悠久のラセン

ミノル

第一部

前日譚 十三年前

 束の間の休息を促す藍の色彩が、室内を静かに満たしている。

 その恩恵を頂くことのできた幾つかの寝息が、微かにラルフレッドの耳へと届いていた。


(……やれ、寝そびれてしまったな)


 ラルフレッドは休息を完全に拒んだ身体を寝台から起こした。無理やりにでも夢の園へと入り込もうとしていた神経が、その重圧から一気に解放される。

 彼は一つ溜め息をつくと、隣の規則正しい寝息に気を遣いながら、鬱陶しく身体に巻きついていた毛布から抜け出した。


 毛布とは対照的な温度を持つ敷布の上を歩き、カーテン越しからも外の光を感じる窓辺へとラルフレッドは近づいていった。


 おもむろにカーテンの端に手をかけ、窓外を窺うための隙間を作る。すると途端、明るく白い光が視界へと射し込み、ラルフレッドは思わず目を細めた。


(今宵は満月だったか……)


 濃紺の帳が霞むほどの大きな白い月が、夜空の舞台で眩い主役を謳歌している。その下には大量の墨を注ぎ込んだかのような海が広がり、上空から投げかけられる光の帯を緩々と映し出していた。


「海が、恋しくなりましたか?」


 静かだが、どこか無邪気な色を含んだ声が、ラルフレッドの背後からかけられる。


 銀の澄んだ音色を耳にしたかのような心地でラルフレッドが振り向くと、そこには彼の妻であり、ここ西皇国リゼットの皇妃でもあるセラフィーナが微笑んでいた。


「セラ」


 ラルフレッドは一呼吸のあと、彼女の愛称を口にした。それはラルフレッドにのみ、使うことが許された、愛しい妻への呼びかけだった。


 薄い夜着姿のセラフィーナは、その呼びかけの意味を深く噛みしめるようにして小さくはにかんだ。

 セラフィーナは、室内に細く射し込む月光をちょうど全身に受け止めるようにして立っていた。腰まで流れる淡い金の髪が、細かな金糸のように白い光を弾いている。普段からも淡雪のように白い肌は一層、透明に輝いて見えた。


 まるで月の女神が舞い降りたかのようだ、と半ば惚気のような思考を抱いたものだから、ラルフレッドがセラフィーナの問いかけに反応するまで、やや暫く時間を要した。


「……いや、海は今でも好きだが、恋しいと思ったことはないさ。今はそれよりも愛しいものが、ここにはあるからな」


 その答えにセラフィーナは一瞬にして花開いたような笑顔を見せた。途端、月の女神が感情豊かな人間の娘へと変化する。


 素直で愛らしい感情を発露させるセラフィーナを見て、ラルフレッドは彼女の年数を経ても色あせない純粋さと、それに伴う美しさに感嘆を抱く。


 彼らが初めて出会ったのは、今から十二年も前の初夏の頃。ラルフレッドは二十七歳、セラフィーナが十四歳だった。

 その時のラルフレッドは世界の海を股にかける商船の主で、一年の殆どを海上で過ごしていた。一方のセラフィーナは、ただ一人の皇位継承権を持つリゼットの第一皇女だった。


 本来ならば、生まれも育ちも全く違う彼らが出会う確率は皆無だったに違いない。しかしなんの因果か、その時に『本来』から外れた出来事が二つ同時期に起こった。


 ラルフレッドの船に積むはずだった荷の到着が、この季節には珍しい濃霧の影響によって数日ほど遅れたのだ。こうしてすぐに荷を積みかえて出航するはずだった彼の船は、リゼットでの待機を余儀なくされた。


 一方のセラフィーナは、ほんの少しの出来心と日々の窮屈さ、膨らんだ好奇心によって、護衛の騎士を一人もつけずに皇城から抜け出してしまった。彼女は初めて見る外の世界にすっかりと心を奪われて、ついつい薄暗い路地にまで足を踏み入れてしまう。


 ちょうどその頃、ラルフレッドは待機中の暇を持て余して繁華街をぶらついており、そんな危なげなセラフィーナを目にする。彼女は人で溢れる街中でも人目を惹く存在で、しかも背後を怪しげな男達につけられていた。

