第一章

第1話 鳶色の髪の少年

 ここに一つの古い伝説がある。フィルファラード大陸において、最も有名で最も敬意が示される、大陸の歴史を語るうえでは外せない物語である。

 大陸に生まれて暮らす人々は、それを幼い頃から寝物語として親しみ、大陸人としての誇りを育てるのだ。そんな物語は、こう紡がれる。


 今から遡ることを千年前――この大陸が、まだ名も無き時代であった頃のことだ。世界フォントゥネルは負を司る〈闇からの支配者〉に脅かされ続けていた。


〈闇からの支配者〉は、この大陸を根城とし、特に近隣に住まう人々に対して暴虐の限りをつくしていた。

 そんな中、一人の若者が立ち上がった。彼は近隣国の一つであるアステカという国の末王子で、名をシエルセイドといった。


 シエルセイドは様々な苦難に見舞われながらも、その身に持つ光の心によって〈闇からの支配者〉に生み出された〈闇の従属〉を次々に打ち負かしていった。

 シエルセイドには多くの味方がいた。光の加護を司る精霊達はもちろんのこと、天に住まう神々もシエルセイドに手を差し伸べた。その中で最も彼に尽力したのが、太陽神の娘リースシェランだった。


 リースシェランは、いつもシエルセイドの傍らに寄り添い、女神としての力を振るって〈闇の従属〉達を地に封印していった。

 そうして彼らは長い年月の末、とうとう〈闇からの支配者〉を打ち負かし、負に支配されていた大陸に光の皇国フェインサリルを打ち立てたのであった。


 聖皇となったシエルセイドは、リースシェランを聖皇妃に迎え、女神の伴侶として不老不死の恩寵を賜ることになる。以後、大陸はフィルファラードと名づけられ、シエルセイドとリースシェランはその後の三百年間、安定した御代を敷いたと伝えられている。


 しかし――〈闇からの支配者〉は尚も息づいていた。〈闇からの支配者〉は大陸に封印された〈闇の従属〉を解き放つため、その鍵となる聖皇妃リースシェランを連れ去ってしまったのだった。聖皇シエルセイドは彼女の行方を捜すために聖皇国を去り、二度と戻ることはなかったという。


 その後のシエルセイドの消息は不明であり、どの文献にも確かな記述は残されていない。こうして皇国の創始者である英雄は、忽然と歴史の舞台から姿を消したのだった。


 そんな伝説の結末に、のちの歴史学者達は、聖皇は秘密裏に暗殺されたのだとか、実は三百年間、歴代の皇王がシエルセイドの名を継承していただけであり、権力争いの末、その名は闇に葬られたのだとか、様々な説を取りつけようとしたのだが、どれも大陸の人々を納得させるまでには至らなかった。


 その代わり、伝説には伝説らしい結末を――と、ある旅の楽士が歌ってまわった物語の終わりが、一般大衆の通説となっている。その内容は、こうである。


 聖皇シエルセイドは苦難の末に邂逅を果たした最愛の聖皇妃リースシェランと共に、再び〈闇からの支配者〉らを地に封印した。そして、今でもその地の守護を務め、人知れずに大陸の安寧を護り続けているのである――……


 大陸の人々は、その結末を好んで語り継ぎ、聖皇シエルセイドへの畏敬を今でも忘れることはない。


 と、ここまでが伝説として語られる。だが、以降は史実として語られる。


 その後の聖皇不在のもと、シエルセイドとリースシェランの血を受け継ぐ皇統は分裂、約七百年後の現在では、フィルファラード大陸の大半を統治する四大皇国へと繋がっている。


 その四大皇国、東には多くの従属国を持つ大宗主国家アドニス、西には世界を股にかけた貿易で潤う海の国リゼット、南には暖かな気候と豊沃な大地に恵まれた国テオフィル、北には雪と氷に閉ざされた北限の国ノアトゥーンとあり、それぞれが我が皇統こそが聖皇の真なる後継者であり、大陸全土の支配者だと主張し合っているのだった。


