第8話


「お前ら!どこの組のもんじゃー!」


 階段を駆け降りる俺達の背後から苦し気な怒声が聞こえて来た。

 ワタリが階段を降りると階段の横に身をひそめて待ち伏せの態勢をとった。

 確かにそのまま逃げると男がえらい勢いで追いかけてくるだろう、しかし、俺はあまりここで時間を取られたくなかった。


「いいかね、やるだけやったら素早く逃げる事です。

 30秒以内にそこから立ち去りなさい。

 それが一番大事ですよ。

 余裕があるようなら追っ手を妨げる細工をすればなおよろしい」


 先生の言葉を思い出した俺は周りを見回して道の端に置いてある自転車を掴んだ。

 ワタリは俺がやろうとする事を見てにやりとすると階段の横から少し移動して場所を空けた。

 ドタドタと音がして、ワタリから頭突きを食らって鼻血を出した男が、片手で顔を押えながら降りて来た。

 俺は反動をつけて自転車を振り回して思い切り男に叩き付けると男は自転車と絡み合って路上に倒れた。

 ワタリが倒れた男の顔を思いきり蹴りあげた。

 俺はなおも男の頭を蹴り付けるワタリの腕を掴んだ。


「さっさとずらかるぞ!」


 明け方の町をワタリと俺は思い切り走った。

 新聞配達の自転車とぶつかったり路上で寝ている酔っ払いを踏みつけながら、高校の時の短距離走以来の勢いで走り続けた。

 ポツポツと雨粒が額に当たったと思ったら、いきなり土砂降りの雨になった。

 ワタリが走りながら笑い始めた。

 俺もいつの間にか笑ってた。

 気がつくと俺達は高田馬場の駅に出ていた。

 ワタリと俺は土砂降りの雨の中、荒く息をついてしゃがみ込みながら笑い続けた。

 俺達の体からは湯気が立っていたのを覚えている。

 早朝出勤や明け方まで飲んでいて雨に打たれて急ぎ足で帰る途中の人々が俺達をちらりと見て顔をしかめて通り過ぎた。

 ワタリが荒い息でとぎれとぎれに言った。


「ソノダさん、やるっすねー!

 あの店、俺の先輩の事ぼったくった奴らなんですよ。

 ありがとうございました!」

「もう…あんな事に付き合きあわさないでくれよ~」

「でも、ソノダさん、楽しそうだったっすよ」

「……ちょっとだけ、ちょっとだけね」


 俺は親指と人差し指で少しだけ隙間を作った手を出して言い、そして笑った。

 少しだけ、本当に少しだけ、ほんのちょっとだけ楽しかった。

 どちらが悪いと言えばやはり悪いのはぼったくりバーをしていた奴らのほうだ。

 少なくとも俺は善人ではなく、悪い奴らと戦った。

 無茶な事をしたとは思う、しかしその時の俺達は弱い者いじめや私利私欲にかられて悪事を働いた訳ではない。

 そんな風に俺は自分の心を納得させて、俺はワタリと握手してお疲れ様!と言って別れた。

 そして、ガラガラにすいている電車に乗ってアパートに帰り、服を脱いでバスタオルで体をごしごし拭いた後、敷布団を体に巻きつけてすぐに寝てしまった。


 長い長い、今までの生涯で一番長い一日だった。

 眠りに落ちる寸前に先生が最後に言った事を思い出した。


「いいかね、私が今言った事は君の父上や母上に言ってはいけませんよ。

 お月謝が減ってしまいますからね。

 フォフォフォ!」


 そして先生はいたずらっ子のように微笑んだ。


 俺はまぶたが重くなった。


 意識が無くなる寸前にちらりと、じゃあ理由があれば派手に暴れても良いのか?悪い奴らだったらボコボコにしても良いのか?と言う声が聞こえた、が、その当時の俺はさして深く考えずに聞き流して眠りに落ちた。