 それに全く気がついていないセラフィーナの様子にラルフレッドは不安になり、案の定、彼女は男達に絡まれることになった。それを密かに見張っていたラルフレッドが、セラフィーナの助けに入ったのだった。


 それがきっかけで、ラルフレッドとセラフィーナの運命は交差した。その後、様々な出来事と困難と心情を経て、二人は結ばれるに至ったのだ。


「全く偶然とは恐ろしい。自分の人生が一瞬にして変わってしまうんだからな」


 周囲の反対を宥めて納得させた末、晴れて行われた婚礼の儀に、窮屈な正装で臨んでいたラルフレッドは思わず疲弊し切った声音でぼやいた。

 するとセラフィーナは、ニッコリと微笑みながらこう切り返したのだった。


「偶然ではなく必然です。何事もすべからく神のご意思ですもの」


 ラルフレッドは一回り以上も歳の離れた美しい花嫁を見ながら、確かにと思ったのだ。無邪気な女神の強いご意思ならばあったのかも知れないと。


 そうして自分は、それに抗うことを諦めて、商船の主から一国の主という平坦ではない人生へと舵を切った。その選択に今では後悔など微塵も持たないが、あれから暫くは幾度となく海に逃げ出したいと思ったことはあった。

 だがその度に、冴え渡った海のような双眸を持つ女神は、抗い難い魅力でもって、この地にラルフレッドをとどめ置いたのだった。


 そんなセラフィーナも今では二児の母親だ。しかし、その瑞々しい感性と同様に、若木のような体型は損なうことを知らない。


 ゆっくりとセラフィーナは、ラルフレッドの傍らに近寄ってくる。そして夫の鍛え上げられた太い腕に、あまりにも対照的な白い手を置いた。そうして見上げられた瑠璃色の瞳は、どんな至宝よりも美しくかけがえのないものだった。


 ラルフレッドはセラフィーナの背に両腕を回して抱き寄せる。彼女の細い身体はラルフレッドにとって嫋やか過ぎるもので、彼は不器用ながらも力の加減を怠ることはしなかった。


 セラフィーナの安心し切ったような吐息が、ラルフレッドの胸に押し当てられる。月の光が一つになった二人の影を室内の床にくっきりと映し出していた。


「夢を――また同じ夢を見ました」


 セラフィーナが喘ぐように言った。


「吸い込まれるような闇と紅い炎の夢――。炎は鮮やかで、闇を退けるほどの眩さを持っていました。ですが、その炎は闇どころか、そこにある全てを焼き尽くさんばかりの勢いでした」


 ラルフレッドは眉を顰めながらも、いまだ夢を彷徨っているかのような妻の声音に耳を傾ける。


「人間の負念は極限まで満ちてしまいました。それらを纏いし〈闇からの支配者〉は、今こそ世界フォントゥネルの滅亡を実現しようとしています。その〈鍵〉となる炎が〈闇からの支配者〉によって〈破壊の王〉へと捧げられた時、今はまだ辛うじて保たれている神の定めた摂理と秩序は完全に崩壊し、フォントゥネルは混沌の海に沈むでしょう」


 それは警鐘のように何度もセラフィーナの口から紡がれてきた言葉だった。当初、その内容は今よりも抽象的だったが、時が経つにつれて明確な予言を帯びていった。それが意味するところは、その恐ろしい内容が証明される時が確実に近づいているということだった。


「紅い炎と〈破壊の王〉……それに〈闇からの支配者〉か」


 ラルフレッドは胸中の温度を急降下させながら呟くと「それは〈神問い〉の類だな」と自分の胸に顔を伏せたままの妻に問うた。


「はい」


 セラフィーナの答える声が微かに震えている。ラルフレッドの腕に抱かれる細い身体は硬く強張っていた。


 ここ西皇国リゼットは、フィルファラードという名の大陸を分割支配する四つの皇国のうちの一つである。リゼットを含めた四つの皇国は、それぞれ東西南北を冠し、旧皇族の血統を受け継ぐ皇族の政権によって統治されていた。


 彼ら四大皇族には、時として人外的な能力を持つ者が誕生した。それによって引き起こされる不可思議な現象を総じて〈マナ〉と呼んだ。〈マナ〉は皇族の血に宿る資質と精霊からの扶助によって創り出す奇跡だった。