 それは過去においても幾度の大きな争いを生んできた。そして今もなお、源流を同じくする四つの皇国は、互いに不信感を抱き、警戒し合い、隙あらば噛みついてやろうと虎視眈々に機会を窺っているのである。


 だが、ここ数十年間、各皇国の様々な要素を含んだ勢力が均衡していることもあり、戦争の兆候は殆ど見られない。それでも一つの勢力が崩れたと同時に、フィルファラード大陸の安寧を崩壊するであろう危険性は、常に憂慮されるべき事実だった。


 しかし、その小さな村は、そんな世界の暗流に意識など傾けることはなく、眩しく爽やかな彩りを持つ初夏の中にあった。




 ここは南皇国テオフィルの辺境に位置する農村セオリム。辺境中の辺境なので、まともな通信や交通の手段が確立されておらず、中央の情報が届くまでには数ヶ月の時間を要する。物資も殆どが自給自足で、日常内にきらびやかで派手なものは一切ない。


 その小さな村においては国と国との争い事など瑣末なことでしかなかった。農耕で生計を立てている村人達にとっては、日々の糧を作り出すことに手一杯で、外の世界に関心を傾けている余裕などなかったからだ。


 そんな中央から完全に忘れ去られたかのような地域だったが、そこに住む人々は穏やかで温かく、自然は豊かで空気も食べ物も美味かった。だから少年は十分に幸せで、不満など感じようはずもなかった。


「……ふわーあ、今日も一日、良く働いたなっと」


 少年――イルゼは、いつもの定位置である丘腹にゴロンと身体を投げ出した。傍らには先程まで使用していた農耕具一式が置かれている。まだ十分に日は高かったが、太陽が昇ったと同時に働いている村の人々にとっては、この時間帯からはゆったりと過ごすのが常だった。


 少年の視界におさまるのは弓状の蒼空と光に輝く翠然の彩り。頭上には、ちょうど良く日陰を作ってくれる大木がある。それらをイルゼは漫然と見つめて双眸を細めた。


 少年は、この狭い村の中では周囲の関心を惹きつけるのに十二分な容姿をしていた。日に透けると紅く盛り立つ鳶色の髪と、それよりも色合いの薄い純粋そのものの瞳。健康的で瑞々しい小麦色の肌は、明るい陽光を受けて絹のように輝いている。十四になったばかりの顔立ちには、まだまだあどけない無垢な甘さが見て取れたが、服の下に隠された身体は年中の農作業で培われて細くはあるが均整がとれており、決して弱々しいものではなかった。


 イルゼは暫くのあいだ、そうして丘にある木の根元で居眠りをする予定だったが、急に胸の奥に生じたこそばゆい衝動に飛び起きた。


「……はぁー……やっぱり、どうにも落ちつかないなぁ……」


 少年は深々と溜め息をつく。

 実はここ数日間、彼はこんな調子が続いている。むやみやたらに深呼吸をしたり、無駄な動作で仕事の手順を間違えたり、何をやっていても落ちつくことはなかった。そんな少年を見て周囲の者達は「そんな調子で、いざという時に大丈夫なのか?」などと冷やかし半分の声をかけてくる始末。


 それもそのはず。イルゼには二日後、恐らく人生の中でも最も重要となるだろう行事が控えていた。

 その日、少年は一人の少女と夫婦になる。相手となる花嫁は、イルゼが長年、想いを寄せ続けてきた娘だった。軽い緊張も伴って浮かれ心地になるのは仕方がないといえる。


「あーあ、なんだか疲れたな」


 嫌な気分ではないのは確かだが、高まり過ぎる感情を持てあまし気味だった。何よりも周囲の反応と雰囲気が精神的な疲労を与えてくる。


「そうよね、私も疲れちゃった。私達より、みんなのほうが張り切ってるんだもの」

「……フィーナ!」


 背後からの声に驚いて振り返ると、そこには茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべた一人の少女が立っていた。


