第十四章 「リモート突撃」
株式会社室村
馬崎真一は、今日もオフィスにいた。
毎年就職希望者が何千人と居る大企業・室村の、専務とは言えどそんなに余裕ぶっている訳にも行かない。
「ふぅ……」
とは言えど、さすがにもう五十八歳。営業畑一筋で過ごして来たとは言え、その経験と知能を生かすだけの体力は減退している。専務と言う事もありもう外回りなどはせず会社に籠っているが、それでも仕事への意欲は衰えない。
「常務、どうかなさいましたか」
「いや何でもない。少しばかり疲れただけだ」
お茶くみの部下に対して、頭を下げながらも仕事の邪魔だとばかりに追い払わんとする。その姿は余裕を感じさせる物ではなく、どこか仕事に逃げている風を漂わせるそれだった。
馬崎は、いわゆる生え抜きではない。三十代後半になって課長待遇で引き抜かれた存在であり、ゆえに生え抜きたちからは厳しい目線を向けられ続けた。その生え抜きたちからの信頼を得るために仕事に励み続け、現在の地位を得た男だった。
だがその顔には、大企業の幹部と言う名の人生の勝ち組の姿はない。
定年までのあと七年を過ごすと共に灰となり、余生を文字通り余分な生として引きずって生きて行きそうなほどに枯れていた。
「常務は……女性が信じられませんか」
「そんな訳はない」
「常務が素晴らしい人だって、みんな知ってます」
「だが私は会社を去ればただの無職のジジイだ。共に過ごす伴侶も子供もいない」
「こちらを」
そんな馬崎に渡される、水色の布でくるまれたアルマイトの箱。
平たく言えば、弁当箱。
「なぜまた、キミが作ったのかね」
「私は使い走りですから」
「他に真っ当な仕事があるだろうに」
「社長命令です」
馬崎専務に弁当箱を届けているのは、OLではあっても派遣でも腰掛けの人間でもない。秘書課勤務のれっきとしたエリートだった。
社長から見ても、それだけ馬崎は疲弊していたのだ。
有給休暇をまっとうに使う程度には、馬崎は真面目な男である。だがその大半は寝て過ごすためのそれでしかなく、趣味と言えるのはそれこそ掃除洗濯炊事と言った副業じゃないかと言われる話であり、文字通りの仕事人間だった。
それから仕事がなくなったらどうなるか、悲惨がられ心配される程度には、馬崎真一と言う男は愛されていたのだ。
そんな存在を白眼視するのは、自分の出世の妨げと思っているような存在か、外様として見ている生え抜きと言う事だけが頼りの存在か、清廉潔白気取りの青臭い連中だけだった。
(それこそ離婚してからの話でしかないのに……本当、あの黄川田達子があんなに悪い女だったなんて……)
秘書課勤務、と言うか社長の秘書はため息を吐く。
仕事一筋で、三十五まで結婚できなかった男が、やっと出会った女。
それが作家の、黄川田達子。
当時新進気鋭の作家として話題になって彼女との婚姻は新聞にも小さく載る程度には世間を騒がせ、そこから黄川田達子の作品が当たり出した事もあって馬崎も少しだけ有名人になった。
だが数年後、彼女とは「プライベートの不一致」により離婚。二人の間に子供はなく、それからずっと独身。
そして何より、その後の黄川田達子が問題だった。
正道党事件。
第一の女性だけの町にて数多の犠牲者と逮捕者を出した、二十数年ぶりの大規模テロ事件。
そのテロ集団となった正道党の党首と言うか、首謀者こそが黄川田達子だった。
この会社を選んだのは自分のためであり、妻となる彼女のためのはずだった。より出世栄達して彼女の懐を温かくし、その上で自分のポテンシャルをも高めて行くと言う一挙両得の展開になるはずだった。
それなのに、彼女はこの社で売られている製品を性欲に取り憑かれた不健全なそれであると糾弾し、全力で阻止しようとした。あそこまで頑強に反対されるとは思ってみなかった馬崎は動揺し、結局最後は転職するなら離婚すると言われ売り言葉に買い言葉でそうした。
そんな風にある種の喧嘩別れではあったが、それでも馬崎からしてみれば愛していたつもりだった。その女性がテログループの首謀者となり、しかもそれこそ自分と別れた時に口にした「清廉潔白」な世界を作り出すためにあんな事件を起こしたと聞かされた時にはそんな女性を好きになった自分の愚かさと、自分がもし彼女の言う事を聞いていればあんな事件は起きなかったんじゃないかと言う罪悪感。
そして、此度の一件だ。
「彼女らの言う事を聞けばそれこそ何百万単位の人間を裏切る事となる。今度のそれには君にも代表として出てもらう事になる」
「あれはもう、話しても耳を貸すような存在ではないのでは」
「知っている。だが話を聞いておくと言うのが大事だ。門前払いもいいがあれは必ずボロを出す。そこを突けば崩すのは容易だ」
今度交渉と言う名の脅迫をして来る相手。
それこそ彼女が望んだ世界に最も近いかもしれない存在の住人。
黄川田達子がもしその町に行っていたらどうなったかと言うタラレバ論を口にした所で「今回のこれで来るんだろうな」と言う想像しかできなかった。
達子がどうして第二の女性だけの町へ行かず第一の女性だけの町へ行ったのか、それはもう馬崎にはわからない。第一の女性だけの町のありようがある程度わかっている以上「理想」へのハードルは高いはずなのに、あるいは自分の手で染めてやろうとしたのかもしれないが、それが一度失敗したからと言ってかんしゃくを起こすなど、まるでお子ちゃまではないか。
そのくせこの会社に勤める数千人から飯を取り上げるのかと言えば、人に迷惑をかけてどうしても反省しないからおしおきしてあげているだけですと平然と言う存在。
それが残念ながら黄川田達子と今度の交渉相手であり、いずれにも付ける薬などないだろう。自分の不愉快だったと言う感情に満ちた要求にあれこれと色を付け、ごもっともなそれに仕上げて来る。
それが、馬崎の相手だった。
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