第二日目



 寝ている間に寝返りをして壁まで転がっていってしまった。

 俺は部屋の隅で壁に額を押し付けて敷布団にくるまって寝ていた。

 時計を見ると午前11時を少し回っていた。

 アルコールが入っていたせいか、すっきりと目が覚めた。

 6畳の日本間と4畳半の台所、トイレとお風呂のアパートの部屋はしんと静まり返り、時計の針が動いている音が聞こえるほど静かだった。

 俺は昨日の出来事を思い出しながらゆっくりと体を起こした。

 恐る恐る部屋の隅に転がっていた財布を拾い上げて開けてみた。

 とんでもない事が連続で起きた昨日の事は実はとてもリアルな夢だったのではないかと疑ったんだ。


 財布を開けるとそこにはぎっしりとお札が詰まっていた。

 俺はお札を出してパー!と部屋の中にバラまいてみた。

 自然に笑みがこみあげた俺はばらまいたお札の上でくすくす笑いながらゴロゴロと転がった。

 しばらくお札にまみれて転がったのち、お札を拾い集めて財布に入れるとお風呂を沸かした。

 お風呂に入り、米を砥いで炊飯器にスイッチを入れてご飯が炊けるまでテレビを見ていると誰かがドアをノックした。


 ドアを開けると隣の部屋のナカガワが立っていた。

 このアパートは全ての部屋を代々同じ専門学校の生徒が借りていて、ちょっとした学生寮みたいなところだった。

 アパートの前の駐車場代込みで家賃が5万円と格安だったことを覚えている。


「ソノダ、この前借りた3千円返しにきた。

 サンキュ!」


 ナカガワが千円札を3枚ぴらっと出して俺に渡した。


 貧乏学生の俺達は生活に困ると仲間内でお金の貸し借りをして日々をしのいで暮らしていた。

 俺が千円札を受取って財布に入れるのを見たナカガワが声を上げた。


「なんだよその大金!すげぇ!」

「新しくバイト始めたんだよ」

「どんなバイト!?教えてくれよ!」

「うん、歌舞伎町で…やっぱ内緒。

 これから金に困った時は遠慮するなよ」


 俺はナカガワに仕事の内容を教える事を躊躇したのはやはり、違法な仕事だと言う事が頭にあったからだろう。

 教えてくれぇえええええ!としつこく言うナカガワを前にドアを閉めると同時に炊飯器がなって冷蔵庫の中の瓶詰めやパックの漬物などで食事を済ませると、服を着替えて隣の敷地にある大家さんの所に行き早めに家賃を支払った。

 そしてそのまま外出をして電気ガス水道電話代も全て支払い、とりあえず近所のスーパーで食材を買いに行った。

 値段の高さに普段恨めしげに見るだけだったカニみその缶詰と太いサラミ、ウニのビン詰めなど色々と買い込んでアパートに戻った。

 ぎっしりと食材が詰まった小さい冷蔵庫と、その上の満杯になったささやかな食品置き場をニヤニヤしながらしばらく眺めた。

 さんざんお金を使ったけど財布の中はまだ7万8千円も残っている。


 今日は土曜日で学校が休みだから少しのんびりしようかな?なんて思ったが、じっとしていられない俺は車のカギを手に取りおんぼろのワーゲン・ゴルフに乗って近所のガソリンスタンドに行き、久々にガソリン満タンにしてオイル交換、しかも高いオイル!など細かなメンテナンスをしてもらった。


 そして、しばらく車を走らせて注文で靴を作ってくれる店に行き、オーダーメイドの靴をひとつ注文した。

 俺の足のサイズが30・5センチでなかなか合う靴が無いしデザインが限られていたので色々と我慢していたがこれからは靴に我慢しなくていいなぁ!と思ってハンドルを握りながらまたもニヤニヤした。


