第13話

 第四日目




 翌朝は7時にすっきりと起きた。


 顔を洗ってパンをトースト。目玉焼きとベーコンをカリカリに焼いた奴と、トマトときゅうりとセロリと玉ねぎで簡単なサラダをつくり、インスタントのポタージュスープとオレンジジュース、コーヒーで朝食を作った。


 モノマガジンやファッション雑誌を眺めながら食事を済ませて洗い物をして着替えを済ますと、雑誌をかばんに入れてアパートを出た。

 この頃から、俺は一度鍵を掛けてから、また鍵を開けて室内の火の元と、ガスの元栓や窓の鍵を確認するようになった。

 大金が部屋にあるので火事や泥棒が心配になったんだ。

 そうか、金持ちになるってこういう心配をするってことなんだな、と実感した。


 俺は少し考えてサッシに隠してある封筒から10万円を出して財布に入れて出かけた。

 水曜日の合コンに備えて、洋服を買おうと思った。


 喫茶クラウンで働くまでの俺は生活に追われ、およそおしゃれなファッションとは縁遠い存在で、持っている服といえば古びたシャツとトレーナー、防寒用の上着が一着それにジーンズが数本という暮らしだった。

 電車で新宿について大久保駅に近い学校まで歩いていると、山手線沿い道の辺りでの同じ電車に乗っていたらしいナカガワが声を掛けて来た。


「ソノダ、おはよう!

 水曜日の合コン出る?

 出るだろう?」

「おお、出る出る!

 相手はどこよ?」

「むふふふふ」


 ナカガワが有名女子大の映画研究会の名前を出した。

 俺たちは学校の授業以外に自主制作映画のサークルに入っていて、その活動以外にも個人の集まりで自主制作映画を作ろうとしていたんだ。


「じゃあ、主演女優見つかるかもね!」

「そうなんだよ!だから気合を入れて来てくれよ!

 場所は渋谷な」


 ナカガワは歩きながらノートの切れ端に合コンの時間と店の名前と店の電話番号を書いて俺に渡した。


「おう、サンキュ!」

「…ところでさぁ…」

「何?」

「来月まで1万円貸してくんない?」

「いいよ!

 1万円で足りるの?」


 俺は財布を出して1万円札を出した。

 ナカガワが俺の財布の中身を見てため息をついた。


「すげぇじゃん…

 ソノダ、金持ちになったなぁ…」


 つい最近までは俺もナカガワと同じく貧乏で生活が苦しかったので、よくお金の貸し借りをして何とか生活していたんだ。


「この事、他の奴らに言うなよ」


 俺はナカガワにくぎを刺した。

 ナカガワが急に俺が金周りが良くなった事を言いふらしたりすると貧乏学生が血に餓えたゾンビのように集団ですがって来るかも知れないからだ。


「えへへ。

 判った判った、内緒にしておくよ」


 ナカガワがへらへらした笑みを浮かべて自分の財布に1万円札を入れた。

 ナカガワの財布には千円札が一枚しか入っていなかった。


(俺もつい最近まではこんな感じだったなぁ)


