第八話 帰省




 これからあなたの

 かわいいかわいい赤ちゃんを 

 一緒に育てていきましょう !




 寝かしつけには非常に時間がかかりますね?


 あなたのかわいい、かわいい赤ちゃんは生後数か月程度ですと日に15、6時間は眠るとされています。が、連続して眠るわけではなく1~3時間おきに眠るため、昼夜を問わず泣き続けます。

 昼だろうと深夜だろうと夜更けだろうと泣き続けます。両親たちは赤ちゃんをあやすのに1日中悩まされます。


 まとまった睡眠など、取れようはずもありません。


 大変ですね~


 でも、あなたの赤ちゃんは



 かわいいかわいい



 ですので、この程度の気苦労などにこにこ



 に  こにこ



 全然辛くない、ですね!





 …… えっ!




 夜中に夫が隣でいびきをかいて寝ているのが恨めしい、ですって!!?




 とんでもない


 お父さんはお仕事お仕事


 家族を養うために1日中働いています。夜中に疲れて眠ってしまうのは仕方がありません。


 世の中には一人でも頑張って育児をしているシングルマザーの方々がいますよ。あなたも彼女らを見習って頑張りましょう!







 赤ちゃんを連れて外出は大変ですか?


 買い物に出かけるときも赤ちゃんは必ず連れて行かなければなりません。独りにはできませんものね。しかし準備が大変です。


 おむつ、着替え、ガーゼにハンカチ、タオル、使用済みおむつを入れるビニール袋など、荷物がかさばるかさばる。母乳の吐き戻しなどの非常時に備えて自身の着替えなども用意しなければなりませんですから。



 外出中は子どもが泣きださぬようひたすら祈り続けなければなりません。


 バスなどの公共交通機関を使う時など地獄です。


 赤ちゃんが泣きだしてしまうと、まさに針の筵です。



 辛い辛い。



 でも、


 そんな時はあなたが抱きかかえる赤ちゃんの顔を見てください。



 かわいい、かわいい



 赤ちゃんを見ていれば、疲れも不安も倦怠も、全て吹き飛びますよね。






 ……えっ!?






 子どもが可愛くない……ですって!!?






 新生児は言っても無表情だし、多少成長しても赤子の浮かべるアルカイックスマイルはどこか作り物めいていて嘘っぽい。


 そんな赤ちゃんに愛情を抱けない……ですか?


 無感情な瞳に見つめられると、息が苦しくなる。





 なるほど






 あなたはまだ母親の自覚がないのですね?


 母親が子を愛するのは当たり前当たり前。


 自分の子供がかわいくないことなんてありません。そんな奴は異常者です。


 あなたは異常じゃありませんよね。 ね?




 じゃあ、可愛いですよね?




 ほら、かわいい。




 赤ちゃんが可愛いと、にこにこですよね。






 ほら、にこにこ、にこ  にこ








 子育て、楽しい。






 赤ちゃん、カワイイ。




 にこにこ




 文字が読めなくなってもにこにこ



 赤ちゃんずっと泣いてるけどにこにこ



 御洗濯ものいっぱい溜まってるけどにこにこ




 シンクぐちゃぐちゃだけどにこにこ



 にこ  こ をば




 赤ちゃん泣いてる ね



 ずっと泣いててうるさいけど、にこにこ






 にこ


 をば


 にこにこ





 赤ちゃん  赤ちゃん



 かわいい かわいい



 あか



 あ



 をば



 れう





 にこにこ





 ににに




 こ





 赤ちゃん





 にこに









 にこに










 に








「あっ」









 ぐちゃ☆









 あ、ああ~








 赤ちゃんは、ダメダメ、投げつけてはいけませんよ。



 壁に叩きつけてはいけません。




 いけませんよ。



 死んでしまいますからね。





 あ、でも赤ちゃんが泣き止みましたね。


 ちゃんとあやせて、えらいえらい。


 泣き止んだ赤ちゃん、可愛いですね。


 インターホンが鳴っていますよ。お母さん。


 きっと保健師の方が訪問にやってきたのでしょうね。



 さ、早く早く


 壁に、餅みたいに張り付いてる赤ちゃん剥がして




 







 元気よく保健師の方を出迎えましょう!






 ほら、にこにこ




 私たちと一緒に、あなたも立派なお母さんになりましょね














 会議室に、うすぼんやりと煙がくゆっている。


 此度のハルたちの担当員、陰陽師の埴生はぶ先生が先ほど執拗に煙草を呑んでは吐いてを繰り返したためだった。神経質そうな楓さんや賀茂さんは室内の煙たさに眉を顰めていたが、それでも真面目な表情で机に噛り付いて会議に集中していた。


「もう既にメールで伝えた通りだが……」


 埴生先生は眉をイラつかせながら、目の前のホワイトボードをバンバンと叩く。


「市内で自身の子供を殺害する母親の事例が後を絶たない。ここ数日で10件以上……」

 

 それから、まるで親の仇敵かの如く、会議室に集まる3人の子供らに睨みをたらふくと効かせた眼を向けた。


 楓さん、賀茂さん。


 最後に、というかこいつが本命なのだろうが、会議室に備え付けの長机に頭を突っ伏して大いびきをかいているハルを、特大の怨嗟を込めた眼光を放ったが、ハルは指先一つとして反応を示すことはなかった。