 靴屋の帰りに本屋によってモノ・マガジンやポパイなどの雑誌を何冊も買い込んだ。

 アパートに帰ってニヤニヤしながら雑誌をめくり、あれもこれも買えるじゃん!と飽くことなく見ていた。

 その間、何度も財布を出して中身を確かめた。

 財布にはまだ5万円以上残っている。

 ささやかな金額だが、貧乏学生には大金が財布に入っているだけでまるで世界を我が物にしたような高揚感がどんどん湧いて来た。


 そろそろ、午後3時、バイトにゆく時間には少し早いが俺は着替えて部屋を出ることにした。

 部屋を出る前、俺は財布を開いてしばらく考え込み、2万円だけ財布に残して、残りの3万円を紙封筒に入れてベランダに面したサッシの上の木枠の部分に隠した。


 俺はアパートを出て駅までの向かう途中でサラシの事を思い出した。


(そうだ、サラシを買わなくちゃ。)


 現金ゲンナマの力って凄いと思った。

 昨日まで財布にはせいぜい千円札が何枚かと小銭しか入っていなかった俺。

 今財布に2万円以上入っていて今日の仕事終わりには更に一万円札が何枚も入るのだ。

 昨日までの恐怖が吹き飛び、今は歌舞伎町に行くのが待ち遠しく感じ、新しく財布に一万円札が入るのが待ち遠しく感じながら軽い足取りで歩く俺がいた。

 途中で喫茶店により時間をつぶした俺は新宿に着くとエニーでサラシを買ってから喫茶「クラウン」に行き、ブザーを押すと早番の人が顔を出した。

 右目の辺りがどす黒いアザになっていた。


「どどどどうしたんですか?」

「まぁ、入って入って」


 俺が店内に入るとカウンター脇のソファでやはり顔に殴られたあざがあってボタンが弾け飛んで胸元ががら空きの男がふてくされて座ってた。

 男の目の前に、紫のスーツ!を着た、今ならミナミの帝王みたいな感じの大柄な人が後ろにチンピラを二人従えて何やら紙に書いていた。


 店内は派手な服を着たインド人みたいな男の2人連れと中国語で騒ぎながらゲームをしている中年の男の3人連れと、黙々としかしビシ!バシ!とダブルアップのボタンを思い切り叩く日本人らしき男がいた。


 ふてくされて座っている男に紫のスーツを着た男が何か書いた紙を出し、男はがりがりと殴り書きでサインをした。

 控室からマエダが顔を出して、俺を手招きした。


「おはようございます!」


 控室で挨拶するとマエダが苦い顔をして店内に顔をしゃくって呟いた。


「ソノダ、あのサインしてる男の顔、覚えとけよ」

「はぁ」

「あれ、今後出入り禁止だからまた来ても店に入れるなよ」

「暴れたんですか?」

「とんでもねぇ奴だ。

 たった2万円飲まれただけでいきなり暴れ始めやがってよ」

「あれって、何書いてるんですか?」

「誓約書だ。二度とこの店に入りません、入った時は迷惑かけた責任取りますって感じの紙だよ」

「じゃぁ、また入ったら、さらって埋めちゃうとか…」

「あっはっはっは!

 ソノダ、お前映画の見すぎだよ。

 実際は親類縁者の所に押し掛けて金でも取るんじゃねぇか?