 セラフィーナは、その奇跡――〈マナ〉を顕現する者であり、この皇国の行く末を〈神問い〉によって占問う役目を持つ巫女だった。


〈神問い〉とは〈マナ〉の一種であり、この世界に漂う様々な気配を体内に取り込むことで、過去や未来の様々な情報を脳裏に映し出せる能力だった。

 本来は儀式に乗っ取って顕現される中だが、彼女のように優れた〈マナ〉持ちの者は、時として夢という形で情報を受け取ることがあった。


 ラルフレッドは怯える様子を見せて自分に縋りつく妻の金髪を優しく梳く。夢として受け取る情報は、恐らく儀式の中のそれよりも、より鮮明に彼女の心を支配するのだろう。しかもそれは目覚めれば霧散する夢などではなく、これから起こり得る予言なのだ。


「大丈夫だ、怖がることなど何もない。そうしてお前が〈神問い〉をすることによって、我々は確実に、少しずつではあろうが、闇のもたらす恐怖から遠のく努力をすることができるのだから」


 ラルフレッドは胸の奥に生じた重苦しい感情を意識しないように、努めて明るく言った。それにセラフィーナは繊細な面を上げ、小さく微笑んで頷く。しかしその白い頬にはやはり拭い切れない憂いがあった。


「〈闇からの支配者〉か」


 ラルフレッドは嘆息するように呟いた。


「かの者は一体、いつから存在して、どのように存在するようになったのだろうな」

「……かの者、と称するには、語弊があるのではないでしょうか……」


 思い深く呟く妻をラルフレッドは興味深そうに見た。するとセラフィーナは、ラルフレッドの屈強な胸板に白磁器のような手を添える。


「あなたのここに〈闇からの支配者〉はいます」


 ラルフレッドは思わずセラフィーナを瞠目した。それに彼女は微笑むと、続いて自分の胸にも片手を添える。


「そして、私の心の中にも」

「……どういうことだ?」


 ラルフレッドの怪訝な問いに、セラフィーナは少し思い悩んだ末、言葉を選ぶようにして言った。


「そうですね……言い表すのは簡単ではありませんが〈闇からの支配者〉とは、人間の中に必ず存在する負的な心――それを支配できる者、でしょか」

「人間の負的な心を支配できる者?」

「はい」

「ふむ……」


 ラルフレッドは妻の見解に対して、どんな解釈を口にして良いものか、少し迷った。


「――となると〈闇からの支配者〉という存在は、我々人間を支配し得る力を持つということか? ならば我々は〈闇からの支配者〉に打ち勝つことなどできずに、ともに滅びの道を歩むしかないということではないのか?」

「いいえ。人間は神に創られ、世界からの恩寵である精霊の恵みを受けられる身。本来、負的な心を克服する能力を持ち合わせています。ですから私達は、この世界に存在し続けるのですから」

「ふむ……」

「私の言うことは理解しがたいですか?」


 どこか申し訳なさそうな、後ろめたいような様子でセラフィーナは表情を曇らせる。それにラルフレッドは苦笑した。


「そうだな、正直、俺には難しい事柄が多過ぎる。俺は無骨者で、頭で考えるよりも感覚で物事を捉えがちだ。かといって、セラのように不思議な能力を持ち合わせていないので、それにも限度がある。お前が感じて考える全てを正確に理解することは無理なのかも知れない。だが先程の説明では、人間の中には希望も存在するのだと伝えたかったのだろう?」


 ラルフレッドの言葉にセラフィーナは微かに笑んで頷いた。が、すぐに憂うような表情を閃かせる。


「人間は強靱で強かな生き物です。ですが儚く脆くもある。同じ人間という種でありながら、様々な価値観と倫理のもとに生き、そこで争う者達がいる。ある者は慈愛に富み、ある時を境に冷酷な一面を見せることさえある。個の人間でさえ、その感情に確かな定義を持たずに激しい移ろいを見せることがある。神でさえも惑い、その見定めを失うほどに――」