「どうして、ここにっ?」


 イルゼは混乱した表情で少女を見る。確か彼女は二日後に控える婚礼のために教会堂の一室に籠っているはずだった。


 この地域に住む娘達は、婚礼の三日前には式を挙げる予定の教会堂へ入り、そこで天の神々と精霊達に祈りを捧げる。そうすることで花嫁となる乙女は、その恩寵を受けて身も心も清められるのだ。その通過儀礼をまっとうする娘は当然の如く、式の直前までは外出を禁じられているはず――なのだが。


「あのね、暇だから抜けだしてきちゃったの」


 あっさりと彼女も『当然の如く』言ってのけた。


 イルゼは半ば茫然と二日後には彼の妻となる少女――フィーナを見つめたが、なんら彼女は意にも介さずにちょこんと少年の横に座り込む。


「大丈夫、心配しないで。あとからきちんと戻るから」


 いや、そりゃそうだけど……とイルゼは口ごもる。外に出てはいけないと禁じられているうえで、ここにいるということ自体『きちんと』という道理から外れているような気がするのだが……。


「いいのよ。大体みんな、私達をそっちのけで自分達のほうが楽しんでるんだから」


 そう言ってフィーナは拗ねたように唇を尖らせる。


 つまり彼女は、二日後の祝賀に心を躍らせている周囲に対して、主役であるはずの自分が薄暗い一室で祈りを捧げ続けなければならないことに不満を抱いたのだろう。

 この長閑な村では大きな祝い事など、そうそうあるものではない。だから村中の皆が彼らの婚礼を楽しみにし、若い夫婦の誕生を心待ちにしていた。


「でも、いいのかな……一応、きまりなんだろう?」


 イルゼとしてはフィーナが傍にいることは心強いし、やはり無条件で嬉しい。


「いいの! あんな狭くて暗い部屋じゃなくたって、どこでだって神様や精霊様達には感謝できるんだから」


 そう言ってフィーナは天高い蒼穹を見上げる。まるで「そうですよね」と見えない存在に語りかけているかのように。

 そんな少女の横顔をイルゼはそうっと窺った。


 フィーナはイルゼと同い年だが、今年の春、一足先に十四になっていた。背まで流れる手入れの行き届いた栗色の髪と、強い意思を秘めた空色の瞳。質素だが清潔で好感の持てる服装に伸びやかな若木のような身体を包んでいる。とりわけ目立った容貌というわけではないが、どこか人の視線を惹きつけてやまない少女だ。豊かで素直な感情で喜怒哀楽を示し、とても晴れやかな良い笑顔で人々を魅了する。そんなフィーナの存在が、特に村の若者達の目に眩しく映っていたことをイルゼは良く知っていた。


 フィーナがイルゼの視線に気づき、首を傾げて彼を見る。「なあに?」と視線で問いかけてくる少女に、少年は秘かに高まっていた鼓動を押さえながら「なんでもない」と首を振った。

 こういう時のフィーナは、とても落ち着いていて愛らしく、そんな彼女に見つめられると少年は照れくさいようなくすぐったい心持ちになる。


 イルゼはゆっくりと遠慮がちに、フィーナのほっそりとした手の甲に自分の手を重ねた。少女はそれに応えて、少年の指に自分の指を柔らかく絡める。

 二人は顔を見合わせて、気恥ずかしそうに笑い合った。


 穏やかで暖かな午後が二人のあいだを流れていく。野を渡る緑風が心地良い葉擦れを残して彼方へと去っていった。


「……ねえ、フィーナ」

「なーに?」

「フィーナは今回のこと……後悔していない?」

「……今回のことって、結婚のこと?」


 軽い驚愕と共に問い返すフィーナに、イルゼは小さく頷いた。


「なんだか……あっという間に決まってしまって。もしかしたらフィーナには、無理強いをしてしまったんじゃないかって――」


 周囲の大人は、イルゼとフィーナの関係を知るや否や結婚のことやら今後の生活のことなどをあれこれ思案して世話を焼き始めた。そうして、そうこうしているうちに、本人達の意思を半ば強引に突き進めるようにして、婚礼の日取りまでもが決められてしまったのだった。


