第一話 中編 






 背の低い机の上に、いくつもの写真と資料が無造作に散らばっている。


 八ツは、その内の一枚の写真に指を差した。


「この御方とかはどうでしょう。中々の美形で……」


「性格悪そう、却下」


「ではこちらの御人は?誠実そうでよい方ではありません」


「太ってる。ブヨブヨの顎がダメ。首との境目見えないじゃない」


「……葵様」


 八ツは、目の前の女性、あおいに胡乱な目を向けた。


「あまり選り好みもできませんよ」


「わかってる!」


 葵は不貞腐れたようにそっぽを向いた。それを見て、八ツは背中に嫌な汗が流れるのを感じ取った。まさか……葵様……。


 しずしずと、八ツは葵に尋ねる。


「その、……まだあの男に未練が?」


「それはないわ」


 しかし、葵は一蹴した。ハル、無念。


「でも、顔の造形は良いでしょう」


「いやいや、どれだけイケメンでも引き籠りのニートなんてありえないから」


 それはそうだ。 八ツはほっと一安心した。


「昔は可愛かったのにな」


 葵は誰にいうでもなくそう呟くと、徐に立ち上がった。 立ち上がると、身に纏っているうちきがズルズルと擦れた。唐衣からぎぬ(十二単)よりはずっと軽いが、それでも常用するには若干、いやかなり袖やらはかまやらが長すぎる。


「ちょっと、庭を散歩してくる」


「外は暗いです。お供しましょう」


「御供とかいいって!一人にして」


 八ツが立ち上がろうとするのを声で制して、葵は独り、月の光に照らされる庭に踊り出た。


 長袴を踏みつけるようにして、庭の芝を歩いてゆく。


 袴が汚れてしまうので、このところは滅多に外に出なかった。が、今は服が汚れるのも構うまい。


 こうして久しぶりにゆったりと外を歩いていると、ふと、懐かしい幼馴染の顔が脳裏に思い浮かんだのだった。


「ハル君……」


  かつての婚約者であり、幼馴染。


 昔は仲が良かったが、今は月に一度話すかどうか、といった具合には疎遠になっていた。それに、彼はもう昔のような自信と誠実さに満ち溢れていた彼ではない。引き籠りのダメニートなのだ。


「どうせ、子供の頃の約束のことも、あの子は覚えてないだろうし」






 ―――わたしをここから出して


 昔の思い出に、想いが馳せた。


 葵の意識が、吸い込まれてゆく―――





 この家が、陰陽師の血が嫌で嫌で仕方がなかった。


 土御門は代々受け継がれてきた陰陽師の家系。その血を絶やさぬよう、土御門の当主は己が決めた男を娘にあてがう。二十一世紀となった今でもその習慣は粛々と続いていた。


 このご時世に自由恋愛も許されない、なんていう甚だしい時代錯誤もそうだけど、何よりも私の中に流れる血が嫌だった。この陰陽師の血が。


 陰陽師は、普通の人間には見ることのできない「しゅ」を知ることができる。否、知ってしまうと言うべきか。


 土御門の血を色濃く受け継いだ私にも、その力があったのだ。


 今でも、あの日の出来事ははっきりと覚えている。私がまだ年端もいかぬ幼子だった時、父が食べさせてくれた料理の味。


 初めて食べた、獣肉の味。


 いつも精進料理ばかりだったから、脂ののった肉がやけにおいしかった。


 だけど、父は、あの人はなにも私においしいものを食べさせたい一心で、私に肉を食べさせたわけではない。寧ろその逆で、私がを起さぬよう釘を刺しておくために、そうしたのだ。


 一口、二口と夢中で肉に食らいついていた私に、父がふと、


 ―――葵、食べ物の声が聞こえるか?