 セラフィーナは縋るような双眸をラルフレッドへと向けた。


「ですが私は、人間という存在の可能性を信じています。嘘ではありません、本当です。だからこそ私は、この身をフォントゥネルの未来に捧げることを決めた。ですが時として私も、噴き上がるような憎悪を抱かずにはいられないのです。何故、人は、これほどまでに愚かしいのかと……!」


 セラフィーナは耐えかねたようにして、再びラルフレッドの胸に顔を伏せた。


「セラ」


 ラルフレッドは激しい感情を見せる妻の名を愕然として呟いた。


 いつでも彼女は優しい微笑を絶やさずに、寛容な精神でもって人々と接していた。人々はセラフィーナの深い慈愛と容赦の心を賞賛し、彼女を現代の聖女と謳った。そして夫であるラルフレッドさえも、彼女の中には憎悪や憤怒といったものなど存在しないのだと錯覚をしていたのだ。


 ラルフレッドは今までセラフィーナに強いてきた負担を痛感し、それらを今こそ掬い上げなければという気概に突き動かされ、妻を強く抱きしめた。

 同時にラルフレッドは、セラフィーナが深く苦悩する様子から、人間が猶予のない瀬戸際に立たされていることを悟った。だがそれは人間が自ずから招いた危機であることを彼は十分に理解していたので、憂いよりも不甲斐ないといった嘆かわしさのほうが大きかった。


 何せフィルファラード大陸を分割統治する四大皇国は、七百年もの間、大陸統一を巡って今も対立を繰り返しているのだから。

 国勢が拮抗している間は、虎視眈々と牽制し合い、その均衡が崩れ去った途端に武力でもってお互いを傷つけあう――。それは、ここリゼットも例外ではなかった。


 そんな争いそのものの大陸史は、大量の負念を世界に蓄積させたことだろう。今、差し迫っている終焉の原因は、人々の争いによって生み出された負的な心に起因しているのだから。そして自分達は、終焉迫る現在に至っても、そんな愚かしい争いに終止符を打てずにいる。


 腕の中にいたセラフィーナが軽く身をよじり、ラルフレッドを見上げた。その瑠璃色の双眸には、ラルフレッドの情けない表情が映り込んでいたが、彼女の意識は何か別の存在を捉えているかのようだった。


「光」


 ポツリとセラフィーナが言葉を零す。ラルフレッドは彼女を改めて見つめる。


「ああ、そうだわ……あの時、光も見えた。弱々しいけれど、確かな存在を持った輝き――」


 独白のように続けるセラフィーナの双眸には、はっきりとしない薄れた意識がたゆたっている。恐らく彼女の心は今、夢の記憶へと飛び去り、その深淵を覗き込んでいるのだろう。


「そう、あれこそがきっと、私達の大切な――」


 と、ここでセラフィーナの言葉は中断を余儀なくされる。か細く拙い悲鳴が、彼女の意識を現実に引き戻したからだ。


「母上? ねえ、母上はどこ? 恐い、恐いよう母上!」


 完全に意識の回復を見せたセラフィーナは数回、瑠璃の双眸を瞬かせる。そして、その声の主の名を小さく呼ぶと、ラルフレッドの胸を軽く押しのけ、その腕から逃れるようにして身を翻した。


 白い夜着の裾と淡い金髪を慌しげに揺らしながら、セラフィーナはラルフレッドから離れていく。

 去る妻の背を見、急速に腕から失われてゆく彼女の温もりを感じながら、ラルフレッドは幾ばくかの寂寥感を抱いた。そんな自分にラルフレッドは気づくと、苦笑して遅れながらもセラフィーナのあとを追う。


「セレファンス」


 セラフィーナが優しく呼びかける。


 大きな寝台の丁度真ん中に、セラフィーナと良く似た金の髪を持つ幼児が一人、座り込んでいた。ふくよかな両手には毛布の端が握られており、やはりセラフィーナと良く似た青空のような双眸には、今にも零れ落ちそうな涙がたまっていた。だが、それはたった今、寝台に近づいていったセラフィーナを見上げて目を瞬かせたため、あっけなく薔薇色に染まった頬を滑り落ちていったが。


