第十一章 〇年物
「コーキョージギョー」
ある初夏の西区の、男性に立てさせて以来一度も建て替えられていないビル。
そのビルの二階のある部屋に入った彼女の視界に飛び込むのは、まったくやる気のない数名の人間と、冷蔵庫の照明と茶色のビンばかりだった。
灰色と黒が支配するビルの中で、誰もが疲れから逃避すべく体を寝かせている。
まともに動くのは、彼女たちの長である刈谷ひとりだけだった。
「お、皆さーん……お仕事はじめ、始めますよー……」
迫力のない、つっかえつっかえの声。仕事相応に鍛えの入っているはずの腕が重たく動き、人数の数より一本少ない瓶を置く。
「隊長は……」
「私は平気、です……一刻も早く、出動しましょう……」
「はあー………………」
瓶を置かれた人間たちの声量はやたらと小さい。
そこに覆いかぶさる来訪者のため息は、どの声よりも大きい。
「なぜまた今日はこちらに」
「最近、どうも離職率が高くて。それでこちらの職場に視察に来たのです」
「それはそれは…」
「社交辞令は要りません。あ、袖の下などもっと受け取りませんけど」
ため息の主こと岸に刈谷は礼を言いながら、一本しか残っていないコーラを渡す。
モスグリーンと濃紺の作業服の交じり合った人間たちが茶色いビンを開けて口に中身を放り込む中、岸は袖の下と言うずいぶんな言い草と共にコーラを飲まずに刈谷に返した。
「ああもしかして、私がいるからかしこまった言葉遣いをせねばならず、それでやる気が出ないのですか?」
「そのような事はございませんが…………」
「人間はいつどこで誰が見ているかわからない物です。粗野な振る舞いはともすればすぐオトコたちの耳目にさらされます。その事を心得ているのですか」
「はい………………」
「もう少しシャキッとできないのですか」
「はい!…………」
岸は、また大きくため息を吐く。
外観からしてきれいな職場とは思っていなかったし、内装もまたあまり期待できないそれだったが、それ以上に人心が乱れている—————。
この様子では、普段はそれこそなあなあで働いているに違いない。
それこそ適当に終わらせて定時になったらとっとと帰って寝るとか言うまったく利己主義のそれがまかり通っているのだろう、小うるさいセンセイ様の到来に心底鬱屈としているのだろう。
「それにしても刈谷さんとおっしゃいましたか」
「はい……」
「荒山さんは」
「三か月前に亡くなりました」
「そうでしたね。死亡給付金ならばちゃんと親族及び社に渡しました」
「ですから」
「刈谷さん、荒山さんの志を受け継ぎ皆さんをどうか導いて下さい」
「はい……」
そのくせ、権利の主張だけは一人前、いや二人前。
荒山と言うこの組の現場監督が三か月前に亡くなった事は岸も知っているが彼女は独り身であり、一応姉妹や姪はいるが親交は薄くそれほど金銭的にも窮乏していない。今更、誰が受け取ると言うのか。実際、荒山の親族から不満などは出ていない。もう、それまでのはずだ。
「この町の安寧は皆さまの双肩にかかっているのです。オトコたちなどに手を借りず、自分たちだけでも町を回せる。その事を証明せねばなりません。そのために、どうかよろしくお願いいたします」
「わかりました、では仕事行、きますよ……」
「はいー…」
「では案内を頼みます」
こんな調子ではそれこそ普段どんな仕事をしているのか。
それこそ聞くに堪えないような粗野な言葉を振り回し、住人たちの神経を無駄にとがらせまくっているのだろう。
と言うかそうでなければ仕事ができないほど心が荒れ果てているのならば、それこそ何とかしなければならない。
偉く張り切った岸は、先導役の高遠と共に現場へと向かった。仕事道具など持たない岸の足取りは軽く、車の音だけが響き渡る。
「そもそもこの楽園が出来たのは今から二十幾年前……」
同乗した車両の中でも、岸は町の歴史を滔々と述べる。どれほどまでに女性たちが迫害を受けて来たか、自分たちの理想を追い求めているだけなのにいかに蔑みを受けて来たか、世界がどれほどまでに自分たちに冷たかったか。
「……ですから、あなたたちの仕事は重要なのです。オトコなどおらずとも自分たちはここまでできると言う事を証明するために、皆様には働いていただかねばなりません」
「……」
「返事がありませんけど!」
「今運転中なんです」
「では元中さん!」
「ZZZ……」
だと言うのに、運転手の高遠は運転にしか集中しておらず、元中は座席で寝ている。せっかく自分が歴史を語り、この町の人間としてあるべきそれを植え付けようとしているのに。
(これで権利がとか言い出すほど面の皮が厚いとは……いくら寛容とも言っても限界と言うのもがありますよ!)
岸は怒鳴り散らしたいのを必死にこらえながら、フロントガラスをにらみつけた。
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