第5話

 にやついたワタリが自分の左側の眉毛のあたりを指さした。

 そこには眉毛のあたりにえぐれたような古傷があった。


「点数入れている時にリサさんがいきなり発狂してボールペンで刺したんすよ。

 あははは。」

「……そそそそんなことして出入り禁止にならないんですか?」

「いやぁ、すぐに正気に戻って土下座して謝ってくれたんですよ。

 そこまで謝られたら…ねぇ?」


 ワタリのニヤニヤ顔が答えるとツダがボールペンでワタリの腕をつついた。


「それだけじゃねぇだろ、この野郎」

「えへへへ。確かにそれだけじゃなかったっすね」


 ワタリが俺の耳に口を近付けて小声で言った。


「…お詫びにエッチさせてくれたんですよ。

 もう、凄かったすよ。

 エッチってあんなに凄いものだと知らなかったっすよ。

 俺の人生の中で一番っすよ」

「そんなに凄かったの?」


 俺の問いにワタリが顔を赤らめた。


「腰、抜けたっすよ。

 死ぬかと思った位、あのまま死んでも良かったっすよ」


 ワタリが遠くを見る目で言った。

 それを見ながらツダが椅子の背もたれに身を任せて煙草に火をつけた。


「俺もリサさんにボールペンで刺されたいよ」


 俺は佐久間さんの話を聞いた時と違った意味で呆然としてリサさんの後姿を見た。

 あんな綺麗な人がそんな事をするなんて、俺の頭の中に少しエッチな妄想が過った。


(確かにあの人がエッチさせてくれるなら…いやいや、何を言ってるんだ俺は!ちょっと手元が狂えば目が潰れるんだぞ!いや、あの傷はきっと目を狙ってやったに決まってる!ワタリは単に運が良かっただけの話だ!あ~怖い怖い怖い…ここにはまともな奴はいない!一人もいないんだ!しかし、腹をナイフで刺されて300万円とボールペンで眉を刺されてお詫びエッチか…どちらにするかと言うと俺は…俺は…俺はいったい…) 


