眠らない男

大和 真(やまと しん)

第1話

「眠らない男」

               大和 真 

並木翔平は数週間前から不眠に悩まされていた。最初は寝つきが悪いと軽く考えていただけだったのが、毎日続く眠れなさで仕事にも悪影響が出そうだと思い、心療内科に居た。文具販売のセールスなので梅雨時期は忙しくない為、午前を欠勤にして予約を入れていた。「並木さん、並木さん、診察室にお入りください」

 アナウンスに従い診察室を開けると、60代前半と見られる優しい顔立ちの医師が振り向いた。問診票には眠れない事を書いていた。

「数週間前から寝つきが悪い、何か生活で変わったことはないですか?例えば仕事上のトラブル、家庭のストレスなどは?」

「仕事はセールスですけど、特にノルマもなく、契約店を回るのが主なので順調です。一人でアパート暮らしなので家庭のストレスもなく、ごみ屋敷でもなく、潔癖すぎるほど磨くタイプでもないので家でのストレスもこれと言ってないです。蒸し暑い日はエアコンで快適な温度で寝るようにしています」

「不眠と言うのは、誰にでも起こりえる事なので必要以上に心配しないで下さい。眠れない時のお薬を出しておきます。寝る前に一錠、二週間分です」

 翔平は今夜からは安眠出来ると安堵し、心療内科を後にした。午後の出社までは時間があるので、会社近くのファミレスで先に昼食を摂る事にした。不眠が始まってからは食欲も出ないが、体力の事を考えて無理にでも食べるようにしていた。アルコールの飲めない体質の翔平は、アルコールを飲めば眠れるのかなと一度酎ハイを帰りに買って、寝る前に飲んだものの、見事に頭痛と吐き気に襲われた。その日以来、アルコールは口にしていない。翔平の座っている窓際の席にウエイトレスを呼び、

「日替わりランチお願いします。ライスは小で、サラダとスープバーセットでお願いします」

 スープバーはコンソメを入れ、付属のクルトンを浮かべた。サラダは本来好きではない翔平だが、不眠が始まって体調を考えるようになってからは、良く食べていた。青じそドレッシングを軽くかけたサラダを食べ、コンソメスープを飲み干し、お腹が温まって来た。お腹を温めると良く眠れると本で読んだ気がした翔平は、ミルク、ココア等を寝る前に飲んでみたが症状は変わらなかった。スープも有りだなと、心地良い状態の並木は次に中華スープを入れる為に立ち上がった。

 日替わりランチのハンバーグと唐揚げ、ミニコロッケと二杯飲んだスープで並木のお腹は満腹感に満たされた。午後からも仕事を休みにしとけば良かったと少し悔やんだが、仕事も溜まっているので午後からの仕事は頑張って、身体を疲れさせれば安眠出来るかもと考えた。時計を見るとお昼を少し過ぎた時間。午後の仕事のスタート時間は一時なのでもう少しファミレスで座って涼んでいる事にした。

何気に窓の外の歩道を眺めていると、人の流れが見える限り全員が左から右へ向かっている。それも全員が走りながら。気になった翔平は窓から人の流れが来る左側を覗き込んだ。

走り去る集団の最後尾に、梅雨時期の歩道でトレンチコートを着た男が歩いているのが見えた。映画の撮影を思わせる逃げ戸惑う人々が口々に何かを叫んでいる。 トレンチコートの男は右手で包丁を振り回し、逃げ惑う人を切りつけながらこちらに進んでくる。翔平の居るファミレスも騒がしくなってきた。従業員同士が何かを話し合っている。翔平同様、他の客達はどうして良いのか不安げにファミレスの従業員の指示を待っている。翔平は少し冷静に考えて、この手の犯人が店内に入る事はないと予想していた。翔平の座る席の外をトレンチコートの男が通り過ぎようとした瞬間、男は右を見た。翔平はトレンチコートの男と目があった。黒目は何処までも深く沈んでいきそうな黒。髪は短髪で髭もなく、透き通るほどの白い肌で、エリートサラリーマンを思わせる男は、どこか寂し気な表情だった。男は歩道を逃げる人々を無視するように店内に入って来た。凍り付いた店内で誰も声をあげる者は居ない。待ち合わせの友人を探すように窓際に座る翔平を見つけ、包丁を持った右手を上げ近づいて来る。翔平の目前に男が来た瞬間、右手に持った包丁で翔平の左胸を刺した。店内が騒然としたが、翔平の耳には届かない。刺した男の顔が目の前にあるだけ。この時、初めて自分は刺されたのだと気がついた。男が刺した包丁を抜いた瞬間、血しぶきが舞った。店内で悲鳴が上がり、翔平の座っていた椅子の周りは血の海。翔平の意識は遠くなり、これでゆっくり眠れる、と思った瞬間に