 と問いかけた。


 ―――いいえ?聞こえません父上。食べ物はしゃべりません


 ―――いいや、お前なら聞こえるはずだ。耳を澄ましてごらん……


 私は、云われた通りに耳を澄ます。


 すると、確かに、妙な声が聞こえてくる。少し甲高いような、それでいておどろおどろしい響きの声が、どこからか聞こえてきたのだ。


 ギャァ、ギャァという、人の者とは思えぬ絶叫。


 耳を塞いでも声は聞こえる。


 私は、そこではたと気が付いた。


 声は、私のお腹の中から轟いているのだ。どれだけ耳を塞いでも、胃の奥からせりあがるように、声は喉から頭まで這い上がってきた。


 私は、頭を押さえてその場にうずくまった。


 父はそれでもなお、私に「呪」を説き続ける。


 ―――それは、今お前が食べた豚さんの記憶だ。ほら、目もよく凝らしてごらん


 食膳に乗せられた肉が、蛆虫のようにぐしゅぐしゅと蠢いていた。


 私は、反射的に目を瞑った。だけど、意味なんかなかった。


 途端に、とある光景がフラッシュバックした。



 兄弟と母豚の乳首を取り合う記憶。乳の出が悪い端っこの方の乳首しか飲めなかった。


 赤いランプに照らされながら、兄弟たちと共にぬくぬくと眠った日々。安寧のひと時。


 人間の手によって去勢された日。酷い痛みと身体の変化にひたすら戸惑った。


 母と離れ離れになった日。一晩中泣き続けた。


 それから、悪魔的においしい食べ物を食べ続ける日々が始まる。人間に追われて何度も部屋を往来した、楽しい遊び。初めて会うたくさんの仲間たち。


 大きく成長する身体。


 突然住処を追い立てられる。


 揺れる箱。


 それから、


 それから、屠殺。轟音と虐殺。気絶。


 血。


 記憶はまだ続く。死んだあと、彼はつるされた。それから、切り分けられる身体。各地に彼の肉体は運ばれて、



 私が食べたのは、彼の肩。


 

 陰陽道とは、物事の本質を知ること。つまり、人や物に宿る霊、「呪」を知るということだ。私には「呪」を知る力が人よりも強かった。


 それは、世の中の大多数の人間が失ってしまった、いや、生きるために捨てた力だ。


 人はどうして「呪」を見なくなったのか、私には分かる。


 だって、こんなの、正気じゃいられない。



 フラッシュバックの後、私は胃の中の肉を全部吐き出した。


 吐いても、吐いてもの悲鳴は耳から離れなかった。


 父はそんな私の様子を見て、満足げにほほ笑んでいた。ちてゃ私に陰陽師としての素質がしっかりと受け継がれていることを確認するために、そしてそんな私が獣肉で身を穢さぬように、敢えて私に豚肉を食らわせたのだ。


 父の思惑通り、以来、私は一切肉を食べられなくなった。肉を食べようとすると、あの時のトラウマがフラッシュバックするようになったのだ。


 こんなのは序の口。


 陰陽師の家に生まれたその定めとして、何度も「呪」と向き合うことになった。


 父は、この家は私の人生を縛り付けて離さない。これも「呪」なのだろうか。


 キライ。


 この家が、陰陽師が、呪いが。


 何もかも。


 だから、いつしか、私はこの家を出ることを夢見るようになった。


 だから、幼いころのハル君と約束をした。


 別に誰だってよかったのだ。ここから出してくれるなら、私の「呪」を祓ってくれる者なら誰だって……。


 ―――ねぇ、大きくなったらわたしを連れて行ってね


 ……?


 いつの記憶だろう。


 そう言えば、ハル君の他にも約束した人がいた。




 ――Oyad ukosukay



 

 ごうん、ごうんと回る。


 換気扇――









 一方、牛車にて都会の上空を彷徨うハルと土蜘蛛の精――カルマンはというと……。


「もしもし?何?


 ……いや、違う違う仕事じゃないって!


 えっ!?弁当?いらないいらない。


 ……いや、もういいから!!