 この村には小さな農村の例に洩れず若者が少ない。いたとしても成年に達したと同時に街へと出てしまう者も多い。そんな状況の中でセオリムにはここ数年、新生児の誕生が望めなかった。

 二人の結婚を待ち望む声が大きかったのは、そんな村の展望に不安を抱いている大人達が多かったためでもある。


「……イルゼは? 嫌なの?」


 心なしか曇った表情でフィーナは少年を見つめた。イルゼは一瞬、何を言われたのかを理解できずに呆気となったが、


「――嫌だなんて! そんなことないよ!」


 と慌てて大声で否定した。

 少女の確認はイルゼにとっては不要なものであり、有り得ないのが当然だった。なぜなら彼女との結婚を一番に望んでいるのは自分だと考えていたし、彼が思い描く幸福な未来にはフィーナの存在が不可欠だったからだ。


 それに、ともすると優柔不断なイルゼにとっては、この際、村人達のお節介は願ったり叶ったりだった。やはりフィーナは誰から見ても魅力のある娘だったし、少年が心穏やかでいられない時もあったからだ。

 しかしフィーナにしたらどうだったのだろうか――と考えると不安を抱かずにはいられなかった。


 フィーナはイルゼの大声に驚いた様子だったが、


「……良かった、嫌なのかと思っちゃった。イルゼって昔から人に遠慮して本音を隠すようなところがあるから」


 少女は「これからはそういうことはやめてね」と懇願をする。そして少し言葉を選ぶように続けた。


「そうね、確かにゆっくりと考えている暇はなかったように思うけれど……でも私は無理強いなんて考えたこともなかったわ。それに私、あなたの決断を待っていたら、確実に行き遅れになっちゃいそうだし」

「…………」


 フィーナとしては冗談めかして言っただけかも知れない――が、イルゼにとっては笑えなかった。なんといっても彼は、この少女に想いを伝えるだけでも、ゆうに数年間の時間を要したのだから。


「……でも、君のお父さんは、あまりいい顔をしていなかっただろう?」


 イルゼは初めてフィーナの家族と会した時のことを思い出す。


「それは、あの時まで、あなたのことを良く知らなかったからよ。だってイルゼったら、いくら家に食事を誘っても、いつも断ってばかりいたじゃない。今は父だってあなたのことを認めているわ。とても働き者の良い若者だって」

「そうかな……」

「そうよ」


 ふとイルゼがフィーナの顔を見ると、彼女は労るような優しい瞳で自分を見つめていた。

 この期に及んで情けないことを愚痴る自分が恥ずかしくなり、イルゼは思わずフィーナから視線を逸らす。こうなると本当に自分は彼女に相応しい相手なのかと、だんだんと不安になってくる。


「……それに、雑貨屋のエドワールやグレンとかアレックスだって、君のことが気になっていたみたいだし……」

「ええ、そうね、知ってるわ。グレンは知らなかったけど……他の二人には求愛されたもの」

「えっ!?」


 そんなの、聞いていない!

 驚愕でもってイルゼがフィーナを凝視すると、彼女は可笑しそうにクスクスと笑った。


「で、あなたが三人目だったの。でも本当に良かった、三度目で済んで。あんまり断っていると高慢ちきな女だと思われるじゃない?」


 フィーナは冗談っぽく笑う。だがイルゼにはそんな冗談は通用しない。彼は真面目な顔で「じゃあ、なんで?」と首を傾げた。


「なんでって……」


 イルゼの問いに今度こそフィーナは呆れたようだった。


「私が好きなのは、あなただけだったからよ」


 あまりにも素直で率直な答えに、イルゼは一瞬、言葉に詰まる。


「……え、ええと……そ、そうだったんだ……」

「そうよ」


 何故かフィーナは誇らしげに鼻をそびやかす。そんな少女を見て、少年は愛おしそうに小さく微笑んだ。


「じゃあ、もう一つだけ……この際だから聞かせて。フィーナ、君は……僕が怖くなかった?」


 少年の思わぬ問いかけに、フィーナは軽く目を見張る。


「何故?」

「……九年前――あの日、君は、森の動物達が冬眠から目覚める春先に、深淵の森へ子供達だけで遊びにきていたよね? 本当は大人達から固く禁じられていたのに。そして、そこで君だけが彼らとはぐれてしまって、一人で寂しそうに泣いていた」


