少女の声。


「フィーナっ?」


 イルゼは足を止め、もう一度、その声を聞こうと耳を澄ます。


「イ、ルゼ――私はここ……ここよ――」


 今度は、はっきりと聞こえた。それは確かにフィーナの声。

 イルゼはそれが聞こえた方向――祭壇に向かって突き進む。


「フィーナ!」


 微かな息遣いが感じられる場所に、イルゼは片膝をついた。どうやらフィーナは、そこに倒れ伏しているらしかった。


「フィーナ、もしかして……怪我、してるの――!?」


 イルゼは悲鳴のように叫び、慌てて辺りを見回す。暗闇に馴れてきた目とはいえ、教会堂の中には窓がなく真っ暗だった。これではフィーナの怪我の程度が分からない。ああ、そうだ、確か祭壇には、大きな照明用の蝋燭があったはずだ。


 イルゼは全くの感覚で祭壇の階段を駆けのぼり、手探りで発火具を捜す。そして記憶を頼りに燭台へと歩み寄ると、その一本に急いで火を灯した。


「フィーナ!」


 イルゼは祭壇を飛び降り、少女の元へと駆け寄る。


 フィーナは階段の二段目辺りに、縋りつくようにして倒れていた。イルゼは彼女を労りながら抱え起こす。

 そして次の瞬間、イルゼは自身の目に映る全てを疑った。


 薄明りの中でも見て取れる、血の気が失せた少女の顔。想像を絶する恐怖で引きつりおののく彼女の表情――。


 だが、その双眸が少年を捉えると、煌めくような喜びへと変わる。空色の双眸が瞬く間に潤み、小さな唇が微かに動いた。


「イ、ルゼ……イルゼ……!」


 少年は少女の無惨な姿に愕然となっていた。彼女の上衣は乱暴に引き裂かれ、白く柔らかなまろみが露わになっていた。そして、それらを彩るようにして、そこは真っ赤な血で溢れ返っていた。


 言葉を失った少年を見て、フィーナは気丈にも微かに笑った。


「大丈夫……大丈夫よ、イルゼ――私、何もされてやしないわ。あいつら、私に悪さをしようとして……だけど、これで思いっきり、突き刺してやったんだから――」


 フィーナは苦痛の中でも、自身の貞操を守り通したことへの誇りに頬を満たした。イルゼは、その痛いほどの健気さに震え、少女のか細い手を取る。彼女の冷たい手の内には、儀礼用の短剣がしっかりと握られていた。


「だって私は、イルゼのお嫁さんに……なるんだもの――ね……?」


 フィーナは軽く微笑み、そして小さく咳き込む。色が失せた唇の端から、一筋の赤い雫が流れ落ちた。


「フィーナ!」


 イルゼは戦慄した。これから起こるであろう出来事、残酷な未来。それがすぐそこまで忍び寄ってきていることを彼は察知した。


「なれると……なれると思っていたのに――イルゼの、お嫁さんに……せっかく――」


 フィーナの空色の瞳が再び涙で満ちていく。つい先程まで思い描いていた二人の幸せな未来は、もうどこにもありはしなかった。


「っ……なれる……! なれるよ! だって僕達は、二日後に婚礼を挙げるんだから! そこでフィーナは、花嫁衣装を着て、絶対にすっごく綺麗なんだ!」


 むせぶように叫んだイルゼに、フィーナはそっと微笑んだ。弱々しく悲しげに、あまりにも儚く、夕暮れ時の木漏れ日のように。


「フィーナ、聞いて……! 僕は君を愛してる! 誰よりも、何よりも! 本当に、本当に君は僕にとって大切な人なんだ! だから、だからどうか……っ」


 ふと、イルゼの視線がフィーナの瞳の奥を捉える。そこは何か途轍もなく大切なものが失われ、すでに光を失っていた。硝子玉のような両の瞳は、もう少年を捉えようとはしなかった。


「……フィーナ? どうしたの? 眠ったの――?」


 少年は拙く震える声で、うつろに虚空を見上げる少女へと問いかけた。


 その少女が、もはや自分に微笑みかけることはないと頭のどこかでは分かっていた。だが、それを理解した時、きっと自分は壊れてしまう――いや、フィーナはからかっているのだ。いつものように茶目っ気たっぷりの笑顔で、冗談よ、とすぐに言ってくれるはずだ。


 イルゼはフィーナの表情を見続けた。少しの変化も見逃すまいとするように。見つめ続けて、待って、そしてそっと少女の頬に手を添えた。


「…………」


 イルゼの見開いた両の瞳から、涙が自然と零れ落ちた。目の奥にある水源が氾濫を起こしたかのように、ほとほとと止めどなく溢れ続けた。


 手の平にはフィーナの滑らかな頬の感触があった。だがあの丘で感じられた温もりは、もうそこにはない。それはイルゼに残酷な事実を知らしめるのに十分だった。もう彼女は戻らない――二度と、永遠に。


「ふ……う、ううっ、うああああっ……! フィーナ、フィーナぁっ!!」


 塗り変えようのないどす黒い事実がイルゼの胸中を支配する。理解という名の無慈悲な剣が、少年の身体を容赦なく貫いた。


(どうして――どうして!?)


 一体、何故、こんなことに!!


