プロローグ 過去と未来

 ああ、またか、と少年――セレファンスは思った。


 それは何度も見る過去の夢で、それにも関わらず、何度だって忘れてしまう幼い頃の出来事だ。

 そして、真っ暗な記憶の奥底に沈めてしまった彼の罪だった。




 走る、走る、走る、恐ろしい者達から逃れようとして。一人、二人、三人と、自分達を守ってくれていた騎士達が離れていく。


 湖面の輝く湖の傍で休憩を兼ねて馬車から降りる時、まだ幼いセレファンスを抱えて下ろしてくれた若い騎士はもうすでに見当たらない。

 つい先程まで母の隣に付き従っていた二人の騎士は、奴らの足止めのために残った。


「命にかえましても」

「どうかご無事で」


 彼らの表情は力強い矜持と決意に満ちていて、母であるセラフィーナは「任せます」と短く言い置くと、すぐさま姉のフェリシアと幼い自分の手を両手にそれぞれ握って走り出した。


 疑問の余地もなく、口を挟むこともできず、いつもの穏やかで優しい母とは思えないほどの強引さで手を引かれ、馴染み深い騎士の二人を背後に見送った。


「フェリシア、ごめんなさいね」

「ううん」


 暫くすると荒い息をつきながら、ゆっくりと立ち止まり、母は姉に謝った。まだ六歳だったセレファンスには分からなかったが、四つ歳上の姉フェリシアには謝罪の意味が分かっていたようだった。


「〈言紡ぎ〉を」

「はい」


 姉はセレファンスの前に膝をつき、母は幼い姉弟を背にして立つ。


「セレ、セレファンス、私のやんちゃで可愛い大切な弟。あなたは眩し過ぎるから、キラキラ綺麗だから、みんなが欲しくなっちゃうんだわ」


 ずっと私達だけのものだったら良かったのに――

 そう囁いたフェリシアは、弟の金糸のような髪をサラリと撫でる。そうして儚げに微笑む姉は、とても美しかった。幼い弟であっても見惚れるほどに。


 フェリシアは両の手の平でセレファンスのまろい頬を包み込み、お互いの額をこつんとぶつけ合わせる。


「姉上?」


 不安からセレファンスの瞳に涙が滲む。覗き込むフェリシアの双眸は、春の空のように柔らかな色合いだ。セレファンスは夏の空のように鮮やかで、二人のそれらは瑠璃の宝石のような瞳を持つ母親譲りだった。


「大丈夫、あなたは守るから」


 名残惜しそうに離れると、次には祈るようにして両手を組む。父母の髪色を混ぜ合わせたかのような栗色の髪の少女は、春色の瞳を伏せる。


「精霊様、お聞き届けください。どうかこの子をお護りください。このキラキラと輝く綺麗な子供を貴方様の懐の中に隠してください。悪しき闇の者達に見つからないように、囚われないように――」


 フェリシアは真っ直ぐに天を望む。


「どうか精霊様、私の最後のお願いです」


 その時にセレファンスが目にしたのは、真っ青な蒼空を映し出したかのような姉の直向きな双眸だった。




 必死に走ったことだけは覚えている。たった一人で、母と姉に背を向けて、その場から逃げ出した。

 そうして気がついた時には、父親の逞しい腕の中にいた。生き残ったのはセレファンスのみだった。


 今は夢だが、あれは現実だった。それはセレファンスの罪の記憶を映し出した夢だった。


 助けて、お願い――!


 突然、切り替わった風景。知らない少女の叫び。いつもとは違い、今日の夢には続きがあった。


 栗色の髪をした春の空のような瞳を持つ少女が泣き叫んでいた。姉のフェリシアと容姿も年齢も違ったが、共通の色素がセレファンスの興味を引きつけた。


 あの少女が誰なのか、この風景がどこなのか、セレファンスには分からない。ただ分かるのは、これは今、起きていること。または、これから起きることだ。


 名も知らない村が闇夜の中で焼けていた。勢い良く風を巻く炎、崩れ落ちる轟音、紅い熱波が押し寄せる。

 その激しい光景を背にして、栗色の髪の少女はセレファンスに向かって絶叫する。


 お願い、彼を助けて!!


 途端、その少年が見えた。少女が助けてと懇願する『彼』の姿が。そして『彼』がセレファンスの求める力を持つ存在だと瞬時に理解した。


(あいつがそうなのか)


 ずっと探し求めていた者。その証である目立つ髪色は、目の前の惨状を象徴するかのように紅く鮮やかだ。

 十代半ば、現在の自分と栗色の髪の少女と同じ年頃だ。それらは事前に入手していた情報と合致していた。


「やっと見つけた」


 セレファンスは狂気にも似た歓喜を胸に抱く。なんとしてでも、ここから彼を連れ出さなければならない。過去の悪夢を終わらせるためにも。


 全てを拒絶するかのように蹲る赤毛の少年に、セレファンスは手を伸ばす。

 その手が少年の肩を掴む寸前、目が覚めた。




 呆然と天井を眺める。あまりにも唐突に終わった夢は、すぐにはセレファンスを現実に引き戻してはくれなかった。


 ここはトゥエアという町の宿屋だ。セレファンスの尋ね人が、この辺りの農村出身だという情報を掴んだことから、この町を拠点に今は動いていた。


(――母上と姉上の、昔の夢を見ていた気がする……でも今は、そんなことよりも)


