第4話
【サメ出現まであと五か月】
昼過ぎ、モジャ子がウチにやってきた。珍しく髪を結って白い首元が見える。服は地味だけど、晴天みたいなターコイズブルーの丸襟シャツと無難なストレートのチノパンを着ていた。大きな鞄は彼女の上半身くらいあって、中身は宿泊用品よりサメ映画関連がほとんどなのだろう。久しぶりに会えたのと、制服じゃない姿が少し眩しくて、一瞬だけドキッとした。
「いらっしゃい」
出迎えに行くと、彼女はひどく緊張していた。
「こ、こんな高級マンションの最上階に住んでるって、めちゃくちゃお金持ちじゃないですか! ロビーとか一流ホテルみたいで地面の絨毯フカフカでビビりましたよ……」
「そう? マンションって一軒家買えない人が仕方なく住むもんじゃないの? 管理費は無駄に高いし、災害で停電したら水道止まるし、エレベーターが使えないと階段使って何時間も歩かなきゃいけないから不便だよ」
「そういうの、外であんまり言わないほうがいいですからね! 炎上しますからね!」
とは言えセキュリティが厳重なのと全ての住民に入居審査があるおかげで治安を買っているようなものだった。母はそういうところにお金をケチらない。
「それにしても制服じゃない白雪さんも、お美しいですね。シンプルで飾ってないのに、素材の良さが際立っているというか」
「わたしはヘルシー料理か」
「よだれが垂れそうです」
伸びきってヨレヨレになったTシャツと、ゆったりしたガウチョパンツは機能性だけで選んだ部屋着である。外見は褒められたものではない。
「暑かったでしょ。ちょっとテキトーにかけて休んでて」
「ふええ、リビングがウチの四倍くらいある……!」
モジャ子はソファに座るのをためらっているのか、ギリギリ触れないところで腰を浮かしていた。用意したアイスコーヒーをこっそりと首に当ててみる。
「ひゃあっ!」
彼女は驚いて尻餅をついた。
「ちょっとはリラックスしてよ。はい、コーヒーで良かった?」
「ありがたい限りです。いただきやす」
もの珍し気に室内をキョロキョロと見回している。一応、綺麗に掃除したつもりなんだが、何か気になるのだろうか。
「ウチってなんか変?」
「変じゃないですよ! ただ、人生別格ステージの暮らし過ぎて。生ハム原木とか初めて見ました」
「母の趣味なだけだよ。わたしはもっとコンパクトで、地面に近いところがいい」
「良い趣味ですよ。テレビもすごく大きいし、ブルーレイも持ってきて良かったです。これならサメ映画の魅力マシマシですね!」
とりあえず今日はジョーズ・シリーズを履修した後に、近年のサメ映画を見れるだけ見るという予定だった。モジャ子が並べたパッケージを確認すると、ナチスのゾンビが空飛ぶサメ兵器を操縦するというあらすじなどなどが目に入り、頭痛が痛くなってきた。あ、真面目な海洋生物のドキュメンタリーもあるのでそれは癒されそうだ。
「じゃあ最初は往年の名作・ジョーズから行きましょうか!」
……ジョーズの1は面白く楽しめたものの、2のクオリティの落差に驚愕していたら3でさらに深手を負った。外はもう日が暮れ始めていることに気付く。きっと4はまた面白くなることに期待して、少し夕食を挟むとしよう。
「モジャ子さ、先にお風呂使ってよ。わたしは夕飯の準備済ませてから入るから」
「ええ! そんな、悪いですよ。私臭いですし……」
「いいから。ゲストなんだから気を遣わないで」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
モジャ子を浴室まで案内すると、わたしは食材の下ごしらえを少しだけ進めた。後は火にかける程度まで済ませると、わたしも着替えを持って脱衣所に行き、全裸になって浴室の扉を開けた。
「入るよ」
「――えっ! 白雪さんんんんんんんちょっとちょっと何なんですかああ?」
モジャ子はすでに湯船に浸かっていたが、わたしの入室に驚いたのかさらに身体を沈めていた。水飛沫が跳ねてわたしにかかる。
「わたしも身体洗いたいんだけど」
「私、入ってますけど」