 少年は獣のように何事かを吼え、泣き叫び、狂ったように少女の亡骸を愛撫し、そうして気力も体力も尽きた頃、ぼんやりとした彼の脳裏にフィーナの一言が浮かび上がった。


『あいつら』――


 それはきっと、村を破壊し、フィーナを襲い、自分から最愛の少女を奪った存在。


 イルゼはぽっかりと宙を見つめたままだった恋人の瞼をそっと閉じてやった。次の瞬間、少年の中に黒い火種が灯る――ちょうど、その時だった。


「クソッ、あのドグサレ女め! やっぱり、このままじゃあ気が治まらねェ!」


 教会堂の外から、聞き馴れない男の怒声が響いてきた。続いて別の男の声。


「とは言ってもなぁ……もう死んじまってるだろう? 生きてたとしても虫の息だ」

「虫だろうがなんだろうが構うものか! あのクソアマ、俺の腕を思いっきりブッ刺しやがって……! あのツラを二度と見られねぇほどグチャグチャにしてやる!」

「大体、お前がそうやってブチ切れて片っ端から女を殺しちまうから、俺達は少しも楽しめなかったんだぜ? もし生きていたら、二目と見れなくする前に、少しは俺にも楽しませて――ん? なんで明かりが……誰かいるのかっ?」


 扉を開けて入ってきた男が、祭壇の灯火に気がついて怒鳴ってくる。それにイルゼは声も上げずに身動きもせずに、ただ彼らが近づいてくるのを待った。


「……はあ? なんだ、このガキは。まだ生き残りがいたのか」


 少女の骸を抱いたまま、うつろな瞳を上げたイルゼに、男達は拍子抜けしたような視線を送ってくる。


「うん? その女――ああ、クソッ……くたばっちまったのか!」


 少年の胸におさまった少女を見て、男は忌々しげに叫ぶ。


「この女のせいで! 俺の腕は血だらけなんだっ、見てみろっ!」


 いかにもごろつき風情の男は、イルゼに向かって毛深く太い二の腕を示して見せた。そこには薄汚い布が当てつけがましく巻かれていたが、大した血は滲んでいなかった。


「……フィーナを殺したのは、お前らか」


 抑揚のないイルゼの問いかけに、男は小馬鹿にしたような態度で鼻を鳴らす。


「はぁん、フィーナぁ? その娘っ子のことか? ああ、そうさ。そいつはな、全くもって恩知らずなクソアマさ。俺ぁな、そのフィーナちゃんに、せめて殺される前に一度くらいは女の悦びってヤツを味わわせてやろうとしたんだよ。なのにそいつは、そんな俺の親切心を仇で報いやがったんだ」


 男はいけしゃあしゃあと、面白可笑しいことのように語ってみせる。それを隣で聞いていたもう一人の男は、下卑た引きつり笑いをたてた。


 イルゼは頭部全体が熱く沸騰するような感覚を覚えた。あまりの激しい感情の衝迫に、脳内が陽炎のように揺らめき、今にも破裂してしまいそうだった。


「――……の……が」

「あん?」


 少年の掠れた呟きに、男は威圧するような声で問い返す。もう一人の男が、イルゼに生臭い顔を近づけてきた。


「なんだ小僧、何か文句でもあるのか? それともお前が、この女の代わりに俺達を楽しませてくれるってのか? ………そういやお前、ガキのくせに、なかなか綺麗な顔を――」


 男は怪しげに声を潜ませ、イルゼの顎へと手を伸ばしてくる。だが少年のほうは、それを許す気など毛頭もなかった。


「ッ……こ、の……下衆どもがぁ――……!!」


 イルゼの噴き出すような憤怒と共に、真っ白な閃光がほとばしる。

 少年と対峙していた男達は、己の行いを悔いる暇もなく、その思考を永久に停止させることになった。




「ああ、フィーナ……やっぱり僕の言った通りだったろう? すごく良く似合ってる。とっても綺麗だよ、フィーナ――」


 イルゼは優しく語りかけながら、腕の中にいた恋人の亡骸をそっと祭壇の上に横たえた。


 フィーナは今、二日後の婚礼に着るはずだった花嫁衣装に身を包んでいる。

 そうしている彼女はまるで、ただ深い眠りに陥っているだけのように見えた。今にも、ぱっちりとした空色の瞳を見せ、自分に微笑みかけてくるのではないかとさえ思えた。


「……待ってて、フィーナ、すぐに戻るよ。君をこんな目に遭わせた奴らを、一人残らず殺してくるから。そうしたら僕は、君と一緒にいくよ――……」


 イルゼはフィーナの微かに開いた唇に、自分の唇を重ね合わせた。熱のない乾いた感触――もはや悲しみを感じるための感情は麻痺し、空しさと涙だけが流れた。


 イルゼは振り返り、礼拝の間を見下ろす。先程まで男達がいた場所には、赤黒い肉塊が汚らしく転がっていた。それを少年は冷ややかに見やり、それからその横に小さく光を反射した何かを捉え、怪訝に眉を顰めながら近づいていった。


 肉塊の傍らには、一本の剣が落ちていた。まるで見てやってくださいとでも言わんばかりに、その剣は肉塊と化した主とは対照的に形をとどめていた。

 それをイルゼは取り上げ、矯めて見つめる。


(これは……)


 少年の目が釘づけになったのは、その柄に刻印された一つの紋章。


 それはここテオフィル皇国の国章ではなかった。だが、どこかで見た覚えがある。だとしたら、大国のものに違いない。その詳細を正確に思い出すまでには至らなかったが、イルゼは紋章の形状をしっかりと記憶した。


 教会堂の外に出ると、イルゼは一つ小さく笑いを零した。空々しいほど空虚な心とは別に、くつくつと笑い出したくなるような衝動が吹き荒れていた。

 今までに感じたことのない感情――それらが自分の中で踊り狂い、今にも飛びだしそうだった。


 ああ、そうだ。全て消え去ってしまえばいい――ここにある己自身さえも。


 イルゼは自分の中で渦巻く狂気に身を任せようと、静かに両目を閉じた。

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