十二話 人間レコード
母上――夏奈さんの入院している大学病院に、ハルや楓さん、賀茂君を連れた安藤さんが来院したのは、夏奈さんの凶行から二日程が経過した頃。
この街に陰陽博士が派遣されたのを安藤さんの口から聞いたのはその時であった。
その陰陽博士から呼び出しを受けて、安藤一行は街の大学病院にはせ参じたというワケである。
「陰陽博士は、陰陽寮に設置された位の一つで、陰陽生の教育や陰陽術の研究などを生業としている。定員は……現在では特に決まっていないはずだが、誰でもなれるってわけじゃない。陰陽頭に認められた陰陽師でなければな」
「個性的で癖の強い人たちが集まってる、って聞いてますけど」
安藤さんの一歩後ろを歩いていた楓さんがそう尋ねた。静かな院内の白い廊下に、彼女の鈴のような声が良く響く。
「まあ、半分くらいは……でも普通にいい人も、常識人もちゃんといるよ。
「今回はその葛葉さんが来るんですか?」
「いや、癖の強い方だな。残念ながら」
安藤さん一行が病室の手前で脚を止めると、安藤さんはちらと部屋番号を確認した後、ドアを数回敲いて断わりを入れてから部屋のなかに入っていった。ハルたちもそのあとに続いた。
病室に入ると、中々豪勢な個室の中央からやや外れた位置に据え置かれたベッドの上に夏奈さんが横たえられていた。様々なチューブやら機器やらにつながれた体からおおよそ生気のようなものが一切感じられなかった。
医者によると脳の一部が欠落していて、自発呼吸もなしとのこと。このまま回復の兆しが見えなければ、彼女はきっと……。
等と感傷に浸ることはなく、病室に入った一行は病人よりも寧ろ、その傍らで口をもごもごとせわしなく動かして何やらを咀嚼している幼女の方に目を奪われている様子であった。
その幼女は幼い外見とは裏腹に、髪の毛に縮れた白髪が入り混じっていた。まるで初老の淑女のよう。また、彼女は色のボケた花柄の着物を着つけており、手には大きな白の饅頭が握り締められていた。
幼女がひょいと饅頭を口の中に放り込んだ。ごくりと大きな音を立てて饅頭が飲み込まれる。
「……博士、もう食べたんですか。あれだけあったのに」
「アイヤ、饅頭の三つや四つ何でもあらヘン」
安藤さんが当たり前のようにあの子供に敬語で話しかけているあたり、まさかとは思うが彼女が件の陰陽博士ということなのだろうか。見たところは齢七、八と言ったところだが……。
「まだ食べたいですか」
「アイ、いくらでも食べたい」
そう言って幼女がぶんぶんと頭を盾に振って頷くたびに、口元にへばりついた饅頭の欠片がほろほろと床に落ちる。
「じゃあ、その前に仕事をしてください」
「うぃ」
幼女は頷いてひょいと丸椅子から飛び降りると、ベッドに横たわる母上の方へカランコロンと歩いてゆく。彼女が下駄を履いていることに気が付いたのはその時だった。
「安藤さん、この子が博士ですか?」
その間、自分よりも年下に見える幼女に対して怪訝な表情を終始浮かべていた楓さんが、安藤さんに徐にそう尋ねた。
ちなみにハルは、
「ハッ、クソガキじゃないっすか」
と言って鼻で笑っていた。軟骨を握りつぶしてやりたいくらい憎たらしい。
「まあ見てろ。すぐにわかる」
対する安藤さんは真顔。
等と、そうこうしている内の出来事だった。
彼の幼女、犬神博士が母上の頭に手をやった。その次の瞬間。
ベッドがボカンと大きく揺れて、母上の上半身が勢いよく跳ね上がった。
すわ意識が戻ったのかと思った。しかし、彼女のうつろな目を見るにそうではなさそうだった。
母上は虚ろな瞳のまま、口から「アアアアァ」と言葉にならないうめき声をあげて、
バコッ
と音を立てて、頭蓋が蓋のように開いた。
それから、もの悲しいメロディが母上の頭部からポロポロとなり響いてきたのだった。
「ぎゃははははははははははっ」
唖然とする一同の中、空気を読まずに独りで爆笑しているのは、ハルである。どうやら彼にとってはこれが腹のよじれるくらいに面白いネタに見えるらしい。
こんな奴とは今すぐにでも縁切りしたいところだが、それができないのが歯がゆい。
「これが犬神博士の十八番、人間レコードか……」
そう呟いた安藤さんの額には、ポツポツとヒア汗が浮いているのが見えた。
一介の陰陽師ではまず扱うことのできない、途轍もなく奇天烈な呪術。安藤さんだけではない、楓さんも、賀茂君も尋常でない業を前に、息を呑んで事の成り行きを見守っている。
「うひゃひゃひゃひゃ」
馬鹿笑いしているのはハルだけだった。楓さんが思わずと言った風に眉を顰めてハルを睨んだが、ハルは一向に気が付かないで、ついには息も絶え絶えに床に転がり落ちて沈んだ。もうこいつはほっときましょう、楓さん。
