第10話 秘密

 家を出る日が近付いてきた。沙絵さんとしばらく会えなくなるのだと思うと、何とも言えない寂しさを感じた。運動部に入るのはやめよう。夏休みには家に帰って来よう。スケジュール表を見ながら、そう思う。全寮制の高校を選んだことを、半ば本気で後悔した。

 高校がある場所は、今住んでいる町よりもずっと都会だ。女性が好きそうなショッピングモールも、お洒落なカフェも沢山ある筈だから、開拓して、沙絵さんを連れて行ってあげようと思った。もちろん雅尚さんも一緒に。あの二人は本当に仲良しで、つけ入る隙など全く無い。いや、つけ入るつもりなど、そもそもない。雅尚さんに勝てるとも思わない。ただ、沙絵さんの笑顔が見たいだけだ。自分に言い聞かすように、そんな計画を立て、僕は日々を過ごした。

 別れが来るのが、辛かった。


 その日、沙絵さんは体調が悪そうだった。

「卒業おめでとう」

 そう言って笑ってくれたけれど、声に力がない。

「お祝いしなきゃね」

 その頬は、妙にやつれていた。寒気がするのか、両手で自分の肩を抱いているのを見て、僕はとても辛くなった。

 縁側に雅尚さんの姿はなかった。障子はきちんと閉められていて、電灯の暖色の光が、薄暗い居間を照らしていた。そのせいだろうか、この部屋の空間だけが切り取られて、別の場所にあるように感じられた。

「ごめんね。大した事ないのよ」

 青い顔でそう言う沙絵さんは、ちゃぶ台に頬をつけて、だるそうに座っている。週末には引っ越すことを伝えないといけないのに、僕は話すことが出来ないでいた。

「横になった方がいいよ」

 雅尚さんは出掛けているのだろうか。こんなに辛そうな奥さんを置いて、何処へ行ったのだろう。筋違いな怒りを感じかけて、もしかしたら薬を買いに行ったのかもしれないと思い当たり、自分の浅慮せんりょが恥ずかしくなった。あの優しい雅尚さんが、沙絵さんを置いて行く筈がない。

「ごめんね、せっかく来てくれたのに。少し休めば治まると思うから」

 沙絵さんの声は消え入るようで、僕はどうしていいか分からずに途方に暮れていた。


 ちゃぶ台に突っ伏して、沙絵さんは眠ったようだった。周りを見回しても毛布の類は見当たらなくて、僕は自分が着ていたパーカーを沙絵さんの肩に掛けた。

 ここのところ寒の戻りがあったから、風邪をひいてしまったのかもしれない。熱があるのか気になったが、ひたいに触れることは躊躇ためらわれた。

 目を閉じて、少しだけ唇を開いて。眠っている沙絵さんの顔は、少女のようだった。四歳年上の女性。彼女は僕にとって何なのだろう。友達でもない、姉でもない、もちろん母でもない。けれど、そのどれでもなくて、その全部であるような気がした。

 ただ一つだけ確かなことは、恋人ではないということ。彼女は雅尚さんの奥さんで、僕がそういう思いを抱くことは許されない事だと思った。

 見詰めすぎたのだろうか。沙絵さんの睫毛が震え、そっとまぶたが開かれた。

「明日夢くん?」

 不思議なものを見るように僕を見て、沙絵さんは何故か安心したように笑った。胸の奥の細胞が弾けたように熱いものが広がるのを感じた僕は、声を発することが出来ず、ただ大きく頷いた。

 沙絵さんの、ぼんやりした視線が、ふと宙を舞う。唇の端が少しだけ上向くのが見えた。

「明日夢くんは、過去に戻りたいと思ったこと、ある?」

 寝ぼけているような表情で、沙絵さんは言った。ピーコと同じような事を。

「後悔していること、ある?」

 僕は、過去に戻りたいとは思わない。後悔していることは山ほどあるけれど、いちいちやり直したいなどとは思わない。それより前を向いていたい。視界には、未来を捉えていたい。

「沙絵さん……」

 僕は何を言おうとしたのだろう。沙絵さんは黙ったまま僕の目を見詰めて、微かに笑ったような気がした。


 少しして沙絵さんは目が覚めたのか「寝てた?」と小さな声で言った。

 けれど、やはり辛そうなのは変わらなくて、彼女は再びちゃぶ台に頬を付けた。

「そうだ。ちょっと待ってて」

 そう言って、僕は一旦外に出た。何も食べてないだろうから、プリンかゼリーでも買って来てあげようと思ったのだ。雅尚さんが薬を買って戻って来たら、それを食べてから飲めばいい。風邪薬は胃を荒らすから必ず食後に。母がそう言っていた。

 入ったコンビニは商品入荷前の時間帯だったのか、スイーツの棚は空に近かった。あるのは生クリームたっぷりのケーキやタルトばかりだ。ふと思いついて、アイスクリームのケースを見ると、こちらはちゃんと中身が入っている。よし、と思い、シンプルなバニラアイスと、あっさりした豆乳アイスの二種類を籠に入れて、レジに並んだ。

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