第九話 安倍晴爛とスーパーマーケット その一





 6時半。


 枕の傍に放り投げ捨てられていた、ハルの携帯電話が鳴った。


 ハルはもぞもぞと布団から這い出てくると、顔を枕に埋めたまま携帯を引っ掴むと、電話に出た。寝起きのかすれた声で。


「はいもしもし……」


『もしもし!!アンタね、今何時かわかってんの!!?』


「あ~、楓?悪いんだけど、ハブ先に体調不良で病欠って伝えといてくれね?」


『もう何日目よ……』


 楓さんの心の底から呆れたような心境が、電話越しからもひしひしと伝わってくる。


『先生すっごく怒ってるんだからね』


「今日は……そうだなぁ。じゃあ「低血圧」ってことでひとつよろしく。そんじゃ」


『あっ、ちょ、まちな―――』


 楓さんの叫び声が電話から響いてきたが、ハルは徹底してそれらを無視。挙句の果てには返事を待たずにさっさと電話を切ってしまった。


 ハルは本当にこれで良いと心の底から思っているのだろうか。


 このままでは妖怪の犠牲となる母子が……。


「ほっとけよ」


 しかし、ハルはとことんまで冷たかった。脚で蹴って散らかされていた掛け布団を再び被って、潜り込んでむみゃむみゃ言い始める始末であった。


 それから、ぼそりと言った。


「殺したくなるくらい憎いんだったら、子どもなんか最初っから作らなきゃいいんだっての」










「これで12人目か……」


 陰陽師の迦十は、煙草の吸殻とビールの空き缶が散乱した室内に所狭しと腰を下ろしていた。


 その状態で、先ほど運び込まれた死体の代わりに白線で象られた死体のアウトラインをじっと眺めまわした。


 二体の人型。


 母と、息子の死体である。


「迦十さん」


 思案気な迦十に躊躇なく話しかけたのは、同じく陰陽師の安藤だった。安藤はそれから、迦十の顔の前に白黒の写真をかざして見せた。


「これ、ガイシャの脳のMRIなんですけど……」


 映し出された白黒の画像には、輪切りの脳にぽっかりと、奇妙に穴が開いているのが見て取れる。


 ふむ、と迦十はじっくりと写真を手に取って眺めまわす。


「虫、ですかね」


「いや、虫なら食らい尽くすまで離れない。それに、オレたちに対してこれほど痕跡を残さず逃げ出すだけの脳もない」


 迦十は粗方見終えた写真を放り投げた。ひらひらと舞いあがった写真を、安藤が慌てて中空でキャッチするのを尻目に、彼女は部屋の窓に近づいて、窓越しに空を見上げる。


「これだけの逃げ足……」


 どれだけ探しても、怪異の正体につながる証拠は見つけ出せない。


 この部屋にはどす黒い呪力が滞留しているのみ。


 優秀な陰陽師が血眼になって見つからない。敵は相当の曲者であった。




 そんな状況下において、


 迦十はひとり、敵の正体について感付き始めていた。




「鳥、かもな」


「鳥?」


「それも、ネームドかもしれない。オレらじゃどうにもならんかもな」


 それから、徐に携帯を取り出して、弄り始めたのだった。


「陰陽博士を呼ぶか」










「あれ?」


 昼過ぎのことだった。


 冷蔵庫をがばりと開けたハルが、素っ頓狂な声を上げた。


 目を左右に走らせて、冷蔵庫の中身をしっかりと検める。


 しかし、空。


 冷蔵庫の中身は空であった。


「夏奈さんっていつ帰ってくるんだっけ?」


 今日中には帰ってくるんじゃないですかね。


「しかし弱ったな。昼飯が無いぞ」


 今朝と昼食べたので、作り置きは最後だったんですね。


 まあでも、何か適当な店で買ってくればいいじゃないですか。


「ばか。今はジャンクフードの気分じゃねぇんだ。俺の口が手作りの飯を欲してる」


 知らんわ。


 まあ、でも、じゃあ材料買ってきて自分で料理すればいいんじゃないですかね。ハルが料理できるのかどうか知りませんけど。


「おいおい」


 ハルは自信満々に応えた。


「今の時代クックパットかユーチューブ見れば、大抵の料理は作れるんだよ。素人でもな!」


 やれやれ。


 私は眉間を指で押さえて項垂れた。


 ろくに包丁も握ってこなかった人間が、アホ丸出しで何やら宣っている。ネットは便利だが代わりに自活能力を著しく退化させてしまうのだろうか。


「近所のスーパーにでも行くか!」


 ハルはそう言うと、スマホを取り出して地図アプリを起動。近所のスーパーマーケットの位置を調べ始める。


 呆れて言葉も出ない。近所のスーパーはここから歩いて十分もかからないぞアホ。


「おーい、畜生どもー。出かけるぞー」


 ハルが庭に声をかけると、ハルの式神、狐狸のチョコとコロネが木陰からいそいそと姿を現す。いつも散歩になんか連れて行かないくせに。一体何に影響を受けたのやら。


 それから、ハルの出かける準備の手伝いを始めた。下駄箱から靴を取り出したら靴下を引っ張り出してきたりと……。こんな不甲斐ない主人のために、なんと健気な……。


「首輪付けといたほうがいいか……」


 そんな健気な式には目もくれず、ハルはどこへやら引っ張り出してきた首輪を片手に唸っていた。


 いやいやそんな、犬じゃないんだから……。











 