「ひでくん、朝だよ。今日は良く眠れた?」

 妻の朋美の声で目覚めた平英久はベッドから起き上がりスマホの時刻を確認した。午前七時ちょうどだった。額と首筋には流れるほどの汗をかいていた英久は、ノロノロとベッドから起き上がり朋美の後を追った。

「おはよう、朋美」

キッチンでは妻の朋美がエプロンを着け朝食の準備をしていた。

「どうしたの?凄く疲れた顔をしている。汗も凄いじゃない。体調が悪いの?」

 心配をしてくれる朋美に英久は説明した。

「ほんとに怖い夢を見たんだ。詳しくは覚えてないけど、ファミレスでご飯を食べて座っていたら、暴漢が襲ってきて心臓を一突きされた夢を見た。俺はこのまま死ぬのかな?そう思った時に、朋美の声で目覚めたんだ。ほんとに怖い夢だったよ」

「そうなの?英くん二週間前から寝つきが悪くて眠れないって言ってたよね。今朝は良く寝てるなって安心してたんだけど、そんな怖い夢見てたんだ。私も刺されたところを想像しただけでゾッとする」

 朋美は自分の両肩を抱き抱える仕草をした。

英久は朋美の作ってくれた、少し甘いスクランブルエッグをイングリッシュマフィンに乗せて頬張った。カリカリのベーコンも英久の好み通りに焼いてくれている。サラダは英久が嫌いなので、キュウリ抜きのサラダだ。「今夜は七時だよ。忘れてないよね?」

この日は二人の結婚記念日。夜にレストランを予約しているので、朋美が英久に確認した。

「忘れる訳ないだろ。予約も俺がしたのに。朋美こそ大丈夫か?一応はドレスコードの店だから気をつけてくれよ」

「知ってます。英君が何回も言ってたもん。男はスーツのままで良いから楽で良いよね。私は昨日からバッグに詰めて用意してるよ」

「朋美の職場には六時半までには到着出来ると思う。着替えて正面で待ってて」

 英久の勤め先はホームセンターの営業職。普段から車で通勤し、顧客回りも自家用車で回る。朋美は学生時代から本が好きで、本に囲まれる仕事がしたい、と言っていた。その言葉通りに図書館の司書になれた。図書館司書の国家資格を取れた時の喜びは今も忘れない。通勤の為、二人は車に乗り込んだ。英久の通勤の通り道に図書館がある為、朋美を途中で下すのが二人の出勤方法になっている。結婚前にこの通勤スタイルで出社出来るマンションに空室があったのも有難かった。

「それじゃ、仕事頑張って。六時半よりは早く来るようにするから」

「うん、ありがとう。英君も気をつけてね」

 英久は今日の仕事のスケジュールを考えた。先ずは得意先を回り、午後から新商品の打ち合わせ。今日の為に予約した花束を取りに行くのはやはり退社してからだ。朋美の好きなバラの青と白、感謝の意味を込めてカスミソウ、ブルースターで信じあう心を込めて花束を注文している。朋美の喜ぶ顔を心待ちにして仕事を頑張った。

 仕事に忙殺されて一日を過ごした翔平は壁の時計に目をやった。時刻は午後六時前になっていた。急いで帰り支度をし、車に乗り込んだ。花束を注文している花屋までは車で数分。花束を受け取り、図書館までの時間を逆算しても少し余裕があった。

図書館に着くと、同時に朋美も出て来た。乗り込むと同時に助手席の花束に気がついた。「英君ありがとう。私の好きな花を知ってくれてたんだね。ほんとにありがとう」

 花束を抱え助手席に朋美が乗り込み、車を発進させた。

「朋美、お疲れ様。これからもよろしくな」

「うん、私こそよろしくね。ほんとに感激した。花束を結婚記念日に用意するなんて英君に惚れ直しちゃった。ところでこの道の渋滞ひどくない」

「ああ、俺もルートを変えようか迷ってたんだ。ここを左に行って突き当りを右に出ると早いんだ」

 英久の選んだ道に他の車は走っていない。ついついアクセルを緩めずにスピードを出した。右折前の一旦停止も、スピードを緩めずに曲がろうとした瞬間、クラクションの音が聞こえたかと思う間もなく左から猛スピードで走行して来た車と衝突した。英久の車は宙を舞い、天井から落ちた。朋美は開けていた窓から這うように出た。運転席側に回り込むと、英久はシートベルトに支えられ、ピクリとも動かない。

「英君、英君、英君」

 英久の耳に微かに朋美の声が聞こえた。英久は事故の衝撃と、車が回転した衝撃で頸椎に致命的なダメージを負った。痛みは神経が麻痺しているのか、感じない。遠のく意識の中で朋美の花束を渡したときの嬉しそうな顔が思い出される。朋美、ありがとうと言いたくても言えないもどかしさ。このまま死んでいくんだ。これでゆっくり眠れる……

「オギャーオギャーオギャー」

久保山さん、元気な男の子ですよ。

 母の胎内で怖い夢を見て生まれ落ちたこの子はどんな夢を見るのだろう。

                 了

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