第七話 魔を照らす鏡




「霊力を吸収された……?」


 市川は背中にジワリと、冷や汗が湧き上がるのを感じた。


 ちょっと普通じゃない。


 おそらく、正攻法でこの怪異を調伏することは不可能だと、彼女は悟ったのだ。


「ホホホホホホホホ」


 保険医は奇矯な笑い声を上げながら、首がゆっくりと天井の黒い靄へと伸びてゆく。


「市川さん」


 声がした。


 市川が振り返ると、光明の背後に


 ずらり


 と、人獣(人の身体に動物の頭をつなげたもの)が並べられているのが見える。


「僕が抑え込みます」


 馬、鹿、鶏、牛、豚、犬、猿。


「へぇ、随分と大層な式もってんじゃない。さすが貴族様」


「楓さん、申し訳ないけど手伝ってくれるかな?」


「……」


 楓は大人しく光明の言葉に従い、彼の後ろについて結印した。


「市川さんも、お願い――」


「もちろんよ♡」


「……」


 飛びつくように光明の背後にまわり込んだ市川の緩み切ったハートの瞳を、楓は胡乱な目で見やった。彼女の脳裏に「発情雌猿」という単語が思い浮かんだ。


「まずは怪異と先生を引き剥がす」


 後ろの出来事には目もくれず、光明はそう言うと静かに結印する。


 天井に伸びてゆく保険医の首が、天井の靄とドッキングしたのと同時に、光明は詠唱を開始。


「朱雀 玄武 白虎 勾陳 帝台 文王 三台 玉女 青龍……」


 



 Tenpō




 Tennai




 Tenph




 Tenshin




 Tenkin




 Tennim




 Tenyō






「……!!?」


 光明が異常を察知して後方に飛びのいた。


 瞬間、天井と繋がって蠢いていた保険医の首が、ぶつりと音を立ててちぎれて落ちた。


「うわわっ」


 市川が思わずたじろぐ。


 断裂した首から血潮が噴き出して、ビニル床がどす黒い赤に染まった。


「……」


 尋常ではない事態に、しかし光明はじっとして声を荒げない。心の調和と集中を乱すと、術が相手に通用しなくなるからである。


「霊力を吸ってるのか?」


 保険医の頭から下が、べシャリと音を立てて血だまりの床に倒れ伏したのには目もくれず、光明は努めて冷静に、天井の黒いもやをつぶさに観察した。正体を看破しなければ、この怪異は決して倒せない。


 不意に、靄からどす黒い音が漏れ出した。


 ―― Nnakotomo Konnakotomomoooooooo




    Musukojyana kojyanai




    Musukojya




 それは懐かしい響きだった。


 今の今まで冷静さを失わなかった光明の額に、玉のような脂汗は湧き上がってくるのを感じた。


 その時だった。


「いやぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


 保健室に備え付けのベッドに潜り込んで怯えていた、先ほどの女子生徒が金切り声をあげた。どうやら掛け布団の向こう側で起きているの異常事態を察知したらしい。女子生徒は正気を失った挙動で、保健室を駆けずり回るようにして出ていってしまった。


 天井の黒いもやが、それに呼応するかのように蠢く。もやは明らかに、先ほどよりもよく濃く、巨大に膨れ上がっているようだった。女子生徒を追うがごとく、天井をスルスルと流れて、廊下に漏れ出してゆく。


「待ってください!この場を離れ――」


「光明君!!」


 女子生徒を追いかけようとした光明を、市川が慌てて引き留めた。


「あなたの霊力でもダメってことは……あれは私たちの手に負えない。これ以上の被害拡大は看過できないわ」


「市川さん……?」


 眉を顰めた光明が目で訴えかけるが、市川はあくまでも冷静にそれを受け流した。


「アレはこちらから手だししなければ攻撃されないタイプ。逆に手を出せはどんどん事態が悪化していく」


「……」


「ですから、患者のことは一旦諦めます。時間をかけて強力な式を――」


 言葉を待たずして、光明は保健室を飛び出した。


「あっ、コラ!」


 市川の引き留めにも一切の反応を示さず出ていった光明に、市川は肩を竦めた。


「……うーん、ちょっと甘やかしすぎたかしら」


 呆れた表情の市川に、楓が意外だとばかりに反応する。


「自覚あったんですね」


「や、でも、光明くん可愛いんだからしょうがないじゃない?」


「……はぁ」


 楓は大きなため息を吐いた後、徐に取り出した電話で、つい最近登録した連絡先にコールを掛けたのだった。





「……もしもし、ハル?