「ソノダ、ちょっと来い」


 控室からマエダが顔を出して俺を呼んだ。

 控室に入るとマエダと、和服姿の、上品というかどことなく凄みがある女性が俺を見ていた。


「ソノダ、こちらはオーナーの秘書の方だ」


 俺が女性に挨拶をすると彼女も丁寧に頭を下げた。

 そして女性が封筒を取り出してテーブルに置いた。

 マエダが封筒を受け取って俺に差し出した。


「オーナーからな、入店祝い金だ、ありがたく受け取れ」


 俺は断るとひどい目にあいそうなので素直に受け取って和服姿の女性とマエダにお礼を言うとマエダが鷹揚に答えた。


「用件はそれだけだ、仕事に戻っていいぞ」


 俺は封筒をポケットにしまって店内に戻った。

 ワタリが一万円札を何枚も指に挟んで客の間を歩きながら点数を入れていた。

 リサさんが一万円札をヒラヒラさせて叫んだ。


「いれてぇ~!」


 ツダがニヤニヤしながら俺に顎をしゃくった。


「はーい!ただいま!」


 俺が叫びながらリサさんの所に行く途中、グラスをさげるワタリとすれ違った。


「ボールペン」


 ワタリがくすくす笑いながら小声で言った。

 俺はワタリのようにリサさん側の手でこぶしを作り、顎とのどをガードしながら鍵を捻って点数を入れた。

 俺はリサさんの手元のボールペンをさりげなく見た。

 リサさんはボールペンを掴んだ手でゲーム機をこんこんと叩きながら笑顔で鼻歌を歌っていた。

 リサさんの綺麗な可愛い顔に見とれながらも俺はリサさんが握っているボールペンからも目を離さなかった。

 リサさんが俺の視線に気がついて笑顔を向けた。


「ん?どうちたにょ?」

「いっいや、なんでもないです。

 5番台10本入ります!」


 ワタリとツダが「はーい!」と叫んだ。

 俺がカウンターに戻ろうとした時に、パクの連れの一人が俺のズボンの尻ポケットから少しはみ出ていた封筒に手を伸ばした。


「何これ?かね?かね?」


 俺は空いている方の手でパクの連れの手首の関節を掴んでひねり上げた。


「おー!痛い痛いイタイイタイ!」


 大して力を入れてないのにパクの連れが針にかかった魚のように立ち上がり悶えた。


「人のもの取っちゃだめですよ。

 犯罪ですよ」


 俺が言って手を離すとパクの連れが手首を押えて大げさにわめいた。


「いたいいたいいたい!手折れたよ!」


 彼はつぶれた平家蟹のような顔を更に歪ませて言った。

 パクともう一人の連れが立ち上がって俺に近寄った。

 俺はリサさんの一万円札を胸のポケットにねじ込んで、鍵をこぶしの中に握って人差し指と中指の中から先端をのぞかせた。

 これならパンチが決まらなくても相手も顔を切り裂くことも目を潰すことも期待できる。

 そして、空いているゲーム機の灰皿を左手に持って両足に均等に重心を掛けて肩の力を抜いて戦う準備をした。

 硬い灰皿なのでこめかみに当たれば気絶させることも期待できる。

 ちょっとばかり頭に血が昇って凶暴な思いが顔に出た。


 今まで人のポケットの物を平気で取ろうとするような奴にあったことがなかった事、そして、少し手をひねっただけで大げさに痛がって因縁をつけようとする安物のテレビドラマに出てくるようなあさましい奴を実際に見た事がなかった。


 こういう絵に描いたような卑劣な奴には一切容赦する必要がないと俺は思った。

 パクが立ち止まって俺の顔を見た。

 俺は視線をぼやかせてパク全体と周りの状況が読めるように気をつけながら、有利な場所に体をずらしてわずかに膝を曲げて立った。

 不思議なことにちょっとだけわくわくしたんだ。

 こんな奴ぶちのめしたって誰も文句は言わないと、思う存分人をぶん殴ってもこんな奴だったらオッケーだと…自分がやられる可能性なんて少しも考えなかった。


「パクさん、店で暴れたら出禁っすからね!」


 ワタリが叫んだ。

 パクと連れはしばらく俺を見た後に頭を振ってそれぞれのゲーム機に戻った。

 手首を押えて喚いていた平家蟹の小男はぴたりと黙ってゲームを再開した。

 他の客たちはこの手の騒ぎにあまり興味がないというか慣れっこになっているのかゲームをする手を休めなかった。

 俺がカウンターに戻ってリサさんの一万円札をツダに渡した。

 ツダが札を札入れに入れてニヤニヤした。


「うひょー!やるっすね!」


 ワタリがパク達を睨んでから俺の肩を叩いて小声で言った。


「ソノダさん、はじめが肝心だからあんな感じでいいっすよ。

 …でも…ぷっ…ソノダさん、怒るとすげぇ顔になりますね」


 ワタリがくすくす笑いながらカウンターに行き、タバコに火をつけた。

 店内は相変わらずの喧噪の中で客たちがゲームに興じていた。

 パクがくしゃくしゃの千円札を3枚出して、「入れて入れて!」と叫んだ。

 俺が鍵を手に行こうとするとワタリが俺を遮ってパクの所に行った。


「サービスサービス!サービスして!

