第11話 逢魔が時

 アイスクリームの入ったレジ袋を手に持って、呼び鈴は押さずに庭に廻った。そっと靴を脱ぎ、縁側の障子に手を掛ける。障子の真ん中にある笹の葉の模様の硝子からは、黄色い光を感じられるだけで、内の様子を窺い知ることは出来ない。

 また眠っているといけないので、僕は小さく声を掛けようとした。

「沙絵さ……」

「やめて!」

 突然悲鳴のような声が聞こえて、僕はレジ袋を取り落とした。袋から飛び出したアイスクリームのカップが縁側を転がり、庭に落ちる。

 中からは獣めいたうめき声が聞こえた。何を聞いたのか理解できずに、僕は縁側に立ち竦んだ。沙絵さんに何かが起きたのだと思った。何か、とても悪いことが……。

 開けようとした障子は鍵が掛かっているかのように固くて、なかなか動かない。いや違う。自分の手に力が入っていないのだと気づいた。開けてはいけない。頭の中に響くそんな声が、身体の自由を奪っていた。

「お願い、やめて」

 懇願こんがんするような沙絵さんの声に、すすり泣きが混じる。ようやく動いた手で障子を引き開けた僕は、その場から動けなくなった。

 ちゃぶ台の横に、着物の背中が見えた。帯が解かれ、随分乱れたそれは、電灯の淡い光の中で小さく揺らいでいた。

 その向こうに、長い黒髪が広がっていた。さらされた喉と、細い肩が、自らが光を発しているかのように浮き上がって見えた。

「雅尚さん……やめて。堪忍かんにんして、お願い……」

 薄闇の中で蠢く沙絵さんの白い肌は、信じられないほどに艶めかしくて。けれど、その声はたまらなくつらそうだった。

 障子の隙間から差し込んだ光が部屋の中を照らす。彼女の頬は涙に濡れ、えくぼがある筈の口元は、切れて血が流れていた。僕に顔を向けた沙絵さんの目が大きく見開かれ、やがて悲し気に閉じられた瞼から、新しい涙が零れるのが見えた。


 僕はその日、生まれて初めて男女の交合まぐわいというものを目にした。それは淫靡いんびで重苦しくて、そして悲しみに満ちていた。


 しばらくして、雅尚さんの背中から力が抜けるのが見えた。ゆっくりと起き上がると、脱げかけていた着物を肩まで引き上げ、羽織った状態でふすまを開けて出て行く。

「待てよ!」

 身体が勝手に動いた。縁側から居間に飛び込み、僕は翻る着物の後を負った。沙絵さんを泣かせた雅尚さんが許せなかった。

 後ろ姿につかみかかろうとした僕の背中に、柔らかいものがすがりついた。

「明日夢くん、やめて」

 さっきと同じ声だった。沙絵さんの白い腕が僕の身体に巻き付き、動きを止める。この細い腕の何処にこんな力があるのかと思うぐらい、沙絵さんは力いっぱい僕の身体を抱き締めていた。

「いいの。構わないの」

「何でだよ!」

 沙絵さんが傷つけられて良い筈がない。沙絵さんを泣かせて良い筈がない。怒りに震える僕を、悲鳴のような声が止めた。

「だったら、私を連れて逃げて。ここから……救い出して!」

 脳に衝撃が走った。膝が震え、立っている事すら覚束ない。

 僕は……。

「責任も取れないくせに、正義感だけ振りかざさないで」

 沙絵さんの言葉は辛辣で、僕の脚は、堪らずにその場を逃げ出していた。



 どうやって家に帰ったのかは憶えていない。気が付くと自分の部屋にいた。電気もつけずに床に蹲り、僕は床を拳で打った。

 大切なものが壊されてしまったように感じた。大好きだった筈の雅尚さんが憎かった。そして何よりも、助けてあげられなかった自分の無力が情けなかった。

「何してるの? うるさいよ」

 階下から母の声がした。ベッドから引きはがした布団を被り、僕は声を殺して泣いた。

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