 切るぞ。じゃあっ」


 ハルは電話の向こうの相手に向かってそう叫んだあと、乱暴に電話を切った。


 母上からでしょうか?上空でも電波ってつながるんだ……。


「夏奈さんな?なんかあの人、仕事に出かけたのだと勘違いしたみたいで……」


 「夏奈さん」とは何と他人行儀な……。いい加減、母と呼んであげなさいよ。


「知ってるだろ?俺は転生したんだ。あの人の本当の息子じゃねーんだぞ」


 そんなことはない。転生しようがしまいが、母は母でしょう。


「いーや、違うね」


 強情な奴。


「うるさいなぁ……おっ、そろそろ着くぞ」


 ハルが牛車から顔を覗かせて、私も同じく外を見ると、眼下に大きなお屋敷が広がっていた。さすが、土御門のご立派な御屋敷だ。分家とはいえ似非貴族の安倍家とは比べようもない。 


 ふと、屋敷の垣根の向こう側に、謎の人影のようなものが垣間見えた。が、そちらに私が意識を向けるよりも先に、牛車がガクンと揺れた。


 牛車につながれた牛が、頭を大きく下げた。それに合わせて、牛車が大きく傾く。


 ハルはそうやって牛車を急降下させると、何のためらいもなくお屋敷の大きな庭に着陸する。


 ああっ、不法侵入!!


「細かいことはいいって。どうせ正面から入っても厄介払いされるだけだろうし」


 確かにハルのいう通りではあった。じいには悪いが、最初から成功確率の低い賭けみたいな作戦である。


 牛車は、よく整えられた庭の芝生をバリバリとめくりあげながら、やがてピタリと静止した。


「脆いなぁ ここの芝」


 ハルは削れた芝生を見ながら、のんきな顔で言う。


 芝を整えている庭師の苦労なんか、微塵も考えていないのだろうなぁ。


 この時の私は、すっかり怪しい影のことなど、忘れてしまっていたのだった。










 葵さんは、庭の枝垂れ桜にそっと近づいた。そこで、はたと自分を見下ろす影に気が付く。


 顔を上げた。


 そうして葵さんは、ハルと久しぶりの対面となった。


「よっ、久しぶり」


「……ハル君?」


 ハルは、立派な桜の木の枝にどっかりと座って、葵さんに手を振った。しかし、葵さんは呆れ顔でハルを見上げるばかりだった。


「どうやってきたの?」


「牛車でひとっとび」


「ふぅん。……それで、何の用?」


 葵さんの態度は素っ気ないものだが、ハルは気が付く様子もなく快活に喋り出す。


「わかるだろ?婚約破棄のことだよ。葵から婚約破棄を取り消すよう言ってくれないか?このままだと俺の立場が危ういんだって。最悪家を追い出されて野垂れ死ぬかも……」


「嫌」


 そう言うと、葵さんはプイッと顔を背けてしまった。


 対するハルは、みっともなく逆ギレ。


「おいおい、幼馴染の俺が死んでもいいってのかよ!!」


 死ぬとはまた大げさだな。


 というか、こんな男ならいっそ死んでくれた方が、女の方は幾分か幸せそうではある。


「勝手に死ねば?そもそも、今回の婚約破棄はお父様が決めたこと。私からとやかく言う権限なんてないから」


「お前はそれでいいのかよ。結婚相手を自分で決められないなんて――」


 ハルがそう言いかけると、葵さんはぎろりと睨みを効かせてハルを黙らせた。それから、


「決められないから、何?決められたら幸せなの? 」


 剣呑な表情で捲し立てた。


「そんなことないでしょ。寧ろ、自由恋愛の方がずっと不幸じゃないの?好きな人と絶対に付き合えるわけじゃないし、付き合ってからも大変だし、どれだけ尽くしても浮気とかされるし、三十路になって慌てて相手を探したって、相手にもされないし」


 何時の時代も恋愛というのは大変な気苦労である。私は陰でひっそりと、そう思った。


「親が決めてくれるというなら、それに越したことはないわ。少なくとも私はそう思う。期待しなくていい分、気が楽だもの。ハル君も、ホントは誰だって構わないんでしょ?自分の居場所が守られるなら」