 もう、5万円もやられてるよ!」


 嘘だ。

 パクは今日合計でも2万円しか使っていない。

 ワタリがチラチラと俺を見ながら小声でパクに何か言い、パクの手から千円札をひったくって鍵を3千円分だけ捻って戻って来た。

 ワタリは千円札をツダに渡しながらニヤニヤして私に小声で言った。


「ソノダさんは拳法の達人で4人ぶっ殺したことがあるってパクの野郎に言いましたから、よろしく話し合わせといてください」

「そんな…俺がやっていたのは拳法じゃなくて古武術だし、達人でもなんでもないですよ…ましてや人を殺したことなんか…」

「まぁ、いいからいいから」


 ワタリがポンポンと俺の肩を叩いた。


「あいつらは俺が嘘言ったような経歴の奴らばかり身の回りにいるからこれくらい言っとかないと箔が付かないっすよ」


 さっきまでの殺伐とした強気の感覚がなくなって、俺はやっぱりやめよう、すぐにやめよう、ぜったいにこのバイトやめようと心に誓った。

 ここにいては命がいくつあっても足りないと思った。

 ここにいたら絶対に早死にすると確信した。

 間違いなく早死にする。


「ソノダさん、封筒の中の金抜いて財布に入れといたほうがいいっすよ」


 ワタリが言ったので俺はトイレに入り封筒を開けた。

 きれいなピン札の一万円札が3枚入ってた。

 俺はため息をついてピンピンの一万円札を折り目が付かないように財布に入れた。

 俺がトイレから出てくると、マエダが和服の女性と店を出るところだった。

 俺は二人に深々とお辞儀をして送り出した。

 店内ではゲーム機がすべて塞がっていて、ゲーム機の空き待ちの客が二人、カウンター横のソファーに座って飲み物を飲んでいた。


 ワタリがリサさんのラーメンを下げて来た。

 ワタリがカウンターの裏でしゃがんだので何をしているかと見たら、なんと、リサさんのラーメンの残りのスープをそれはそれは旨そうに飲んでいた。

 ワタリが俺の視線に気づくと「リサさんのスープ、あげないっすよ」と言って背を向けた。

 俺は別にそんな物はいらないので店内に視線を戻した。

 しばらくして焼肉屋の弁当が届いて、ワタリ、ツダ、俺が順番に控室に入って食べた。


 一人暮らしを始めてからあまり高級なものを食べた事がない俺はあまりのおいしさに一人にやにや顔をほころばせながら頂いた。

 今から考えるとよく食欲があったものだと思うけど、しかし、焼肉屋の弁当は俺の恐怖心を吹き飛ばすほどに美味しかったのを覚えている。


 時間は夜の12時を回って、あと少しで仕事も終わりだ。

 初日での緊張と店内の忙しさにあっという間に時間が過ぎた感じだった。

 客はそこそこ入れ替わり、周さんがストフラを出したり、かなりダブルアップを叩いて当てて、結局63万円勝って帰った。

 リサさんは5万円を使ったが4万円をアウトして帰った。

 パク達はじりじりと負け続け、今は1千円2千円とちょぼちょぼとゲームを続けている。

 ツダとワタリはパク達が千円札をひらひらさせる度に苦い顔をした。

 ほかの客たちは1万円単位で使っているのに、パク達がちびちびと千円単位で占領している3台分の売り上げがもったいないからだ。

 パク達はガンガン飲み物を頼み、タバコを頼んだ。

 ちらっと見ると、新しい箱から4~5本吸うとそれをポケットにねじ込んで新しい煙草を頼む。


(まったく、乞食だなぁ)