 フィーナはイルゼを見つめる。少年は少女から目を逸らして、どこか怯えたような表情で話を続けた。


「君は、どんどん森の奥へと行ってしまって……。大声で友達の名前を呼びながら、泣きじゃくって走り続けて」

「ええ、覚えてる」


 さりげなくフィーナがイルゼの言葉を遮る。「え?」と少年は少女の顔を振り返った。

 そんなイルゼをフィーナは真っ直ぐに見つめ、柔らかく微笑む。


「私、方向を間違えてて森の外に出るつもりが奥へと行っちゃったんだわ。どんどんと薄暗くなっていく中で、みんなを大声で捜したの。すごく怖くて悲しくて……そんな時に、土熊の親子が草木の陰から現れた」


 少女は少年の話を引き継ぐように話を続ける。


「あの時、私、本当に駄目かと思っちゃった。このまま土熊に頭からパックリ食べられちゃうんだわって。お父さんとお母さんに約束を破ってごめんなさいって思った。もう二度と約束を破りませんから許してくださいって、必死に神様にもお祈りしたわ。そうしたら目の前に、赤毛の男の子が現れたのよ」


 懐かしそうに目を細め、フィーナは光に輝く草原を見やった。


「その男の子は私と同じくらいの年頃で、とても綺麗な顔立ちをしていた。その子は私に『もう大丈夫だから泣かないで』って言ってくれた。そして、毛を逆立ててこちらへと向かってくる土熊の母親に、こうやって手の平を向けて不思議な力で……」


 フィーナはゆっくりと手の平を前方に突き出して見せた。


「土熊の母親は倒れて、その傍らで小さな土熊が泣いていたわ……。男の子は私の手を引いて、森の外に連れ出してくれた。私、その子に『あのお母さん土熊は死んじゃったの?』って訊いたの。そしたら、その子は『ううん、気絶させただけだよ』って……とっても優しい顔で笑った」


 フィーナはイルゼを見て微笑む。


「それから村に戻って大人達にその話をしたけれど、あの森にはそんな子供はいないよって。だから私も、きっとあの子は神様が遣わしてくれた森の妖精様だったんだわって思うようになって……。でも、それから三年後、あなたはこの村にやってきた。森で一緒に住んでいたお父さんが病気で亡くなったからって……。私、すぐに分かったわ。あの時の男の子だって」

「……じゃあ、君は覚えてたの……? あの時の子供が僕だったことを知って……っ?」

「ええ……黙ってて、ごめんなさい。本当は、私から教えても良かった。でも私は、あなたの口から言って欲しかったの――」


 イルゼの手を握るフィーナの手が、微かに震えて力がこもる。少年は、まつげを伏せた少女の横顔を見つめつつ、長く深い溜め息をついた。


「……でも何故、村の大人達は、あなたのことについて教えてくれなかったのかしら? 森に住むあなたのお父さんのことは良く知っていたみたいだったのに」


 そう言ってフィーナは首を傾げる。


 イルゼの父親ダグラスは、森の奥に住む狩人だった。彼はセオリム村の出身者で、頻繁ではなくとも村人達とは交流があった。森で狩った動物の肉や薬草と引き換えに、村で作られた野菜や日用品を得ていたからだ。


「それは……教えてくれなかったんじゃなくて本当に知らなかったんだよ。僕が父さんに拾われた子供だったから」

「え?」


 一呼吸ほどの間をおいて、フィーナは驚いたように目を見張る。


「僕と父さんには血の繋がりはないんだ。村の人達は父さんが病気になってから初めて僕のことを知ったんだってさ。多分、どこかで拾ってきた子供を、そのまま人知れずに森で育てていたんだろうって……みんな、言ってた。父さんは必要以上に人と関わろうとはしなかったみたいだし、村の人達が僕のことを知らなくても当然だったと思う。それに考えたら僕は、物心がついた時から父さんと二人きりで住んでて、この村にくるまでは森から出たことさえなかったんだ。それが当たり前で、不思議にも思わなかったから――」