 あら。


 全部バレてる……。


「私だってそう。結婚さえできるなら、あなたと違って家に置いてもらえるし、家の中でならある程度は自由にしてても許されてる。今の時代、家の中でもインターネットがあれば暇つぶしには事欠かないし」


 うーむ。一理ある。ハルも引き籠ってばかりのわりに楽しそうですし。全く、便利すぎる代物というのも、人を堕落させるという点においては、案外厄介なものだ。


「いや、でも……」


 まだ引き下がらないハルに、葵さんはとどめの一撃をぶちかました。


「だいたい、家の事情を抜きにしたって、経済力の欠片もない男と結婚なんて御免よ。

 そもそも、あなたとの婚約自体、史上最年少で陰陽頭おんみょうのかみになれるって謳われたその才能を見込んだお父様が早々に決めたことなんだから。

 当てが外れたから婚約解消、ごく自然な流れでしょ。私だって異論なんかないわよ」


 ハルは、桜の木の上で茫然自失としていた。なんとも絵にならない。こんなに雅な桜の木だというのに。


「そう言うことだから、じゃあね」


「お、おい。ちょっと待てって!!」


 立ち去ってゆく葵さんを追いかけようとしたハルが、そのままの勢いでバランスを崩して、桜の木からすってんどっすんと落っこちた。


「ぐへぇっ!!」


 うめき声を上げるハルに、しかし葵さんは振り返ろうともしない。


 これは、完璧に振られましたね。


 当たり前だけど。









「箸にも棒にも掛からない女だな!!まったく!!」


 木から思いっきり落ちたハルは現在、桜の木の陰から心配そうに見守っていたチョコとコロネに助け起こされて、よろよろと牛車に戻る最中であった。


 もうずっと葵様に文句を垂れている。いい加減反省しろ。


「しっかし、これからどうしたもんか……」


 働けばいいでしょ。


 一応、院生は卒業しているのですから、今すぐにだった陰陽師の仕事に戻れるじゃないですか。仮免だって失効してませんよ。


「いや、それが嫌だから俺はこうして――」


 再びクズ発言を繰り出そうとしていたハルが、はたと止まって、


「――んっ?」


 後方を振り返った。しかし、そこには人気のない庭の芝が広がるのみである。しかし……。


 私もすぐに感じ取りました。


 妙な気配がしましたね。


「なんだ?」


 もしかしたら、私たちの背中にくっついてでも入り込んだかもしれない。


「ヘンな所から入り込んだのがいけなかったかな?」


 真っ暗な夜空を見上げたハルが、独り言ちた。


 やれやれ、私たちのせいだってバレたら、それこそ厄介なことになりますよ。


「うーん」


 ハルは面倒くさそうに唸った後、


「しょうがない。バレる前に祓っとくか……」


 元来た道を引き返したのだった。








 葵が庭を引き返すと、どこから飛んできたのか、正面から八ツが現れた。


「葵様」


「何?」


「何者かが屋敷に侵入した模様です」


 どうやらそれだけ伝えに来たらしい。葵はそっとため息を吐いた。八ツと話すのは正直、気が滅入るのだ。


「ああ、それハルだから。あいつならもう帰ったわよ」


「やはりそうでしたか……。警戒網は解いておきましょう」


 八ツはそう言ってから、おおきな音でぴゅうと口笛を吹いた。すると、屋敷の屋根がにわかにざわついた。おそらく仲間に連絡を入れたのだろう。


「まったく、あの男は性懲りもなく」


 それから、八ツと葵の二人は、庭に隣接する簀子すのこに腰かける。


「どうしようもない奴です!」


 八ツがぷりぷりと怒っていた。


 そう言えば、以前の私も、このようなことを口走っては八ツに愚痴を零していたのを思い出した。葵は思った。彼女は私の言葉を模倣しているのだ。


 八ツとは葵にとって、鏡のような存在である。


 その八ツが怒っている、ということは、それすなわち怒っているのは葵自身なのだ。


 葵は考えた。なぜ私は怒っているのだろう。ハルのことは、もう何とも思っていない。せいぜいが「ウザい」ってくらいだ。なのに、何故……?