「母上!」


 その天使のように愛らしい幼児は、心細さを堪えるために必要だったのであろう毛布を手放し、空いた両手を最も望む温もりへと伸ばした。


「母上、母上!」

「あらあら、駄目よ、セレファンス。そんなふうに男の子が泣いては」


 甘く香るような声音で、三歳になったばかりの幼い息子を窘めながら、その小さな身体をセラフィーナは抱き上げる。


「だって、だって、恐いんだもの、とっても!」


 セレファンスは舌っ足らずな声で必死に訴えた。母親の腕の中であっても安心するどころか、自分の感じたことを理解してもらおうと混乱したままに言葉を継ごうとする。しかし、それで良い結果が得られるわけもなく、苛立ちを募らせ、ますます混乱を招く。


 軽い癇癪を見せ始めた息子をセラフィーナは優しく見つめる。そして、その頬に柔らかな口づけをすると、


「大丈夫よ、セレファンス。何が恐かったのかしら? 母様に、ゆっくりと教えてちょうだい?」


 柔和に微笑む美しい母親を見て、セレファンスは数回、つぶらな瞳を瞬く。すると次には素直に頷いて、少しばかり考え込んでから口を開いた。


「……あのね、真っ黒くて、火がいっぱいの夢を見たんだ。最初はすごく真っ黒で、誰かがぼくを引っ張っていくんだ。すごく恐くて、恐くて、ぼく……」


 セレファンスの拙い説明に、セラフィーナは一瞬、頬を硬化させる。だが幼い息子のほうは自分の思いを言葉にするためだけに心を砕いており、それには全く気がつかない。横にいたラルフレッドには、妻の動揺が空気を揺らす振動となって伝わってきたが。


「そう、それで……他には? 何が見えたの?」


 セラフィーナは動揺を悟られないためか、セレファンスの身体を寝台の上に下ろして、その端に自らも腰をかけた。

 するとセレファンスは、すかさず甘えるようにして母親の片膝に手を伸ばす。そして身体を子猫のように丸め、その膝の上に片頬を押しつけた。

 そんな息子の行動をセラフィーナは愛おしそうに見つめると、その小さな背を優しく撫でる。


 母親の温もりを存分に堪能したあと、セレファンスは思い出したかのように話を続ける。


「……ええとね、それでね、火が……周りがいっぱい燃えてた。だからもう暗くなかったんだけど、そこにいる人達はみんな泣いてて……。悪い奴らがね、いっぱいいたんだ。そいつらが、その人達を捕まえていくんだよ。そうしたらね、その人達が苦しい助けてって、嫌だ恐いってぼくに言うんだ。なんで、こんな目にあわなくちゃいけないのって……」


 セラフィーナの片膝にしがみついていた小さな身体が、更に小さくなろうとするかのように強張る。


「みんな、本当に苦しそうだった。可哀想だった。だからぼく、助けてあげようとしたんだよ。でも近づいていったらあの人達、ぼくの髪がキラキラ綺麗だから、いいな、ちょうだいって言って引っ張ってきて、嫌だって言っても放してくれなくて……そのまま、もっと暗いところへ連れていこうとしたんだ。ぼくが一緒なら恐くないって、でもぼくは嫌で、恐くて、だからぼく、あの人達を――」


 そこで一旦、拙い言葉は途切れ、次には一層、悲痛な色を帯びる。


「ぼく、ぼく、あんなことをするつもりじゃなかったんだ! でも、あの人達の声が恐くて悲しくて気持ち悪くって、あっちに行けって言っちゃった。そうしたらみんな、ぼくのことをとっても怖い顔で見ながら消えていって――ぼく、あの人達に酷いことをした! ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」


 ふええっ、という調子の外れた管楽器のような声音に続き、激しい泣き声が藍色の室内を支配した。ラルフレッドは幼い息子の慟哭を聞きながら茫然とし、セラフィーナは苦しみに喘ぐかのように吐息を洩らした。


 恐らくセレファンスは、その夢の中で今際の際に発せられた人々の心を受け取ってしまったのだろう。恐怖、悲嘆、憤怒、理不尽な思い――。人が抱く感情の中で、最も暗く激しい感情は、大きな奔流となって穢れのない心を飲み込もうとしたに違いない。