俺はナカガワの財布の中身を見ながら感慨に耽った。


「ところでさぁ、ソノダ、どんなバイト始めたんだよ?」

「それは…言えないんだよ。

 仕事の内容を秘密にする事も仕事の内だからな」

「なんか、カッコ良いなぁ007みてえじゃんか!」

「ふふふふ、まぁね。

 ナカガワ、みんなに言ったらお前を消すぜ」

「こえええ!」


 俺とナカガワは笑いながら学校に行った。

 昼休みになり、映像芸術科の学生が行きつけの喫茶店で昼食をとった。

 俺は前々から食べたかったステーキランチの特盛りを頼んだ。

 ボリュームがあって分厚いステーキがドン!と皿に乗っかった感じで、若く食べ盛りの俺の憧れの食事だった。

 値段がいつも食べているパスタランチの倍以上だったので俺は今まで食べた事が無かったのだ。

 ときたま、バイトの給料が入って懐が温かい奴が自慢げに食べているのを見て、いつかはあれを食べてやろう!と心に決めていたのだ。

 同席していたナカガワ達が運ばれて来たステーキを見ておおお!と声を上げた。

 ナカガワ以外の友達が、どうしてそんなに羽振りが良いか、あれこれ聞いて来たが俺はニヤニヤしながらはぐらかした。

 今から考えたら大した肉を使って無いようだけど、当時の俺にはとてもとても旨かった。

 俺はステーキを口いっぱいに頬張って肉の味を噛み締めた。


 授業が午後2時過ぎに終わったので、俺は西武新宿駅の一階にあるアメリカン・ブルーバードに行き、前々から欲しかったシープスキンのジャンパーを買った。

 そして、買ったジャンパーの袋を持って、新宿丸井のヤング館に行った。

 店員にジャンパーを見せてそれに合う服のコーディネイトを頼んだ。

 今でいえば大人買いとでもいうのかな?

 子供の頃、俺のちょっと危ない感じの親戚から煙たがられていた叔父がそういう買い物をしていたのを思い出したんだ。

 その叔父は、後で総会屋をしていた事が判ったが、当時子供だった俺はその叔父の持つ少し危険な、お洒落と言うかダンディな感じが好きだった。

 店員さんはあれこれと考えながら、色々と服を持って来て、広げたシープスキンのジャンパーの上に重ねるのを見て、俺は否応もなく気分が高揚した。

 普段の自分ではなかなか考えが及ばない服の取り合わせだが、決してチンドン屋の様でもなく、ファッション雑誌からそのまま取って来た様な軽薄さも無く、気に入った。

 支払いを済ますと財布には1万円も残らなかったが、俺は全然平気だった。

 どうせ今夜家に帰る頃には、また財布に数万円が入っているのだから。


 買い物の袋を下げて、時計店のオメガ・スピードマスター・プロフェッショナルをしばらく見つめた後、俺は喫茶「クラウン」に向かった。

 店に出るとすでに着替えていたワタリがむっつりと腕を組んで立っていた。


「兄弟、おはよう!」

「…おはようございます…」


 控室で着替えて店内に出た俺がワタリに挨拶をしたら元気がない不機嫌そうな顔をしていた。

 早番のロウさんが引き継ぎでお金を勘定しながら私にウインクをして耳打ちした。


「ワタリは今日昼から早出してるんだけど…」


 ロウさんがニヤニヤしながらゲーム機の方をボールペンで差し示した。

 見ると、リサさんがゲームをしながらその隣のゲーム機でゲームをしている中年のでっぷりした男と楽しそうに会話している。


「あの人…」

「リサの新しい…これよ」


 ロウさんは親指を立てた。

 彼氏と言う意味だ。

 なるほど、ワタリの機嫌が悪いわけだ、と納得した。

 ワタリは店内でゲームをしている7人ほどの客の後姿を見つめながら腕を組んでむっつりとしていた。

 やがてツダも出勤してきた。

 早番の店員が帰ったがロウさんは引き継ぎの紙を控室に置いてそのままカウンターに居座った。

 マエダの姿が見当たらない。


「今日はマエダさん休みだから、私このまま中番するよ」


 ロウさんがモニターがあるテーブルから立ち上がり控室に入った。

 俺はブスッとして口数が少ないワタリと共に客の飲み物や灰皿を取り換え、洗い物をした。

 ツダがモニターのテーブルに座って入金表を覗き込みながらちらちらとワタリを見ていた。

 俺がリサさんと隣の中年男が楽しそうに話してるのを指さすと、ああ、なるほど!と言う感じで頷いて笑いをこらえてた。


「いれてー!」


 アンジェラさんの声がしたが、見まわすとアンジェラさんが店内におらず、ビシっとスーツで決めたガタイの良い男が一万円札をひらひらしていた。

 ワタリは何んとなく動作ものろくなっているので、俺が、はい!ただいま!と言って、スーツの男の所に行った。

 はじめは本物のやしきたかじんが座っていると思ったが、それは、長い髪を後ろにひっつめて、男物のスーツを着たアンジェラさんだった。


「…アンジェラさん?」


 俺は鍵を捻って点数を入れながら小声で聞いた。


「そうよぉ!

 今日は親戚の集まりがあったから男の恰好してきたのよぉ!