 葵は昔のハルと、今のハルを交互に思い浮かべて、あまりの変わりようにがっくりと項垂れた。


「……昔は可愛かったのになぁ」


「年月が人を変えてしまうのです」


 年月が、彼を堕落させてしまった。私はどうだろう。いいや、生まれたことから今の今まで私は何一つとして変わってなどいない。父に飼われるままの、籠の中の鳥。


「変わるのかな?私。それとも、一生このまま?」


「さぁ?私には分かりかねます」


 八ツはきょとんとしていた。まあ、私が分からないことが八ツにわかるわけもないか。


 そんな風に二人、月光を浴びながら雑談に興じていた時であった。ふと、葵は何者かの気配を感じ取って、はたと顔を上げた。


「――えっ?」


 そして、庭にポツンと一人立っている、奇妙な男と目があったのだ。

 

 月の光に照らされて、その陰はくっきりと浮かんでいる。しかし、少し俯いているからか、その顔は影に覆われていてよく見えない。


 だが、勘の鋭い葵にはすぐに分かった。


 人間じゃない。


 身体が、ぶるっと震えた。


「何者だっ!!?」


 八ツがすぐさま、葵を庇う様にして正面に躍り出た。


 男が、顔を上げる。それから、しゃべった。



 O......yatikineakum Nay......tioa



 男の口から、呪言じゅげんが漏れた。


 顔を上げて月に暴かれた男の顔は、眼孔が、ぽっかりと落ちていて、意識が飲み込まれてしまいそうなほど真っ暗闇に染まっていた。


 ――だ。


 にったりと、男が葵を見て笑う。歯には、血の跡や、髪の毛がびっしりと絡まっている。


 ぐおん、ぐおんと。喉の奥から、音がする。


 葵の頭が、真っ白になった。


「葵様っ!!早く屋敷の中に!!」


 八ツが叫んで、葵を後ろに追いやるが、葵は足がすくんで一歩も動けない。


 撤退が叶わないと見た八ツは、すぐさま勇んで祝詞を唱えた。



 Rin Pyo To Sya Kai Jin Retsu Zai Zen 


 

 それから彼女が四縦五横を印を切ると、陰に隠されていた退魔の小太刀が


 ぬらり


 と手元に顕現した。


 小太刀の刀身が月光を捉えて、怪しく光った。


 と思われた次の瞬間、小太刀を持っていた八ツの右腕が、


 ひゅぱぱ


 と、一瞬にして輪切りにスライスされたのだった。


「あ……ぐっ……」


 八ツのうめき声と共に、見事にスライスされた肉片が宙を舞う。その切断は、あまりにも神速であり、まるで輪切りにされた腕が、そのままピタリと宙に浮いているような気さえしたのだった。