 アンタトイレなんかしてる場合じゃないでしょ。今すぐとびっきりの式を……はぁ?出てる途中?下痢?知らないわよ!!気合でとめなさいよっ!!」












 ずるずると、靄が天井をはいずり回る。


 するすると靄から触手が伸びて、光明が召喚した簡易式神、人獣たちを一体一体つるし上げ、首をもいでゆく。


 床に、打ち捨てられた首なしの死体が散乱した。


 逃走した女子生徒を追う靄を必死で食い止めていた光明だったが、ここにきて気力の限界を迎えていた。今すぐにでも緊張の糸が途切れてもおかしくない状況である。


「霊力をさせない」


 状況を打開する手段が、光明に残されていないわけではなかった。光明は式を召喚するまでの時間稼ぎをしていたのだ。


「一撃で倒す……強力な式を……」


 


  ――うしてお前は



 

 ハッとした。


 天井の靄が、微かに晴れて、怪異の本体、天井に張り付く巨大な鏡ががにわかに露呈した。


 怪しく光り輝く鏡の向こう側に、男の姿が映し出されている。




 ――どうして貴様はこのような、このような簡単なこともできないのだ




 ―――見よ! アレはお前と同年代なのだぞ




 貴様はとんだ落ちこぼれだ





 おい、飯など食うな





 貴様には食う資格がない 膳を下げよ





 ふんっ






 泣くのか?情けない奴め






 いい恥さらしが







 貴様のような愚物が陰陽師になれるはずもないわ






 とっとと去れ!






 去れ!二度と帰ってくるな






 はははははは……






「う」


 天上の鏡につるし上げられて足をじたばたさせている人獣たちを尻目に、光明は鏡に写る人物の姿に動揺を隠せないでいたのだった。


「拙い……」


 術式がほどけつつある。


 冷静さを欠いては、強力な式神の召喚が叶わない。


 なんとか動悸を抑えようと胸を抑えたが、一向に動揺は収まらなかった。


「まずい……騒ぎになったらいよいよ終わりだぞ……」


「おい、キミ」


「!?」


 ぎょっとして、振り返った。


「何している?授業中だぞ。……いや、キミ、中学生か?」


 おそらくこの学校の教師らしき男性が、怪訝な表情で光明の後ろに立っていた。


「(しまった!!教室に近づきすぎた!!)」


 生徒たちの内数人程が、教室から廊下に顔を覗かせている。明らかに注目を集めすぎている。


 光明は己の失策を悟った。


 怪異は基本的に、注目を集めれば集めるほど、認知する人間の数が増えるほど呪力を増してゆく。


 これ以上、天井の鏡が呪力を増せば、間違いなく手のつけようがなくなる。


「このままじゃ……」


 


―――貴様のような愚物が陰陽師になれるはずもないわ!



 死んでしまえ



 貴様など生きてる価値もない




 幼少の頃のトラウマがフラッシュバックする。


 ひたすらに焦りを止められない光明の肩に、


 一匹の小さなアマガエルがひょうっと現れた。


「?」


 アマガエルが、ばっくりと口を開けた。


 それから、


『みつあき……だっけ?』


 聞き覚えのある声を発したのだ。楓だ。


 おそらく、言伝を頼まれた楓の式神だ。


「……楓さん?」


『まだ生きてるかしら?生きてるんだったら、今すぐ九字で身を護りなさい』


「えっ?」


『アイツがのを放つわよ。巻き込まれないようにしなさい。ついでに守りたい奴が近くにいるなら、そいつも守って』


「特大……?」





 ――Kaenuni





 全く状況を飲み込めない光明に、不意に、途轍もない重圧が襲い掛かってきた。


「うっ!!?」


 まるでいきなり重力が数倍になったかのような錯覚。


 あまりの重さに片膝をついた光明が、なんとか顔を上げると、


 廊下の向こうから、祝詞の詠唱が聞こえてきた。





 Kaenuni



 kaenuni



 Kuautisu



 Yasahuyoho




 光明の肩を掴もうとしていた教師が、ぴたりと動きを止めていた。


 それを面白そうに教室からのぞき込んでいた生徒たちも。


 我関せずに自習に励んでいる真面目な生徒も。


 何も考えていなさそうな表情で、窓をぼんやりと眺めている生徒も。


 今まさに廊下を駆けまわって、靄から逃げ惑っていた女子生徒も。


 ピタリと、動きを止めた。


 まるで、時間が停まったかのように。




 


 Nani




 Nani




 Shie




 Shie




 Shieya




 Hate


 