「え? 友達同士って一緒にお風呂入るもんじゃないの?」
「そ、そうかもしれないですけど……。全然心の準備があばばあばばばば」
モジャ子はもう水面ギリギリに鼻から上だけ出している状態で、喋るたびに泡がブクブクしていた。
「私のだらしない体形で、白雪さんのお目を汚してはなりませんですよ」
湯気と水面の反射でよくは見えなかったが、悪目立ちする部分は何もなかった。
「そう? 綺麗じゃない」
「ブガゲフォッ! 綺麗って言うのは、白雪さんみたく完璧なくびれがある人のことを言うんです! 本当に胃腸詰まってるんですか?」
眼鏡を外しているクセによく見てるものである。
「うんこもおならも出るから消化器官に異常はないはず」
「ぎゃあー! 美人がそんな下品な単語を口にしないでください!」
「ごめんって。嫌がらせするつもりはなかったの。そうだね、人の身体を勝手に見るもんじゃないね。でも、とりあえず入っちゃったから、シャワーだけでも手早く済ませていい?」
「いやいや、私が出ますって!」
「いいよ、ゆっくりしてて」
慌てて出ようとするモジャ子の手首を思わず掴んだ。そういえば互いの肌に触れるのってこれが初めてで、緊張したのか二人とも静止してしまった。こう向き合ってしまうと、人の身体を勝手にジロジロ見てしまう。
彼女の身体はやっぱり小さくて、ちょっと肉付きが良くて、全体的に丸々していた。赤ちゃんみたいなツルツルしたお腹がすごく愛らしい。そして特筆すべきが胸だった。たぶん平均的サイズであろうわたしのソレよりも一回りも二回りも大きくて、垂れることなく張りのある素敵な形をしていた。身長にならなかった栄養がそこに集中したのか、豊かな乳である。同性ながら、普段猫背の彼女から隠されていたギャップとその迫力に、唾を飲み込んだ。……これでは憎き変態たちと同じ思考じゃないか! 冷静になろうと西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の冒頭文章を思い出そうとしたが無理だった。
何秒沈黙していたのかわからない。同じタイミングで互いに顔を上げて、見つめ合った。目と、目が、合う。彼女の大きな瞳に写り込む自分は、なんて情けない顔をしていただろう。言葉がうまく出てこない。もどかしくて、声が掠れる。
「あ、あの――」
「もしも私が絵描きなら、あなたをキャンバスに閉じ込めたい。私が映画監督なら、あなたをフィルムに焼き付けたい。歴史家だったら、石板に刻んで千年後まで残したい。宇宙飛行士だったら、電波に乗せて何億光年先まで届けたい。この世界には、どんな希望よりも美しい女神がいたってこと」
「……何を、言っているの?」
「……何を、言ってるんでしょうね? あはははは、ちょっと、もう、キャパオーバーでしゅ」
モジャ子は
――のぼせたのか!
「ちょっと、大丈夫?」
急いで引き上げて身体を拭いた。緊急事態なので裸を見たり触ったりしてしまうのは仕方ない。緊急事態だから仕方ないネ! 複雑な気持ちのまま彼女に服を着せた。
リビングの冷房を効かせ、とりあえずソファーにモジャ子を寝かせた。濡れたタオルで頭と足元を少しずつ冷やしていく。
「……ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
「とりあえず水いっぱい飲んで。食欲ある?」
「お腹空きました。すみません、ご飯まで用意してもらって。お金は後で払います」
「いいよ、どうせ余っている食材使っただけだし。嫌いなものとかない?」
「なんでも食べますよ。ちなみに何作ったんですか?」
「フカヒレのスープと、モウカザメのムニエルと、キャビアとサメ軟骨の冷製パスタ」
「……白雪さんって、水族館の後にお寿司食べに行けそうですね」
モジャ子は美味しそうにわたしの手料理をモリモリと食べてくれて嬉しかった。いつも自分一人のためだったら最低限で済ませるけど、こうやって誰かのお腹を満たせるのには幸せを感じた。