 俺が呆れた顔をするとワタリが俺に笑い掛けた。


「あいつら、ここで高い煙草を吸って、普段はショッポーとか吸ってんですよ」

「何にも言わないんですか?」

「まぁ、あれくらいは…ね」


 ツダが言った。


「あんな乞食みたいなやつらでも3人で月に100万や200万は使いますからね 」


 俺は呆れて、ふーんとため息をついた。

 あんなに貧乏くさい奴らでも月に200万円もつぎ込んでいると…いささか驚いた。

 深夜1時近くになってマエダが戻って来た。

 風呂上りらしく、シャンプーの良い匂いがした。

 マエダはツダの肩越しにそれぞれの台の点数の出入りを書いた紙を覗き込んでいた。

 そして、パク達の台の所を指さして苦い顔をした。

 マエダはツダが尻ポケットに入れている札がぎゅうぎゅうに詰まった札入れを持って控室に入った。

 パクが「あああ!」と声をあげて頭を抱えた。


「やっと終わったみたいですね」


 ワタリがため息をついた。

 パクはしばらく放心状態で台に座っていた。

 ソファーには空き台待ちの客が2人いる。

 ワタリが布巾を持ってパクの所に行くとパクと小声で何か言い合った後にパクはしぶしぶと立ち上がると連れがやっている台の所に行った。


 もう一人の連れも持ち金が無くなったらしく、窮屈そうにパク達3人が一つの台の椅子に無理やり座って残った一人のゲームを見つめていた。

 俺とワタリがパクと連れの台の上を片づけて待っていた客が座った。

 マエダが店内に出て来た。


「ソノダ、ツダから聞いたぞ、その調子で良いからな」

「は、はい」

「パクみたいな野郎は弱気でいるとどんどんつけあがるから、こっちが強気でいないと面倒くさくなるからなぁ、はじめが肝心なんだよ」

「はい」

「ところでおまえ、明日学校休みか?」

「はい」

「今夜お前の歓迎会やるから付き合え」

「………」

「なんだ?用事あるのか?」

「いっいえ、ありがとうございます」

「よし。

 そろそろパクも終わるからな…いいか、目で殺せ」

「は?」

「お前はガタイが良いし迫力あるから、目で殺せ、睨みつけろ。

 そうすれば大抵の奴は手を出して来ねぇから」

「…はぁ、はい」

「よし」


 マエダひとつ大きな欠伸をすると控室に戻った。

 歓迎会と聞いて俺は少し怖くなった。

 怖い顔をした紋付を着た人達が日本間に並んで杯を交わすような所を想像した。

 俺はきっとこのまま正式に組の構成員にされてしまうんだと思った。

 その時パク達は最後の一人が終わったらしく、3人で悲嘆の声を上げた。


「ちょと!サービス!サービス!」


 パクがこちらを向いて叫んだけど、ワタリもツダも無視した。

 パクは立ち上がるとカウンターにやって来た。


「サービスしてよ!」


 ツダがうんざりした調子で答えた。


「パクさん、今日はサービスいらないと言ったでしょう。

 弁当の金だって払ってないじゃないすか」

「何を言うの!

 お客にサービスするのあたリ前!

 俺達3人で今日50万円使ったよ!

 そんなに負けてサービスしないの変だ!」


 嘘。大嘘つき。


 パク達3人合計で6万7千円しか使ってない。

 俺は今まで、ここまで平気で嘘をつけて更に見苦しくて浅ましい要求をする人を見た事がなかったので、少しショックを受けた。

 考えたらこの店で働き始めてからショックの連続だ。


「パクさん、今日は運がないから帰った方がいいですよ」


 ワタリが言った時、さっきまでパクがやっていた台の客が、「ストフラー!」と叫んだ。


「おめでとうございます!」


 俺達が言い、ツダからご祝儀の金を受け取ったワタリがポラロイドカメラと黒い覆いを持って客の所に行った。


「あれ、俺の台だ!

 本当は俺がストフラ出してたんだ!

 お前らが意地悪してサービスしないからあいつがストフラ出したんだ!」


 パクは無茶苦茶自分だけに都合が良い事を言うとストフラを出した客の方に行こうとした。


「ああ!馬鹿パク!ソノダさん、止めて止めて!」


 ツダが小声で叫んだ。

 俺はパクの前に回り込んで立ち塞がった。

 俺の目の前10センチ位にパクの顔があった。

 お互いに間合いに入っちゃっててでやりずらいなぁとのんきな事を考えながらパクの出方を待った。


「パクさん、駄目ですよ」


 俺は小声で言った。

 パクの目は充血していて全身に余分な力が入っていた。

 こういう状態の奴は体のあちこちに余分な力が入っていてスムーズに身体が動かない。

 今なら簡単に仕留められるなぁ、先手を打ちたいなぁと俺はなぜか妙に冷静になってパクの顔を見つめた。

 パクはしばらく荒く息をついて俺の顔を睨んでいたが、やがて顔を俯かせて後ろに下がった。


「パクさん、今日は帰った方が良いですよ。

 明日来たらまたサービスできますから」


 いつの間にかパクのすぐ後ろに立っていたツダが言った。

 パクと連れががしぶしぶと店から出て行った。

 ツダが右手に隠し持っていた折りたたみ警棒を机の引出しにしまいながら俺に笑い掛けた。


「いざとなったら後ろからパクの頭かち割ろうと思ったんすけど…その必要無かったですね」

「ツダさん、ありがとうございます」


 俺が言うとツダが手をひらひらと振って笑顔になった。


「ソノダさん、ここで十分やって行けますよ。

 ただし…」

「ただし…なんですか?」

「店の外でパク達に会ったら気を付けてくださいね。

 歌舞伎町で女連れて歩いたりしない方が良いですよ。

 こうなったら、ソノダさん、歌舞伎町では常に後ろに目を付けて歩いた方が良いですよ」


 今日何度目だろうか、また、俺はやっぱり辞めよう辞めようと自分に言い聞かた、が、その一方で果たして辞める事が出来るのだろうかと言う思いが頭をよぎった。







続く







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