 いくらなんでも殺したりなんかしねぇよ。

 …よっぽどコケにしなきゃな」


 マエダが煙草に火をつけながらにやりと笑みを浮かべた。


「今日はロウさん休みだから俺が早番から出てたんだ。

 そしたらこのざまだ。

 やれやれ、昼間からケチがついたぜ。

 おう、早く着換えろよ」


 俺が着替え始めるとマエダが紙袋からさらしを取り出した。


「ソノダ、今日からこれ巻けや…あ」


 マエダは俺がバッグからサラシを取り出すのを見て照れくさそうに微笑んだ。


「なんだ、買ってきたのか」

「ええ、ワタリさんやツダさんから聞いて…」

「へへへへ、じゃぁ、サクちゃんの事聞いたな?」

「はい」

「その話聞いても来るんなら大丈夫だな。

 これ、あっても邪魔にならないから取っとけよ」

「はい、ありがとうございます」

「ところでおまえ、サラシの巻き方知ってるか?」

「え?脇のすぐ下から角度つけながらくるくる巻けば良いんじゃないですか?」


 マエダは顔をしかめた。


「かー!はっぴのサラシとはちょっと違うんだよ微妙にな。

 微妙に作法があるんだよ。

 まぁ、これでも読め、真ん中辺にサラシの巻き方乗ってるから」


 マエダは和紙風の小ぶりな白いパンフレットを差し出した。

 それの表紙には、なんと、毛筆のごつい書体で「正しい任侠道」と書いてあり、そして、裏表紙には某関西系の有名な組織のマークが付いていて、その組織の中でも武闘派で有名な組の名前が金文字で入っていた。


(なんだこれなんだこれなんだこれ……)


 俺はマエダがニコニコしながらこちらを見ているのでしょうがなくそのパンフレットを開けた。

 表紙のすぐ裏にはある組長の紋付で決めた写真があり、目次には正しく任侠道を歩む為の事細かな事が書いてあった。

 いわゆるやくざのルールブックと言う感じだ。

 目眩がしそうだ。

 ページをめくってゆくと中ほどにサラシの巻き方が図解入りで書いてあったが挿絵のお兄さんは思い切り高倉健の顔で不動明王の物凄い刺青をしていた。

 絵の一番初めはお兄さんが正座をしてこちらにお辞儀をしているところから始まって何か色々と面倒くさい注釈が入っていた。


「どうだ、判りやすいだろう?」

「は、はい」

「お前にやろうか、それ」


 こんなものをかばんに入れていて学校の持ち物検査(専門学校だからそんなもの無いけど)で引っかかったりしたら大変だ。


「い、いえ、結構ですありがとうございます!」

「そうか…遠慮する必要ないぞ。まぁ、読んで覚えたらそこに置いておけ」


 そう言ってマエダは店内に出て行った。


 俺はサラシを適当に、それでもきつく巻きながらテーブルに置いた正しい任侠道を見た。

 あとから思えば貰っておけばいろいろと良かったかも知れない。

 目次には「正しいけじめのつけ方」とか「正しい手打ちの仁義」とかいろいろと面白そうな事が書いてあったのだ。

 俺がさらしを巻き終わる頃にワタリが入って来た。


「おはようございます!」


 大きな声で挨拶をしたワタリは俺に近づいて声を潜めた。


「昨日はありがとうございました。

 一人で仕返し行くのちょっとあれだったもんで…昨日のことマエダさんには内緒でお願いします。

 …あ!正しい任侠道だ!ぷっ。

 マエダさん、何かこれが自慢らしいですよ。

 奥の箱に何冊も入ってるんですよね」


 ワタリがくすくす笑っている所にマエダが顔を出した。


「おう、ワタリ、あそこの奴出禁な、顔、覚えておけよ」

「はい!」


 ワタリは慌てて直立不動になって答えた。

 マエダが店内に戻るとワタリは笑顔になって言いました。


「サラシ、似合いますね」


 俺はワタリにからかわれている事に気づいてそそくさとシャツを着た。


「ところであの紫のスーツの人って…」

「ああ、あの人がケツモチのキジマさんですよ」

「やっぱり…やくざなんでしょ?」

「そうですよ。あの人バリバリの武闘派ですよ。

 なんか、どこかでシャレにならない位暴れてこっちの組に預けられてるみたいっすよ」


 ワタリはさも当たり前のように言った。

 俺はこんなに身近に普通に本物のやくざが居る生活は初めてだ。

 改めてやくざ社会の中にいるんだなぁと俺は少しだけまた少しだけ怖くなった。

 揺れる十代ってこんな感じなのかな?と思った。






続く

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