 なんか文句あるぅ!

 親戚にはおかまやってる事、内緒なのよ!」


 アンジェラさんがブハーっと煙草の煙を吐き出しながら答えた。


 確かに男の恰好をしていたけど、伸ばした爪に黒いマニキュアで派手な指輪をいくつもはめた手、唇には紫と黒の中間のようなルージュを引いてた。

 おかまじゃなくとも、とてもシュールで怪しげな感じだ。

 別の意味でやばいと思った。

 俺は頭を振って笑いを押し殺してカウンターに戻ろうとした。


「入れてぇー!」


 リサさんの声がした。

 振り向くと中年の男が一万円札を2枚ひらひらさせていて、リサさんがそれはそれは幸せそうにこちらを見てた。

 俺が行くとリサさんが男の手からお金を取って渡した。


「私の所とダーリンの所に1万円づつね」


 俺がリサさんと中年男に点数を入れてカウンターに戻って来るとワタリが思い切りたそがれて、楽しげにゲームをしているリサさん達を見つめていた。

 俺は軽くワタリの肩を叩いて、小声で言った。


「ワタリさん、元気出してね」

「…はい」


 ワタリがリサさんと男の後姿を見つめながらか細い声で答えた。

 今日は熱い客もなく穏やかに時間が過ぎたが、ワタリの所だけどよ~んと暗く、薄気味が悪かった。


 結局リサさんは2万円負け、中年の男はストフラを出して8万円勝った。

 2人は仲良く腕を組んで店を出て行った。

 ワタリは今にも泣きそうな顔でカウンターの後ろにしゃがんでリサさんが飲み残したアイスコーヒーを飲んでいた。


 あまりにもワタリの落ち込み方が激しいので、リサさんの食べ残しだとか飲み残しを食べるちょっと気持ち悪い癖に突っ込みを入れる気にもなれなかった。

 ましてや、ワタリが間違ってリサさんの彼氏のアイスコーヒーの飲み残しを飲んでそのストローをしゃぶっているなんて、口が裂けても言えなかった。


「ロロロロロ!ロイヤルゥウウウウウ!」


 夜の11時を回った時に日本人のサラリーマンがいきなり悲鳴のような声で叫びながら立ち上がった。

 その声で控室からロウさんが顔を出した。

 男は小躍りしながら続けて叫んだ。


「フフフフフルベッドロイヤルゥウウウウ!」


 ロウさんの顔が引きつった。

 フルベッドとは最高20点を掛けた事だ。

 20点掛ける250で5000点、1点が100円だから50万円。

 さらに店からご祝儀が5万円出るから55万円を一気に手に入れた訳だ。

 今日は早番の時間帯にロイヤルが2回出ていた。

 普通はあり得ないペースでの出現だ。


 俺はこの店で働き始めて初めてフルベッドのロイヤルを見た。

 他の客が集まって男のゲーム機を覗きこんだ。

 それまでにこの男はダブルアップなどを果敢に叩いていて、既に30万円勝っていた。

 このロイヤルで合計85万円の儲けだ。

 ロウさんが頭を振りながら控室に入り、奥の金庫から帯付きの札束を出して来た。


「おめでとうございます!」


 俺おれとツダが気を取り直して叫んだ。


「…おめでとうございます…」


 ワタリは壁に寄り掛かって指で壁をほじくりながら、つぶれたカエルのような声でか細く言った。

 俺は落ち込んでいるワタリに構っている暇がなく、


 ロイヤルの画面の写真を撮ったり、

 ご祝儀の5万円を男に渡したり、

 伝票にサインをもらったり、

 男がアウトした60万円の現金を持って行ったり、

 アンジェラさんが股間を触って来るのを避けたり、

 何で俺にはロイヤル出ないの?と悲しげに聞いてくる他の客に愛想笑したり、

 出前で頼んだ特上握り2人前を控室で食べたり、

 新しい客のためにドアを開けたり、

 洗い物をしたり、

 客の飲み物を出したり、

 色っぽいフィリピン人の女の子に点数をサービスしたり、

 自分の飲み物を特別に美味しく作ったり、

 他の客の点数を入れたり、

 アウトして現金を持って行ったり、

 スツールに腰掛けてタバコを吸って雑誌を読んだり、