 でも、それも君と出会うまでだったけどね――と、イルゼは心の中で、そうつけ足した。


 森の中で迷子になって泣いていた一人の少女。彼女と出会ってからイルゼは外の世界に興味を持ち始めた。養父が死んだ時も悲しみに暮れる一方で、秘かに少女との再会を期待していた。


 森の中が全ての世界だった幼いイルゼにとって、養父ダグラスの死は絶望と見通しのきかない未来を意味していた。だが、その中でたった一つだけ残された光が、名も知らない少女――フィーナの存在だったのだ。

 そんなイルゼの想いなど知る由もないフィーナは、陰りのある表情を見せる。


「そうだったの……でも、それじゃあ、あなたの本当のご両親は……」


 当然の疑問をフィーナは遠慮がちに呟いた。それにイルゼは「分からない」という意味合いで頭を振る。


 ダグラスが本当の父親ではないと知ったのは、イルゼが六つになったかならないかの時だった。

 幼い頃、森で育ち暮らしていたイルゼには養父のダグラスしかいなかったが、そのかわりに多くの様々な動物達がいた。動物達は春になると愛の賛歌を歌い出し、夏には命がけで生み出した生命を慈しみ育んだ。


 そんな動物達の様子を見て、イルゼは一度だけ、ダグラスに訊いてみたことがある。「僕にはお母さんはいないの?」と。養父を困らせるつもりはなかった。訊くことへの罪悪感もなかった。ただ動物達にはいるものが自分にはいないのだろうか、と疑問に思って訊いてみただけのことだったから。

 確かに動物達の母親が子を慈しむ姿を見て一抹の寂しさを感じたことはあるものの、それも養父の逞しい胸に飛び込めば解消される程度のものだった。


 それまでのダグラスは、イルゼの質問と疑問にどんなことでも惜しみなく丁寧に答えてきたが、その時ばかりは軽く目を見張り、口元を戸惑いに満たしながら即答できずにいた。

 しかし暫くすると嘆息と共に目を伏せ、次に視線を上げた時には幼い息子をしっかりと瞳に映し、イルゼの全く知らなかった真実を伝えた。


 しかしその時に教えられたのは、ダグラスとイルゼに血縁がないことと、イルゼの本当の両親はすでに他界しているという事実だけにつきており、両親がどのような人達だったのか、何故ダグラスがイルゼを育てることになったのか、そして彼の持つ不思議な力は一体なんなのか――といった真相や経緯については何一つ語られることはなかった。

 その後、その件について再びイルゼが養父に訊ねることはなく、ダグラスも決して自ら口を開くことはしなかった。

 そうしてそれは、養父の死と共に永遠に失われてしまった。


 本来ならばイルゼは、そのことについて後悔をしないはずだった。なぜならばイルゼにとってダグラスは、血が繋がらなくとも最愛の父であることに変わりはなく、その彼が何も口にしなかったということは何かしらの意味があったのだろうと考えたからだ。

 ところがダグラスの遺した言葉によって、イルゼは予想外の悔恨を持つことになった。


 死の間際、ダグラスは混濁とした意識の中でも幼い息子の身を案じ続け、そうした末に喘ぎながらも次の言葉を継ぎ出した。


『一時でも立ち止まってはいけない、振り向いてはならない。目立たぬように、風のように流れなさい。それが、お前とお前の穢れなき心を守る術だと知り、お前の運命だと受け入れなさい――』


 忠告にも似たダグラスの言葉は、恐らくイルゼの知らない理由から成り立つものであり、その理由とはイルゼの出生に関わることに違いなかった。

 その遺言の意味を知り得ない今の状態は、歯痒さにも似た後悔として、イルゼの中でたゆたい続けている。


(それにしても何故、フィーナは僕との結婚を承諾したのだろう?)