 その本性がたとえ救済を求める祈りであっても、大人でさえ正視しがたいものを、たった三つの幼子が許容できなかったからといって、誰が責めることなどできるだろうか。それなのに、この子供は、それを後悔して己を責めていた。


「ああ、セレファンス、セレファンス……」


 セラフィーナは微かに震える声を絞り出し、無垢が故に弁解が成り立たない心を守るようにして、泣きじゃくる息子の背に覆い被さった。


「それはただの夢なの、悪い夢よ。だから、あなたが謝る必要なんて、これっぽっちもないの。だってセレファンスは、とっても優しい子だもの。それを母様が一番、良く知っているわ……」


 幼い息子の心から、軋みながらも動き続ける痛ましい音が聞こえるようだった。

 するとセラフィーナが、ゆっくりと静かに子守唄を紡ぎ出す。

 

 眠れ眠れ 小さな愛しい子

 母の胸に耳を傾け 穏やかな夜を信じてお眠りなさい

 夜空の女神は時の粒を振りまき 闇に沈む森は眠る小鳥をいだく

 眠れ 私の愛しい子

 あなたの中の光が 朝の輝きになることを信じて……

 

 夜の静寂と調和するような柔らかな声音が、室内を静穏な空気に変化させる。セラフィーナの傍には、いつの間にかセレファンスだけではなく、背後の毛布にくるまって眠っていたはずの娘フェリシアまで近寄ってきていた。


 小さな彼女は、春の空のような瞳を眠たげに瞬きながら「セレ、泣いていたの?」と、子供ながらの愛らしさで首を傾げる。その拍子に、父親と母親のそれを混ぜ合わせたような栗色の髪が肩の辺りで柔らかく揺れた。


「ええ、少し恐い夢を見たの。でも、もう大丈夫よ」


 セラフィーナは魔法をかけられたかのように眠るセレファンスを見下ろし、微笑む。


「あのね、母様」


 フェリシアが夢の園への強制送還を懸命に拒んでいるかのような眼差しと声音で言った。


「セレは眩し過ぎるの。眩し過ぎて目立っちゃってキラキラ綺麗だから、みんなが欲しくなっちゃうんだわ」


 セレファンスより四つ年上の娘をセラフィーナは一瞬、驚いたように見つめる。だが、そんな母親を娘は気にする様子もなく続ける。


「でも、誰にもあげないわ。だってセレは私の弟だもの。だからずっと、ずっと私が守ってあげなくちゃいけないんだから」


 そんなこまっしゃくれた物言いをすると、フェリシアは先程のセラフィーナと同じように、だが少し強引な仕草で、金の髪をした弟の頬にふっくらとした唇を押しつけた。

 そして小さな欠伸を一つすると「母様」と寝言のように呟き、弟の金髪に自らの栗色の髪を混じり合わせるようにして、セレファンスが占領しているほうとは反対の母親の膝に顔を伏せた。


 安らかな寝息が二つ、競い合うようにして室内を流れ始める。


 セラフィーナはそれらの呼吸音を暫く聞いたあと、軽い安堵の溜め息と共に柔らかな微笑を口元に浮かべた。


「二人とも、眠ったか……」


 今まで母子の様子を端から見つめていたラルフレッドは足音をひそめて近づき、それぞれ母親の両膝に伏せる子供達の顔を覗き込む。そこには母の温もりに安心し切った寝顔があった。親の欲目を引いても、天使と形容するのに相応しい子供達の姿を視界に収めてラルフレッドは破顔する。


「……それにしても、この子達には驚かされました」


 独白のような声音にラルフレッドはセラフィーナに視線を向ける。何を指して言っているのかは明白だったので、ラルフレッドは何も言わずに次の言葉を待った。


「この子達の〈マナ〉は親として把握しているつもりでしたけれど、まさかセレファンスにまで〈神問い〉の能力が――それも夢にまで見てしまうほどの才を持つとは思ってもみませんでした」


 セラフィーナは、それを明らかに歓迎していない様子で眉根を寄せた。


 皇統を継ぐ者に限り、その不可思議な能力は宿る。その要因として上げられるのは、皇族の始祖が神に属する者であったから――とする伝承である。


 だが、このような国家の威信に関わる伝説の捏造は珍しくもないし、史実とできるような確証は何一つ残されていないので、歴史学的には疑問視の声も多かった。


 しかし当の皇族達にとっては今更、真偽のほどを論じる価値もないだろう。何故ならば彼らは確かに他では持ち得ない能力を有し、そんな皇統を多くの民達が稀少に捉えて敬意を払っているのには違いなかったからだ。