その後もサメ映画を見続けて、モジャ子の気分はすっかり良くなっていった。わたしはさっき食べた食事がお腹の中で暴れている気がして不安になってきた。そういうサメ映画もありえそうで、さらに不安になってきた。
「白雪さんは、なんでサメ映画好きじゃないのに、こんなに付き合ってくれるんですか?」
「……なんか、サメたちが羨ましいのかも。何も気にせず、好き勝手荒らすだけ荒らして。生まれ変わったらサメになって嫌いだった奴ら食い殺してやる」
「転生したらサメだった、で一本書けそうですね」
「やめてよ」
「でも、そういう気持ちわかります。私、小学校も中学校もいじめられてたから。ブスで不器用で周りに迷惑かけてばかりな自分が全部悪いんですけど、死にたくなるような気持ちと同じくらい、みんな死んじゃえって思ったこともあって。初めてサメ映画見たとき、私は号泣したんですよ。わけわかんないですけど、何か救われたんです」
「……死んじゃ、ダメだよ」
「死にませんよ。今、未来のこと考えるのがけっこう楽しいんで」
日付も変わってすっかり深夜になっていた。路線変更で見始めた海洋ドキュメンタリーはサメよりシャチの恐ろしさを生々しく伝えている。モジャ子は興味がないのか、疲れたのか、船を漕ぎ始めていた。
「もう寝ようか。寝室行こ」
「はい……」
モジャ子をわたしの自室に案内すると、壁のポスターを見てちょっとだけ目を覚ましたみたいだ。
「わあ、魔法少女キュアキュアだ。懐かしいです。私も小さい頃ずっと見てました」
「わたしは今も見てるよ。心の師匠なの」
「……なんか、今日は白雪さんの色んなとこ知れて嬉しいです。学校一番の美少女なのに誰とも喋らないからミステリアスすぎて、逆にさらに人気が高まり高嶺の花みたいな存在が、ちゃんと等身大の女の子してるなんて。意外だったけど、もっと、好きになりました」
「寝惚けてるね。ほら、ベッド使って」
「ダメですよ! 白雪さんのベッド、私のせいで臭くなっちゃう。床でいいですから」
「何言ってんのさ」
ちょっと無理矢理だけど、モジャ子を押し倒した。わたしも隣に寝転がる。
「あの、ちなみに白雪さんはどこで寝るんですか?」
「え? 友達同士は一緒の布団で寝るんじゃないの? 少女漫画にはそう書いてあったけけど」
「……白雪さんの情報源、もしかして過激派少女漫画しかないんですか?」
「今日のために頑張って勉強したんだから」
「急接近すぎて心臓が持ちませんよ。ちょっと、むこう向いて寝ます」
「えー」
彼女の後頭部と背中が、いつになく自分の近くにある。さっき見たお風呂でのアレコレを思い返してしまい、非常にふわふわした気持ちになってきた。
「ちょっと、ごめん」
小声で告げた。彼女の腰に手を伸ばして、軽く抱きしめた。ピクリと彼女の身体が強張ったけど、抵抗される気配はなかった。背中に鼻先を当ててみる。臭くなんてない。むしろ、陽だまりのような温もりと甘い匂いにセラピー効果がある気がした。つまり、最高の抱き心地だった。勢いで胸もちょっとだけ触ってみてもいいものか悩みに悩んだが、その前に理性と眠気が勝ってしまった。
「おはようございます」
「んあ、おはよ……」
翌日、わたしが目覚めたのは昼近くだった。こんなにぐっすりと安眠できたのは初めての経験だった。
「ごめん、寝過ぎた。モジャ子、寝れた?」
「いやもうスヤスヤでしたよ」
ぎこちなく笑う彼女の眼の下にはクマがはっきり出ていた。このベッドはモジャ子に合わなかったみたいで申し訳ない。
軽食を済ませると、モジャ子は何度もお礼を告げて帰っていった。
それから夏休みは二人で会うことはなかったけど、新学期の始業式が終われば当たり前のように部室で再会した。いつものようにサメ映画鑑賞が始める。わたしは、ちょっとだけ勇気を出して、無言で彼女を後ろからハグした。緊張してモジャ子の背中が固くなるのがわかったけど、そのうち彼女も無言でわたしの胸に身体を少し預けてきた。
下校までの、サメ映画が終わるまでの、至福のひとときだった。
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