 イルゼには不思議に思えてならない。フィーナは九年前の出来事を覚えいていた。ならば自分の持つ力が『普通ではない』と理解ができているはずだ。それは拒むことのできない事実であり、養父のダグラスもイルゼに幼い頃から言い聞かせていたことだった。


 イルゼは一度だけ、その力を使って繁殖期の動物達を楽しみだけに狩る男達を驚かせ、森から立ち去らせたことがあった。フィーナを助けてから少しあとのことだ。その出来事をイルゼは森の平穏を守った功労として誇らしげに養父に伝えたのだが、ダグラスの反応は少年が予想していたものとは全く違った。それを聞いた養父は、すぐに厳しい顔つきで村へと向かい――あとから聞いた話だったが、その男達は村人ではなく狩猟で村を訪れていた隣町の若者達だった。その時のダグラスは恐らく、イルゼのしでかした騒動を治めに村へ向かったのだろう――そうして帰ってきたあとには、少年を怒るわけでも褒めるわけでもなく、ただ悲しそうな表情を見せた。そして、まるで預言のように朗々と彼に言い聞かせたのだった。『その能力は諸刃の剣だ。使うたびにお前を追いつめ、お前を傷つけるだろう』――と。


 いまだにイルゼは、その言葉の真意を掴むことができていない。だが『普通ではない』自分に向けられる感情が決して良いものではないと理解はできるようになっていった。だから少年は村にきてからは一度たりとも能力を使ったことはなかったのだ。


「ねえ、フィーナ……君は、あの力を覚えているんだよね? だったら分かるだろう? あんなこと、普通の人間にはできやしない。もしかしたら、この力のために本当の両親と別れることになったのかも知れない。ねえ、僕が怖くなかったの? フィーナ」


 弱々しく向けられたイルゼの視線をフィーナは力強く真っ直ぐな双眸で受けとめる。そして握っていた少年の手を改めて両手で包み込んだ。


「あの時、あなたは、その力で私を助けてくれたわ。それがどんなに恐ろしい力だったとしても、その力を持っているのはあなたなのに? どうして私が、あなたの持っている力を怖がらないといけないの?」


 それは少女が少年に抱く絶対的な信頼からくる言葉だった。


「……じゃあ、後悔はしてないの……?」

「もちろんよ。当たり前じゃない」


 イルゼの震えるような声音に対して、フィーナはきっぱりとした口調で言い切り、花の蕾がほころびるように微笑んだ。イルゼは少女に対する想いに胸が強く締めつけられる。


「ありがとう……」


 目が潤みそうになるのを必死でこらえながら、イルゼはフィーナの柔らかな頬に手を添える。そして馴れてはいない仕草でそっと唇を重ねた。


「……あ、でも、もう一つだけ、聞いておかなきゃいけないことが……」

「え?」


 吐息のような少女の呟きに、イルゼは一瞬、身を硬くした。そんな少年をフィーナは悪戯っぽく見やり、


「ユーリがね、私にこう言ったのよ。花嫁衣装、私よりもあなたのほうが似合うんじゃないかって。全く、あの子ったら酷いと思わない? でもね、悔しいけどそうかもって二人で笑っちゃった! だからね、迷ってるの。あなたの衣装と私の衣装、交換したほうがいい?」


 イルゼは一瞬、ポカンと口を半開きにした。が、おもむろに笑いを零す。ユーリとは、フィーナと一番仲の良い少女のことだ。


「いいや、それは絶対にフィーナのほうが似合うよ。きっとユーリは、婚礼の時に吃驚するんじゃないかな」


 そう言って少年はもう一度、少女の頬に軽く口づけをした。


 もはやイルゼの心の中には一点の曇りもありはしなかった。もしかしたら今後、自分の持つ力のことで苦難はあるかも知れない。

 だがフィーナと共にゆく未来ならば、きっと暗いものではない――そうイルゼは信じて疑わなかった。

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