「かわいいワンちゃんたちねぇ~」


 化粧と服装の濃いおばさんの手によって、リードにつながれたチョコとコロネが撫で回されていた。スーパーに行く途中の出来事である。


 ところでおばさん、その子たち犬じゃないですよ。


「ほら、てめーら、ご婦人にサービス開始だ。三回廻ってワンってしろ。畜生らしく人間様に媚びろ」


 ハルが命じると、二匹はその場でくるくると回り始める。なんと健気な……。


 とまあ、


 そんなこんなで道草を食いつつも、ハルは特に迷いもせず、順調にスーパーマーケットにたどり着いたのだった。


 地図アプリのGPSによる誘導があるのだから当たり前である。あんな親切な案内で道に迷うんだったらとんだ笑いものだ。私が笑ってやる。


 件のスーパーマーケットは、ごく普通のスーパーマーケットで、特筆すべき点も一切ないのだが、それでもハルは物珍しそうな目でそれを眺めまわしていた。


 自動ドアをくぐるだけでも、少しだけ浮ついた足どりになっているのが私には分かった。ガキか。


 買い物かごを腕に提げて、ハルは店内を悠々とねり歩く。


「色々あるなぁ」


 ところで、ハル。何を買うかは決まっているのですか?


「スーパーと言えば、まずは卵だろ?」


 なぜスーパーと言えば卵なのかは知らない。本人に直接聞いてください。まともな返答は期待できそうもないが。


「それから、ジャガイモ。人参と玉ねぎも買っておこう」


 商品を適当に引っ掴んで籠に放り投げてゆく。宙を舞う玉ねぎ。


 気を付けてくださいよ。卵に中ったら中身割れますから。


「それから、肉だな!」


 スーパーに並んでいるにしては大層ご立派なブロック肉を引っ掴んで、やはり籠に放り入れる。値段は当然のように見ていない。スーパーに蔓延っている他の主婦とはまるで違う酷い買い方である。隣のおばさんなんてまるで親の仇敵のように、商品の値段の記載を睨んでいるというのに……。


「あとはレジに並んで……」


 覚束ない足取りでレジに並ぶハル。身体がフラフラしているのが嫌に目に付いた。


「4257円になります」


 会計終了。結構高いがハルは現金であっさりと支払う。ハルの財布の中身にはおおよそ中学生が持っていていい額を超えた金が詰まっている。


「よーし、後は家に帰って料理開始だ!」


 それから全くエコじゃないらしいポリの袋を買い足して、会計を終えた商品を適当にぶち込んだハルは、ウキウキとした様子で自動ドアをくぐって店の外へと飛び出した。


「さーて、何作るかなー」


 何という計画性のなさ。ちゃんと事前に決めてから買い物しなさいよ。


 ところで。


「あ、なに?」





 先ほど買い物した袋はどこにやったんですか?





「は?」


 ハルは手元を見た。


 当然の如く、ハルの手には何もなかった。先ほど買った商品も、どこにも。


「えっ?」


 手の平を一度、二度開いて閉じて。


 ハルは茫然とした表情で私を見やった。


 見られても困りますって。


「まさか、置いてきた?」


 だとしたらハルは底抜けの間抜けですね。


「うるせぇ」


 ハルは肩を怒らせながらスーパーに引き返した。


「おいおい、まさか盗まれたんじゃないだろうな」


 悪い予感はよく当たる。


 スーパーのどこを探しても商品はおろかポリ袋すら見つからない。本当に盗まれてるじゃないですか……。


「嘘だろ?まさか、もっかい買い直さないといけないのか……?」


 どうやらそのようである。


 主婦だったら発狂ものだが、ハルはそれほど悲観してはいないようだった。金銭的に余裕があるからだろう。ガキのくせに。


 暫し呆然としたものの、ハルはそれから、再び買い物かごを手に買い物を始めたのだった。


「ふむ」


 陳列棚を眺めて一言。


「タコなんかも上手そうだな」


 先ほどのラインナップに加え、新たに魚介類に手を出すハル。果たしていったい何を作るつもりなのか、既に戦々恐々といった心持である。


「5642円になります」


 再び会計を終え、スーパーから出てきたハルの手には、先ほどよりもずっしりと重い買い物袋がしっかりと握り締められていた。


 今度はなくさないようにしてくださいよ。


「わかってるっつーの!しっかり手に持ってるって」


 「ほら!」と言いながら私の目の前にかざされたハルの手には、しかし、まるでそれが当たり前であるかのように何もなかった。


「……あ?」


 ハルの握りこぶしだけが、宙に虚しく浮いているのみであった。


 安倍晴爛、二度目の紛失である。


「いやいやいや」


 ハルはアスファルトの上にしゃがみこんで頭を抱えた。


「いや、持ってたよな?えっ?いつ?



 何時俺は袋から手を離した?」


 知らんわ。


「クソぉぉぉ!」


 ハルは奇声を発しながら三度、スーパーへと駆け込んでいく!!!




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