 トイレの中にやばい物が落ちてないかチェックしたり、

 サービスしてあげた色っぽいフィリピン人の女の子から家の電話番号を書いた紙を貰ったり、

 その紙をツダに5000円で売ったり、

 ワタリを元気付けようと足を蹴飛ばしたり脇をくすぐったり、

 チンピラと口げんかしたりげらげら笑いあったり、

 背中がかゆいので部屋の角で背中をこすったり、

 ツダやロウさんと世間話したり、

 客が頼んだ出前料理を運んだり、

 負けが込んで愚痴を言う客を小声で罵ったり、

 客の灰皿を換えたり、

 スツールから立ち上がってあくびをしながら伸びをしたり、

 なんとなくラジバンダリ、

 と大忙しだった。




 その間、ワタリは店の隅でたそがれていたりゾンビのように店内をあちこちうろついていて全く使える状態にならなかった。

 ロイヤルを出した客は1万円札で財布をぎちぎちに膨らませながら台を移動してその後もフォーカードを叩いたりして勝ち続けた。

 結局午前0時過ぎに男がう~んと背を伸ばして呟いた。


「今日はこの辺で勘弁してやるか」


 ツダが書いている出入金表を見ると、結局男は合計で275万円も勝っていた。

 男は帰り際に俺とワタリとツダとロウさんに3万円づつチップをくれて上機嫌で帰って行った。


「……ありがとうございました……」


 ワタリは本当に元気が無くなって男からチップを貰う時もゾンビのような無表情で、つぶれたカエルのような声で囁いた。


 1人だけこのような大勝ちをすると店の売り上げが減ると思われがちなんだが、周りの客達が刺激を受けて、また、客達の噂を聞いて普段の日には来ない客達も来て鬼のようにお金をつぎ込んで、最終的な売り上げがいつもの倍近く出た。


 中番勤務が終わり、俺たちは控室でほくほく顔のロウさんから給料を頂いた。


「いやぁ、最初はどうなっちゃうかと思ったよ。

 皆さんお疲れ様」


 ホクホク顔のロウさんが言いながら俺たちに給料を渡した。

 日給が1万6000円、交通費が1万円、大入りがなんと8万円出た。

 そして、マエダに売り上げ報告したロウさんの手から、更におこずかい4万円頂いた。

 売り上げが良かったので大入りとおこずかいに色を点けてやれとのマエダからの指示だそうだ。


 出勤前に服をごっそりと買って、店に来た時は7千円くらいしか入ってなかった俺の財布にはさっきのロイヤル男から貰った3万円と合わせると新たに17万6000円が入って来て、財布の中身は合計で18万3000円になった。

 まさに魔法の財布を手に入れた気分だ。


 この頃俺は財布からお金が出る時は「いってらっしゃい」財布にお金が入る時は「おかえりなさい」と心の中で呟くようになった。

 俺たちは着替えて店を出た。


「何処かに飲みに行く?」


 ツダが、落ち込んでいたワタリを気遣って言った。


「俺…今日はやめときます…この金で明日、ソープ行きます…お疲れさまでした…」


 ワタリは小声で呟くと両手をポケットに入れて俯きながら夜の歌舞伎町に消えた。

 ワタリの後姿を見送ったツダと俺は顔を見合せて肩をすくめると今日はそのまま家に帰る事にした。


 昼間買った服の袋を抱えてやっとの事でタクシーを拾った。

 俺は待ちきれずにタクシーの中でごそごそと袋を開けてジャンパーを出して、はおってみた。


「お客さん、渋いジャンパーだねぇ!」


 運転手がルームミラーを見ながら褒めてくれた。


「そう?判ります?」


 俺はにんまりしながら答えた。

 明日、店でどんな事が起きるかも知らずに、俺は買ったばかりのジャンパーを着て、どんどん後ろに流れて行く窓の外の夜の街の風景を眺めながらニヤニヤしていた。

 この時は本当にこのバイトをしていて良かったと心の底から思っていた。

 俺はポケットの膨らんだ財布を触りながら、窓の外を眺めていた。






続く

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