 Hate






 世界最古の呪言じゅごん、「口凝り」が学校を覆いつくした。


 口凝りによる威圧によって、呪力に耐性のない、あらゆる生き物がその動きや思考を一時的に停止させたのだ。


 凄まじい威力の口凝りに、効き目の薄いはずの陰陽師である光明は圧倒された。


 また、天井に張り付いていた鏡は天井から引き剥がされて、地面に引きずり降ろされたのだった。




 廊下の向こう側から、安倍晴爛が、ゆっくりと歩いてくる。 




「下痢便で尻が痛ぇ」



 安倍晴爛に呼び出された二対の式神が、互いに動きを合わせながら、舞を舞い踊り始めた。



「んなこと言ってられる状況でもなさそうだ。


 ……じゃ、いっちょやりますか!」



 光明は爆発的な晴爛の霊力に、反射的に九字を切って自身と近くにいた教師の身を固めた。






 鈴と笛の音が、鳴り響く。







 Ametsutino








 Kamynizoinoru








 asanagino








 Uminogotokuni








 Namitatanuyoho











 二対の式神と、晴爛の上空の天井の間に、巨大な霊峰の式神が出現した。


 三メートルはあろう、真白な巨人である。



 晴爛が、手にした扇の先を、鏡の怪異に傾けた瞬間、



 輝かんばかりの白い閃光が、廊下を覆いつくした。








 

 からからと、地面を転がる小さな手鏡を、晴爛はひょいと拾い上げて、手に取ってしげしげと眺めまわす。


「やーっぱ正体は運がい鏡かぁ。あのギャル、コレの持ち主にどこかで恨みを買ったんだなぁ?」


 言いながらうんうん唸る晴爛を、光明は茫然と見つめていたのだった。。












「どーも見た感じ、過去にやったいじめが原因っぽいな」


 ハルと楓さん、それから光明さんは現在、市川さんのワゴン車の中で遅めの昼休憩を取っていた。


 市川さんは未だに、駆けつけた警察関係者たちと事情聴取中である。


 二人の死傷者を出してしまったことで、事が大きくなってしまった。おそらく市川さんはこれから眠れないほど忙しい一日を送ることになるだろう。


 ハルたちは研修生、あるいは実習生のようなものなので、やらかしたことの責任は全て指導員である市川さんに帰結する。市川さん、南無三。


「ふーん。あの鏡の持ち主を、ってこと?じゃあ自業自得って奴ね」


「怪異に襲われる理由なんざ大抵が自業自得だ。しっかし、悪いことをしたにせよしなかったにせよ、あんな強力な怪異に付け狙われるってのは流石に不運だと言わざるを得ないね」


「そーとー悪どいことしたんじゃないの?死んで当然だってくらいのね」


「死んで当然の人間なんていない」


 雑談を交わしていたハルと楓さんは、急に話に割り込んできた光明さんを、キツネにつままれたかのような表情で見つめた。


「誰が良い人間で、誰が悪い人間なのか、人がそれを決めるのなんて不可能だ。だから僕は善悪で他人を判断しない。自分のやるべき仕事をするだけだ」


「仕事できてなかっただろ」


 余計なことを宣うハルを言葉を無視して、光明さんはハルをじっと見やった。


「噂通りの凄まじい霊力だった。だけど」


 光明さんの瞳に、ギラリと野心のようなものが垣間見える。


「君には負けないつもりだ。晴爛君」


 それだけ言ってのけると、光明さんは車のドアを開けて、外に出る。


「どこ行くの?」


「コンビニだよ」


 楓さんの質問に、光明さんはさっと片腕を上げて、その場を立ち去っていった。


「何、アイツ?急に怖すぎなんだけど」


「多分、おそらく、ああいうキャラなのよ。アイツ」


 二人の中での光明の人物評がだいたい決まったらしい。あまり評価は高くなさそうだ。かくいう私もそうである。


 しかし、彼には彼で色々と気苦労がありそうだ。せめて私だけでもいたわってやろう。


「つーか、意味わからん話し聞かされてたら、腹減ったわ!」


「もう昼もだいぶ過ぎてるわね」


 携帯で時刻をじろりと確認する楓さんを尻目に、ハルはウキウキとカバンから持参の弁当を取り出した。


 母上がハルのために拵えてくれたものだ。


 感謝しなければ……


「さーて、弁当べんと――」


 等と思っていたら。


「なん……だと……」


 弁当箱を開けたハルは、愕然としてぎしりと表情が固まった。



 弁当の中には、今朝食べていたような麺を使った料理が、ぎっしりと敷き詰められていたのだった。






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