犬神博士は床に這い蹲って息が切れかけているハルや私たちには目もくれず、儚げなメロディーを発し続けている母上に話しかけた。
「お名前は?」
すると、母上はピタリと音を止めて、
「……ア、ア……アウ、ア……」
「ふむふむ」
何事かを話始めた。
「ア。……イイアアエン アアアアイ アエノエアイウウウゥ ウオォイン アウア」
「ホゥホゥ」
母上が何を言っているのか少なくとも私には全く理解できなかったが、犬神博士は彼女の言葉を解しているようであった。
「オ オ オ オアエウ」
「お?」
「アアイアアット イアオォアエイアオウアイアィアイア アアイオウエオアアオウアイア―――」
「ウンウン、なるほどォ」
いよいよ母上の奇天烈な言動が苛烈さを極めたところで、犬神博士は矢庭に、バチリと思いっきり母上の頭を叩いて、それで母上の開いた頭蓋はピタリと閉じた。それと同時に、母上も半狂乱に半開きだった口を噤んだ。まるで機械のような動きの連動であった。正直な所、身体を自発的に動かしているにも関わらず「あ、生きてる」って感じは一切しなかった。
ハルがようやく爆笑の沼から脱したかというところで、というのはあくまでも偶然の一致なのだろうが、ともかくその時点で犬神博士は術を解き、安藤さんは機を見計らって博士に話しかけた。
「何かわかりましたか」
「ウン」
安藤さんの問いかけに、犬神博士はあっさりと頷く。
それから、
「チョット、そこの」
「あっ?」
博士が顎で示した先に、ハルがいた。ハルは博士と目が合うと、間抜け面を晒して博士の方を見やった。
「ここに残れヤ。あとは出てってもろテ」
博士が安藤さんにそう命じると、安藤さんは少しだけ戸惑う素振りを見せつつも
「……わかりました。おい、いくぞ」
楓さんたちを連れて、速やかに病室を退出していった。
楓さんが何か言いたげにこちらを振り返って見ていたが、安藤さんに背中を押される形で、病室の扉は静々と閉じられた。
そうして、部屋にはハルと犬神博士の二人きりになった。
「……えーと? 俺に何の用だよ」
後頭部を掻きむしりながらのハルの問いかけに、しかし犬神博士はじっとハルの顔を見つめるばかりで答えはしなかった。
ニタニタとした、不気味な笑い顔で。
その時、ふと気が付いた。
犬神博士は、ハルを見つめているんじゃない。
ハルの後ろにいる、「私」を見ているんだ。
〇
一方で、病室を出てすぐの突き当りに屯していた安藤一行であったが、楓が徐に憤りを口にした。
それは主に、晴欄に対するものであった。
「お母さんがあんな風になっているのに、アイツ平気な顔で笑ってた」
楓の口から、ギリギリと歯ぎしりが鳴った。
「人間のクズですよ」
「そうかもな」
安藤はぶっきらぼうに応えた。それからすぐに、
「しかし、陰陽師としてはどうだろうな」
「えっ?」
「身内がやられて取り乱したり、正気を失ったり激昂したりするような人間は怪異にとっては格好の鴨だ。奴らはヒトの
怪異は、呪いはヒトの恐れ、怖れ、惧れ、畏れを喰らって肥大化、凶悪化する。
「逆に、正気でありながら、何が起こっても冷静を保ち続けることのできる人間は呪いに対して強い耐性を得る」
「……それが晴爛君の強さの秘密ですか?」
「さぁ? それはわからない」
賀茂の問いに安藤さんが首を振って応える中、楓が語尾を苛立たせながら、
「陰陽師として大成したいなら、薄情になれってことですか」
「そうは言わない。どんな職種の人間も、情に厚いのは大切なことだよ。だけど、陰陽師なら「底」は見せるな」
「何が起きても平気なフリをしろ。決して本心を悟られるな。冷静さを欠いてはいけない。それが、お前を呪いから守ってくれるんだ」
〇
「単刀直入に言わせてもらワァ」
ハルが目を開けると、犬神博士の顔が眼前に迫っていた。それでハルは驚いて大きく体を仰け反らせたのだった。
犬神博士はそんなハルの様子には気にも留めずに話を続けた。
「オニィには囮になってもらいたい」
「オトリ?」
素っ頓狂な声を上げた後、ハルは一瞬間を開けてから大きなあくびをする。どうやらまだ暗示が抜けきっていないようだ。
「アイ」
犬神博士はこっくりと頷いて、
「すばしっこい奴じゃけぇのォ。餌と罠が必要じゃァ」
「それって俺じゃなきゃダメなのか?」
「ウン」
どう断ってやろうかと眼球をぐりぐりと動かして策を巡らせ始めたハルに、犬神博士がニヤリとほくそ笑んだ。
それから、手に持っている大きな尾羽をいじくり回した。
「バカ息子じゃなきゃダメじゃァ」
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