睡眠時間四時間

 窓を閉め照明を点け、必死に筆を動かす。それ以外には何の反応もない、六畳一間の空間。既にノルマと決めた分は終わっており、栗江は頭から湯気を出しながらガチャガチャを回し続けている状態だった。

 一種のランナーズハイとでも言うべき状態だった栗江がその夢から覚めたのは、一日があと三十分で終わる時。結果三十枚はおろか四十枚も絵を描いてしまった彼女は体重四十一キロの重たい体を起こしながら、入浴さえもせずに洗面台へと向かい歯を磨く。その姿はとても二十代の女性のそれではなく、着替える事さえもしない。した事と言えば、原稿用紙やペンをしまう事だけ。


「あー…」

 時計の針がてっぺんに近づいている事にもまともに反応しようとせず、その二文字以上の言葉を吐き出さない。そしてそのまま、布団を敷き明かりを消す事もせず、いびきを掻きそうになる。

 だがわずかに残った気力を振り絞り部屋の明かりを消す。わずかでも、電気代と言う名の出費を浮かすために。


(いずれは、この町を出よう)


 全てはそのためだった。


 この町で生まれて、この町で育ち、この町で生かされて来たのに。


 彼女のような事を考える人間は、決して少なくない。外の世界がいかに危険か、それこそミルクと一緒に与えて来たはずなのに。

 もちろん、第一の女性だけの町と言う選択肢はある。だがそこに向かう事でさえも、この町の住民は歓迎していない。


 ある教師曰く


「この町はノアの箱舟であり、新たなる世界の始まりなのです。

 第一の女性だけの町はこの町のプロトタイプに過ぎず、まだ進化の途上だったはずです。


 そのはずなのに、完成してしまった。

 もうどうにもならないほどに、出来上がってしまった。

 安定してしまった。


 安定と言うのは素晴らしく聞こえるかもしれません。しかし!

 安定と言うのはそれこそ停滞と言う意味であり、もう前進できないと言う意味です。もはや第一の女性だけの町は進化を止めてしまったと言わざるを得ません。

 この町はどんどん進化し、大きくなり続けます!やがて誰も傷つけ合う事なく、永遠の平和なる世界へと!その事をいずれ、男たちにもわかってもらえる!その日まで、この町の皆さんは歩みを止めてはなりません!」


 十数年前の栗江の担任で今は真女性党の議員をやっている女性のその暑苦しいほどの訴えかけに、感動している生徒もいれば栗江のように冷めていた生徒もいた。その時は栗江自身ああまたか、そのせいで冷めてるんだと解釈していたが、時が経つにつれ栗江の中での違和感と猜疑心がふくらんだ。だが栗江にそんな疑問を語り合えるような仲間などおらず、その孤独が勉強の手を止めてしまった。この町が出来た時には既に二十七歳で、オトコだらけの職場で茶くみしかさせてもらえず鬱屈としていたのが今や電波塔で幹部となっている親にも相談は出来なかった。

 それならと他にこの町にて鬱屈した思いを抱えていそうな人間を探し求めたが、母親たちの期待に応えるように名門校にいた栗江の同級生の親たちは皆がこの町が出来た際に進んでやって来たような人間たちであり、この町の体制に不満を持っている人間はいなかった。そんな人間がこの町から出て行くとしてもせいぜい、第一の女性だけの町まででしかない。安定は停滞とか言った口で安定したがると言う矛盾を語り合えるような存在など、栗江にはいない。小中学校時代の友人さえも、今はまともに連絡が取れないしこんな仕事をしている人間とは誰も仲良くならない。


 闇バイトとか言う単語など、五味栗江は知らない。それこそ高給に釣られた金に困っていたり安易に遊ぶ金を求めたりするような人間たちを危ない仕事の手駒として使わせ、いざとなったらトカゲの尻尾にして切り捨てると言うそれだ。

 栗江もまた、ある意味闇バイトの従業員だった。それこそいざとなればいつでも切り捨てられるような仕事で、しかも給料は雀の涙が洪水にも思えるほどのそれ。そのくせ社会的地位はちっとも上がらないどころか下がる一方。文字通り、誰もできるけど誰もやりたがらない仕事。本来の仕事だけで飯が食えるはずなのにそんな事をするなど、一体何のつもりなのか。表向きの仕事の同業者さえも、この事は秘密だった。


 そして、わずか四時間の睡眠しか取れない栗江は知る由もない。


 自分の本来の仕事が、わずか一つの移住先候補にてどれほどの価値を持っているかも。 

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