 しかし、それも近年では稀と言われるほどに〈マナ〉持ちの皇族の出生率が減少し、能力も弱まってきている。数百年という時を経て、その特殊な血脈が薄まったせいであろうが、民衆の中には神や精霊からの加護が皇族から失われつつあるのだと不安視する者も少なくはない。


 このような事情から〈マナ〉を発現した皇子皇女の誕生は、四大皇族にとっては権威の維持回復に繋がる。皇族である親にとれば、子供達の能力の顕在は喜ばしいことのはずだったが、セラフィーナの中では母親としての心情がそれを上回っているのだろう。その能力を自らも強く有しているが故に、その辛さを痛いほどに知っているからだ。

 いや、そうではないラルフレッドであっても、先程の我が子の悲愴を目の当たりにして深く心を痛めたのだから、彼女の心痛はいかばかりか。


「だが何故、皇子であるセレファンスにまで〈神問い〉の能力が? この子にそれはあっても、その類ではなかったはずだ」


 ラルフレッドは極力、振動を起こさないように気を遣いながら、セラフィーナの隣に腰を下ろした。するとセラフィーナは悲しげな表情で首を横に振った。


「皇子だからといって、その資質がないわけではないのです。ただ〈神問い〉という行為は、精神的な危険が伴うものですから、皇位を受け継ぐ皇子には科せられないだけ……。でもセレファンスのように夢見をしてしまうほど、強い才を有する皇子は珍しいのだけれど……」


 ラルフレッドは得心いったように頷く。同じ〈神問い〉の能力を持つ姉のフェリシアでさえ、そうして夢見でうなされたことはなかったはずだ。ただ彼女は将来、母親と同じように儀式に乗っ取って〈神問い〉を行う姫巫女となる。

 対して皇子として生まれたセレファンスは、これほどの天分さえ持たなければ〈神問い〉の苦しみを一生、知らずに済んだのだろう。しかも夢見は儀式で行われるそれとは違い、本人の意思に関係なく、心の準備もできないままに情報を押し込まれることになる。

 それは、まといのない幼い心を無理やり浸食されているも同然だった。へたをすれば自我の崩壊を招きかねない。


 ラルフレッドは妻に頼まれてセレファンスの小さな身体を受け取る。ラルフレッドの腕は十代の頃から船上で荒潮と照りつける陽光に晒され続けてきたものだ。そんな強靱な腕に抱く息子はあまりにも小さく軽かったが、その存在と温もりは絶大なものだった。母親から特徴の大半を受け継いだ愛らしい容貌は、知らず知らずのうちに微笑を誘い、そのほっこらとした体温は抱く腕から全身に浸透して心に安寧をもたらした。


 セラフィーナが娘の身にかけた毛布を整えながら、その頬に優しく口づけをする。ラルフレッドは母の慈しみを受けながら眠り続けるフェリシアの横にセレファンスをそっと下ろした。


 一組の愛らしく美しい姉弟は、父母の優しい眼差しに見守られながら、規則正しい寝息を立て続けている。

 

 ラルフレッドはふと、先程のセラフィーナの言葉を思いだした。彼女は確かに言った。闇の中に光を見い出したと。

 闇の部分を持たずに生き続ける人間など、この世には存在しない。だが、それに優る光を抱くことはできるのだ。


(ならばきっと、いつの日か、この子達は安心して眠れる夜を得ることができるのだろう。いつかきっと……)


 祈りにも似た思いをラルフレッドはそっと胸に抱く。

 ……しかし、その思いは、将来儚く霧散することになる。


 その三年後、ラルフレッドは自らの手の届かぬところで起こった悲劇によって、最愛の妻と娘を一度に失うことになり、その中でただ一人生き残った息子は、幼い頃に見た夢など比ではないほどの絶望を目に焼きつけることになる。


 そうして時は流れ、心と記憶は移ろいゆく。更に十年後、新たな物語が紡がれ始める。

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