 それから、切り口から血潮があふれ出るよりも先に、男が動いた。


 男の頭が、出来の悪い風船のようにブクブクと膨らんで、大きく肥え太った口が、


 バクッ


 っと、八ツの頭に食らいついて、飲み込んだ。


 男の喉の奥で、女性の、ぎゃああぁぁというつんざくような悲鳴と、ごりごりと肉を削り取る音が庭に木霊する。


 その直後、男の口から噴水のような血潮があふれ出たのだった。


 葵は、反射的に身体が逃げ出しそうになって、それから袴につまずいて、腰がすとんと抜け落ちた。


「ひっ、ひっ……」


 必死に手足を動かして後ずさり、何とか屋敷の簀子に手を掛けて這い上がった。


 しかし。


「っ!!?」


 服が、後ろに引っ張られていくのだ。服だけではない、葵の長い髪も、後ろにぐいぐいと引っ張られてゆく。


 男の口から、怪しい風が吹き込んでいた。その風が葵の服や髪にべったりと張り付いて、離さない。


 徐々に、身体が男の口へと吸い込まれていく。


「いや!!誰か……だれか助けて!!」


 葵は叫んだ。


 生来の自尊心の高さから、今の今まで一度だって人に助けを求めて絶叫したことなどなかった。だが、今の葵は恐怖心ゆえに恥も外聞もかなぐり捨てて、力の限り叫んだ。


 しかしながら、必死の声に応えてくれる者は誰一人としていなかった。


「――あっ」


 そうして、葵はあっさりと、男によって飲み込まれてしまったのだった。


「……」


 頭から飲み込まれた葵は、仰向けに男の舌の上を転がっていた。


 ぐおん、ぐおん


 葵は天井を廻る大きな換気扇を見た。男の喉の中で、ぐるぐると回って、八ツをミンチにした、おおきな扇。


 ―――あ


 葵は思い出した。


 私は、前に同じものを見たことがある。


 あれは確か……私がまだ子供だった頃。


 屋敷で、とある事故が起きた。


 屋敷で働いていた下女の一人が、大けがを負ったのだ。


 私はその事故の現場を見ていたから、よく覚えている。


 下女の長い、綺麗な髪が、どういう訳か風にさらわれて、天井の小さな換気扇に吸い込まれ、翅に髪を巻き取られ、


 ぎゃあああああああ


 下女は天井に吸い込まれるように、飛び上がった。換気扇は信じられないほどの力で下女の髪を巻き取ると、髪で下女の身体と吊って、それから下女の頭を丸ごと飲み込んだのだ。


 下女の頭皮がブチブチと引き剥がされ、血がぼたぼたと床に零れ落ちた。


 信じられないほどの絶叫が、屋敷全体に轟いた。


 屋敷の者が集まってきた頃には、下女は気を失って床に倒れ落ちていた。一連の流れを陰から見ていた私は、あまりの恐怖で動けなかった。


 ――血を吸った換気扇は、強力な呪力を宿してしまったらしい。速やかに家の者による除霊が執り行われた。


 生まれて間もない妖怪が、殺されそうになっていた。


 私は、換気扇の翅の破片を、こっそりと外に逃がしてやった。



―――ここから出してあげる。その代わり、約束して。わたしをここから―――



 殺されるのがかわいそうだと思ったし、何でもかんでも父のやることに反抗したかった年頃だったし、何より私にはがあった。


 あの事故が起こったのは、私のせいかも知れなかったのだから。


 だって、あの時、梯子を使って、興味本位のいたずらで換気扇のカバーを外したりなんかしなければ―――。


「私は死ななかったかもしれない」


 はっとした。


 換気扇の奥から、声が聞こえる。いつかの下女。


「あなたがぁぁ、換気扇のぉぉ、蓋をぉぉぉはずさなけりゃぁぁぁぁ」


 違う、あれは、私の声だ。


 ぐおん、ぐおんと、換気扇は回る。


 私の髪の先端が、今まさに換気扇に巻き取られようとしていた。


 信じられないほどの恐怖が全身を襲った。あの日の下女の絶叫が鮮明に蘇る。


「いやぁぁ!!誰かぁぁぁ!!」


 ぐおん、ぐおん、換気扇が廻る。


 誰も助けは来ない。


 男の口が、閉じ始めていた。口から差し込む月の光がどんどん細くなってゆく。


 これも……「呪」なの?


 動きづらい服。


 精進料理。


 大きな屋敷。


 父。


 父の顔が思い浮かんだ。


 私は、そっと目を閉じた。










Rin


Pyō



Sya


Kai


Jin


Retsu


Zai


Zen


Gyō


Ō








 換気扇が廻る中、聞き覚えの或る声が、祝詞を唱えるのを耳にした。


 その直後、



 轟音と共に、暗い換気扇の中を、月の光が差し込んで燦然と照らした。


 大きな扇が開いて、換気扇の男の口をこじ開けたのだ。



 きゅう(急)急如律令きゅうにょりつりょう


 速やかに律令の如く従いたまへ。


 破邪の鉄扇よ、ここに顕現せよ



「ハル君っ!!?」


「葵っ!!助けに来たぞっ!!」


 私の手を、ハル君が掴んだ。


 それから、彼は私の身体を力強く引っ張り上げた。



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