「本職」の日々
「よっと…!」
朝食に菓子パン一個を押し込んで家から出た栗江は、一体どこから出たのかと言わんばかりにビニール袋を投げる。
朝から何十か所と回ってはビニール袋を投げ付けるだけの簡単な仕事であるが、筋肉の疲労はまったく半端ではない。そのビニール袋を運ぶ車の運転手とどちらが過酷な職業かなど、勝負は付かないし誰も付けたくない。
「あと二十件ー」
「はい…!」
栗江が目を覚ましてからわずか三時間後に始まった仕事が終わるのは、今日は午後五時。昼食休憩込みで、労働時間は十時間。女性だけの町を巡っての回収作業と言う名の力仕事を、それだけの時間延々と続ける。日によってルートが違うからしょうがないが、それでも最後の方になると季節によっては日が暮れそうになる。
「あーあ、汚ったないよねー」
「私たちはちゃんと勉強しましょ」
そしてその頃にもなると作業服はすっかり汚れ、その姿で小中学生の下校時刻にぶち当たる。無邪気なのかわざとなのかわからないがそれこそ十時間以上働いて来たにふさわしいくたびれた肉体と、その成果を現すかのような作業服の成れの果てと、その外観にふさわしい「匂い」。
お偉いさん方はそんな素晴らしい漢字でごまかしているが、実際はどう考えても「臭い」でしかない「臭い」。とても愉快なそれではない。当然作業服だけでなく手袋も帽子も靴も汚れ、仕事が終わった時にはそれこそ夜通し洗濯を強いられるような代物に変貌する。夜勤担当と言う名の洗濯係はぶつぶつ文句を言うが、じゃあお前が十時間かけて外回りをして見ろよと言われると何も言い返せない。夜勤担当とか言うが実際はトラックのメンテナンスや日程の組み立てに事務、あるいは洗濯乾燥などそれこそ裏方である。
しかも、その給与は栗江たちより高い。だから栗江もそちらへの転属を要求していたがまったく通る気配などなく、現在ではすっかり諦めている。それこそ数多の同僚と共に子どもたちだけでなく大人たちからさえも汚いだの臭いだのと言われながら、働く事しかしない。
「お疲れ様ー」
「明日は東側でしょ」
「そうだけどね、あっちの地区はねー」
ようやく肉体労働が終わった所で、まだ明日のルート確認や今日の反省会などの仕事が残っている。ほぼ毎日筋肉を動かしているのに体重の増えない栗江は早く終わってくれと言わんばかりに話半分であったが、やる気のある同僚は早速明日の話をしている。
そして、恋愛だのおしゃれだのの話は誰からも出ない。この仕事に従事している人間が婦婦となるとすれば、それこそかなり年上の女が後妻と言うか自分や母の介護要員として別の意味での永久就職を強いるぐらいでありそんな当てなどこの中の誰にもない。それこそ生涯を独身として全うしそのまま死んで行くしかないのだろう事をこの場にいるどれだけの人間がわかっているのか。
この仕事に就く人間が出てからもう四半世紀は経っているが、その仕事の一期生とでも言うべき存在は既に五十歳近くになっている。だがその技術も、仕事への情熱も、ほとんど受け継がれていない。
「まったく、いい年をして」
「まだ二十代ですが」
「何を言ってるのよ、私が口にしてるのはこの町を出ていた馬鹿の事。あんな神風特攻隊大馬鹿女こそ、文字通り付ける薬がないわねって話。
今ごろ男どもの慰み物にされて、用済みになればポイ捨てされてるんでしょうね。まったく、わざわざビクビクビクビク脅えて過ごすような生活が望みだなんて本当、どうしてそんな変態が生まれるのかしらね」
そんなぐうたらなブルーカラーに対し、ホワイトカラーは遠慮のない嫌味を投げ付ける。
今からおよそ十年前、その一期生はこの町を出て行った。今ではどうしているのか誰も知らないが、一定以上の身分の人間の見解は満場一致である。
オトコに身体を弄ばれ、散々虐げられ、今頃はボロ雑巾のようになっているかとっくに死んでいるかのどっちか。あるいは第一の女性だけの町へ逃げ込んでそこで自分たちの悪口を言い触らしているか。
いずれにせよ、ろくな人生など送っていない—————。
教科書にさえも、この手の話は山とあった。
ドラマでも、アニメでも、漫画でも。表現規制がどうとかうるさいとか外では言われるが、この手の産物は雨後の筍のごとく生えては町内を駆け巡っている。スマイルレディーでもこの手の話は年に五回はあり、迷ったらオトコに憧れてしまう女を出しておけばいいとさえ揶揄されるほどだった。ちなみにそれらの話から出る収入はほとんどない。
「うっ……」
そんな話を何十何百度と聞かされて来たはずなのに、急に栗江の体が熱くなる。
腰が痛み出し、腹も痛くなる。
「…ったく、ゆっくり休む事だね。明日もまた朝早いんだからさ」
「ありがとうございます……」
その痛みに耐えかねて腹をさすった栗江に対して投げ付けられた、愛想のないが愛は少しだけある言葉と、その言葉と共に投げ付けられた薬。
その薬を服用して少しだけましな顔色になった栗江だったが、ありがとうの次の言葉を出せる気力はない。
今の彼女の頭の中にあったのは、とりあえずの明日の仕事と、今日は「バイト」を休もうと言う事だけだった。
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