 寝台の上で横たわったまま、もう少しで掴めそうだった手の平を少年は目の前まで持ち上げて見つめる。


「セレファンス様?」


 すぐ傍らで聞き馴染んだ女性の声がした。セレファンスの旅の供をしている女騎士だ。幼い頃から少年の世話を担ってくれている一回り年上の、もう一人の姉のような存在。


 すでに目を覚まして身支度を整えていたらしい彼女は、主の目覚めに気がついて声をかけてくる。


「おはようございます。良く眠っていらっしゃったようなので、もう少し後からお声をかけようかと思っていたのですが……どうかされましたか?」

「レシィ、この辺りの村で、現在火災に見舞われている、または見舞われる危険性のある場所を調べて欲しい」


 寝台の上で身を起こしながら、主である少年が命じた内容に、女騎士は目を見開いてから表情を引き締める。


「それは〈神問い〉ですか?」

「ああ」

「分かりました。今日からでも調査に入ります」


 レシィことレシェンドは、動き出した事態と夢の内容を察して静かにだが息を飲んだ。


〈神問い〉とは、彼女の仕える少年の一族が神代から脈々と血を繋いできた能力だ。体内に自然界の気を取り込むことで、これから起こり得る未来、または世界に蓄積された遠い過去や知識などを覗き見ることのできる力だった。


 恐らく事態が動くまで猶予はないのだろうとレシェンドは思った。あまりにも鮮明な内容の夢だからだ。

〈神問い〉は本来、儀式に乗っ取って顕現される能力だが、時として夢という形で問答無用に情報を受け取ることがある。そして、その内容が明確であればあるほど、近い将来の出来事になる。


 レシェンドは朝食後の行動予定を軽く頭で巡らせてから、主である少年を見た。少年は、寝台の上から動く気配を見せず、不安そうな眼差しで自分の手の平を見つめている。まだ夢の中を彷徨っているかのような顔つきだ。


 美姫と名高かった母親譲りの顔立ちと、いつもは紐で括られている金の髪は背まで無造作に流されており、成長し切っていない線の細さも相まって、その姿はどこか心許ない少女のようにも見える。


「手を、どうかされましたか?」

「ん、ああ、いや――」


 はっとしたように目を瞬いて、セレファンスは誤魔化すように困り顔で笑った。なんでもないと首を横に振るが、その顔色は良いとはいえない。


〈神問い〉は精神的な負担が大きい上に、内容によっては後々まで引きずることが多い。一族でも特に優れた感応力を持つセレファンスは、その程度が大きい。その影響で意識を失うことさえある。それについては彼の父親からも気にかけて欲しいと頼まれていたことだった。


「あ」

「――はい?」


 唐突に少年が声を洩らした。今、やっと覚醒したかのような顔でレシェンドを見る。


「おはよう、レシィ」


 その言葉にレシェンドは思わず目を瞬いた。そこでセレファンスも自分がおかしな反応をしでかしたと思ったのだろう、どこか気まずい様子で寝起きの乱れた髪を更に自分で掻き混ぜて大きく息をついた。


「悪い、なんかぼうっとしてた。挨拶してなかったから」


 言い訳のように零れた言葉にレシェンドは目を細める。この少年は幼い頃から変なところで律儀なのだ。感応力が強いがゆえに人を慮る想いが強くなるのだろう、その繊細な優しさがレシェンドには好ましい。


「いいえ、おはようございます、セレファンス様」


 二度目の挨拶にセレファンスは面映そうにしながらも「ああ」と頷いた。やっといつもの彼らしい聡明な表情を取り戻したのを見て、レシェンドは安堵する。


「見つけたのですか?」


 何を、とは聞かない。セレファンスも何が、とは聞き返さない。


「ああ、やっと見つけた……まあ、夢では掴み損ねたけどな」


(ああ、それで)


 だから先程から手を気にしていたのかとレシェンドは納得をする。


「その火災は〈闇からの支配者〉の手によるものでしょうか」


 思い見るように呟くと、セレファンスは恐らくと答えた。


「できることなら、厄災を防ぎたい」


〈闇からの支配者〉は対象に絶望感を植えつけてその心を操る。標的にされたのならば、その者はきっと癒えることのない心の傷を負わされることになるだろう。


 避けられるのならば、避けたい。見知らぬ少年のためにも、何より同じように苦しむ主である少年のためにも。


「できる限り、早急に」

「ああ。……そいつには、俺と同じようになっては欲しくないしな」


 レシェンドの心を知ってか知らずか、セレファンスは独白のように呟いた。

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