「……10件以上同様の事件が発生している。明らかに異常事態だ」


 埴生さんが怒り心頭の表情を崩さずに、話を進める。怒りが燻っている、などというレベルではない。胸から火を噴き上げそうな勢いだった。


「市内に強力な怪異が出現したと思われるのだ!だから我々は一刻も早く原因となる怪異をだなぁ!!聞けぇ!!安倍ぇ!!」


「うぉっ!びっくりしたぁ」


 雷のような怒声がハルの鼓膜を貫いて、そうしてようやくハルは、びくりと背中を大きく震わせてから、目を覚ました。


 寝ぼけ眼をこすりつつ、周囲をきょろきょろと見渡す。


 それから、


「誰だよ、朝っぱらから叫びやがって。酔っ払いかぁ?」


「もう昼なんだよ!!そんでもってお前は研修中なんだよ!!爆睡すんな!話聞け!!」


「なーんだ。ハブ先ね」


 埴生先生の怒髪天が全く目に入っていないのか、ハルはいかにも寝起きなアホ面を引き締めようともせず、ぼやけた目をホワイトボードに向けた。それでも、ハルはまるで興味を示さない。


「朝っぱらから何かと思えば……母親の子殺しねぇ。別に珍しい話じゃないでしょ?その手の話は古今東西で耳にしますよ。いまだに本体が見つかってないって、本当に怪異の仕業なんですかぁ?」


 「やれやれ」と言いながら肩を竦めるハル。


 その言葉はこの


「なんでもかんでも妖怪のせいにする……そんな我々人間こそが真の妖怪なのかもしれません」


 喧しいわ。


「CCR検査で呪力が検知されてんだよ!!ふざけたこと言ってんじゃねぇ!!」


「あれ?そんなこと言ってましたっけ?」


「てめぇが寝てたからだろうが!!!」


 ギャーギャーとわめき始めた二人に、楓さんと賀茂さんが辟易とした表情を浮かべ、小さくため息を吐いた。


 会議は依然として進まず。


 そう。


 婚約破棄を言い渡されて早一か月ほどが経過した今日。





 お尻に火が付いた状況で再び働き始めたハルは、ここにきて以前の自堕落なダメニートに急速に戻りつつあったのだった。


 




 そして、案の定というべきか、この翌日、ハルはついに仕事に顔を出さなくなってしまったのだった。




 ああ、無念。










 一応、ハルがこうなってしまったのには理由がある。


 先の「母子殺害事件」の元凶と思われる怪異が、一向に捕まらないまま、市内で被害が急速に拡大しつつあったために、付近の陰陽師はおろか、ハルのような陰陽小属、陰陽大属など、陰陽師でない、陰陽師免許を持たない者たちまでもが駆り出され、連日連夜の働きづめだったのだ。


 ハルは、最初こそそれなりに働いていたものの、睡眠の時間すら削られんばかりのあまりの激務に、溜めに溜めた不満が噴出。


 という一連の流れがあるのだ。


 だからと言って、仕事をサボタージュするのは許される行いではない。


 というか許されるとか許されないとかではなく、すでアウトに近いグレーの状態である。担当員によっていつ仮免をはく奪されてもおかしくない状況である。


 そう。


 ハルは、今現在、追い詰められているのだ。


 しかし、本人には露ほども危機感がなかった。今も自室のベッドに横になってポテトチップスをバリボリと食らっている。


 事態は深刻である。


「ハル君、ちょっといい?お話したいことがあるの」


 私が、さてコイツの尻をどうひっぱたいてやろうかと画策していたところ、彼をまず最初に慌てさせたのは意外な人物だった。


 というか、夏奈さん、ハルの母上だった。


「えっ?」


 コンコンと控えめのノックの後、母上はハルの返事を待たずに部屋の中に入ってきた。


「ちょ、え、な、なに?」


 ハルは若干の混乱を見せた。


 というのも、母上は基本的にハルの部屋、プライベートの空間にズカズカと入ってこようとはしないのだ。


 部屋に入ってきた母上はいつもと変わらない柔和な笑みを浮かべていたけれど、少しだけ、様子がいつもと違う様に見受けられた。


「明日ね。ちょっとした用事でわたし、実家に一度帰らなきゃいけなくなりました」


「あ、そう……」


「だから明日のご飯は、冷蔵庫の作り置きを食べてください」


「あー……了解」


 それ以降、興味を失したかのように、或いはあえてそうふるまっているのかもわからないが、咄嗟に起こした上半身を再びベッドに沈めたハルを、母上は手でもって制止した。


「それともう一つ、いわなきゃいけないことがあるの」


 ハルは、面倒くさそうに、目線だけで返事をする。母上は一呼吸間をおいてから、


「私がいない間も、しっかりお仕事にいってほしい」


「……」


「明日、ちゃんとお仕事行ける?」


「今日は体調が悪かっただけだからさ。明日はちゃんと行くって」


 ぶっきらぼうにそう言いのけたハルに、母上は少しだけ眉を歪めつつも、ほとんど表情を変えることなく、少しだけ困ったような笑みで、


「ほんとう?」


 とだけ聞き返した。


「う、ん」


 母上は、ハルをじっと見つめた。


 真摯な瞳で訴えかけてきた。


 ハルの返答は、少しだけ言い淀んだ。


「そっか」


 ぽしょりと、一言。


 母上はそれから、「お話聞いてくれて、ありがとう。おやすみ」とだけ言って部屋を出ていった。


 出ていったなり、私はハルを恨めし気に睨んでやった。


 嘘つき。


 母上にだってバレバレでしたよ。


 あの寂しそうな去り際の表情を思い出して、少しは反省したらどうですか?


「バーカ」


 と、ハルはつまらなさそうに応えた。


「俺の面の皮の厚さを嘗めんなよ」







「前世で俺が何回同じような嘘をついたと思ってんだって話よ」




 ハルは、不意に前世の家族のことを思い出していた。


 思い出すまいと硬くと出していた記憶の扉が、衝撃でほんの少しだけ緩んでしまっていた。


 ハルは記憶に蓋をするかのように、ベッドに勢いよく潜り込んでそのまま眠ってしまった。



 


 翌日、ハルは仕事に向かわなかった。













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