失われた光
忘れもしない。その日は雨だった。いつものように夜会へ行くラグナーを送り届けた後、フレムはノーランが作り置きした夕食を食べ、翌々日に使う宝飾品の仕上げをしていた。
夜が更けた頃、「そろそろ帰って来るかな」とフレムが思っていると玄関の扉が開く音がして「フレムさん!」とノーランが叫ぶ声が聞こえた。
「どうした?」
普段とは違う、異常な雰囲気を感じたフレムは作業部屋から玄関へ駆けつける。そこで見たのは青い顔をしたラグナーを支えるノーランの姿だった。
小柄のノーランに代わりフレムがラグナーを抱きかかえて寝室へ向かう。
「ボク、お医者様を呼んできます!」
訳も分からぬうちにノーランはそう言い残して外へ駆けだした。
「おい、何があったんだ?」
とりあえずラグナーを寝室へ連れて行き、外套を脱がせてベッドに座らせる。ラグナーは手探りでフレムを探し当てると服の裾を掴んで一言、
「目がおかしい」
と呟いた。
「目が……?」
不穏な言葉に緊張感が走る。ラグナーをよく観察してみると、目の視点が定まっていないように見える。フレムの居る場所を手探りで確認し、声のする方を見ようとしてはいるものの、フレムと目が合う事は無い。
「目が見えないのか?」
ベッドの脇に膝をつき、裾を掴んだ手を握り返して目線を合わせる。
「……」
ラグナーからの返事は無い。だが、微かに震える手がその答えを示していた。
しばらくして息を切らしたノーランが医者を連れて戻って来た。近所に住む医者を叩き起こして連れて来たようだ。着の身着のままでやってきた医者はラグナーを見ると顔をしかめた。
光を当てたり目の前で物を動かして反応を見たりしたあと、医者は黙って首を振る。
「どうしてこんなことに? 何か心当たりは無いのですか?」
困惑する医者にノーランは酷く取り乱した様子で「分かりません。分かりません」と繰り返した。
「いつも通り夜会に行って、皆様とお話をされていて……。そうしたら急にご主人様の様子がおかしくなって、すぐに体調が悪いからと理由を付けてお暇したのです」
「急に? その直前に何か変わった事は?」
「……酒だ。酒を飲んだ」
動揺するノーランの代わりにラグナーが答える。
「使用人に酒を勧められて飲んだ。いくつかあるうちの一つだ。そうしたら喉が焼けるような感覚がして、しばらくしたら目に異常を感じたのだ」
「毒を盛られたって事か?」
「……分かりません。飲んだ飲み物が残っていれば良いのですが」
「それなら、ご主人様の服に!」
ノーランはラグナーが着ていたズボンの裾を指した。
「グラスを落として割った際に、裾に飲み物がかかったはずです」
「……なるほど」
医者は暫く考えた後、自分の手には負えないから信頼できる医者にかかった方が良いと告げた。それは建前で、「関わりたくない」というのが本音だろう。
病ならまだしも毒を盛られたとなれば、その厄災が自分の身にも降りかかる可能性があるからだ。
ノーランは医者に金が詰まった袋を手渡すと口外しないよう言い含めて頭を下げた。
「分かっていますよ。どうか気を落とさずに」
医者は気の毒そうにノーランの肩を叩くと裏口から帰って行った。
「ご主人様、本宅へ移動しましょう」
医者を見送ったノーランはラグナーへ郊外の本宅へ移動するよう進言した。
「ここに医者が出入りしているのを見られるのはまずいです。特に目を患った事が知られれば大変な騒ぎになります。本宅の近くには奥様がお世話になっていたお医者様もいらっしゃいますし、父も力を貸してくれるでしょう」
「……そうだな」
「他に目が見えないと知っているやつは?」
「幸い喉に異常をきたしてすぐに退出したので、目が見えない事まで知っている人はいないはずです。目に異常が出たのは馬車に乗ってからですから」
「じゃあ今すぐにでも移動した方が良いな。人気が無い今のうちに」
「そうですね。ボク、馬車を手配してきます」
ノーランが馬車を呼んでいるうちにフレムは最低限の必需品をトランクに纏める。証拠品であるノーランの衣類は乾燥しないよう気密性の高い袋に詰めてトランクの一番奥にしまった。
フレムが準備をしている間、ラグナーは一言も言葉を発することなく黙りこくっていた。
(商売道具である目がやられたんだ。ショックだよな……)
ラグナーの商売は目が命だ。目が見えないというのはラグナーにとって何よりも恐ろしい事に違いない。
「……治さなくては」
ぽつり、とそう呟く声が聞こえた。
「早く治さなくては。まだ鑑別が終わっていない石が沢山あるのだ。早く治さなくては期日までに間に合わない……」
俯いたまま小さな声でぶつぶつと呟く声が聞こえる。その異様な光景にフレムは言葉を失った。ラグナーの口から出ていたのは目を失った事を悲観する嘆きではなく、仕事が終わらない事に対する苛立ちだったからである。
「……お前、こんな時まで仕事の事を考えてるのか?」
「……」
ラグナーにとって「誰に毒を盛られたか」とか「目が直るかどうか」などどうでもよかった。居間のソファーの横に積み上げられた原石の袋、それを鑑別できなければ店の在庫を補充出来ないし、客から預かった石を鑑別出来なければ信用を失いかねない。
(今まで先祖代々積み上げてきた物をこんな下らん事で崩す訳には行かない……)
気付かずに毒を飲んでしまった己の間抜けさに反吐が出る。
気を付けていない訳ではなかった。商売をしていれば誰から恨みを買っているか分からない。故に、今まではノーランに毒見をさせていた。
しかし今回はたまたま、いや、油断をしていたのだ。今まで一度もそういう事が無かった故に、ノーランが飲む前に酒を手に取り口を付けてしまった。
その一回が「当たり」だった。
(ノーランを責めるつもりはない。気が緩んでいた。私の自業自得だ)
毒を盛った犯人など今はどうでもいいし、ノーランを責めようとも思わない。ラグナーはただただ自分の浅はかさと、仕事に穴を開けてしまうかもしれないという事実に絶望していた。
「馬車を呼んできました~。今裏口に着けて頂いてます!」
馬車を調達したノーランが戻って来た。ベッドに腰を掛けたまま俯くラグナーを見て落ち込んでいるのだと思ったノーランはラグナーに駆け寄ると跪いて顔を覗き込む。
「ご主人様……大丈夫ですか?」
「……」
「本宅へ行ってお医者様に診て貰いましょう。さあ」
ノーランはラグナーの手を取るとゆっくりと玄関へ誘導した。
「荷物は後ろに積んでおくぜ」
「お願いします」
荷物を下へ運び馬車に積み込む。ラグナーを馬車に乗せるとノーランははフレムに手紙を渡して「これを父に渡してください」と言った。
「俺が付き添いで良いのか?」
「ボクは店の方をなんとかしないといけないので後から合流します。フレムさんが一緒ならご主人様も心強いでしょうし、手紙を渡せば父もすぐに動いてくれるはずです」
「分かった」
ラグナーが不在でも店は時間通りに開けなくてはならない。普段から店の経営は従業員に任せているので、在庫があるうちはラグナーが居なくても何とかなる。ただ、お客様からの預かりでの鑑別依頼は断らなければならないので、そこをどうするか信頼のおける従業員と話し合うのだそうだ。
「落ち着いたらすぐ向かいますので」
「ああ。ノーランもあまり無理をするなよ」
「……ありがとうございます」
ノーランは不安を振り払うかのようにぎこちない笑顔を浮かべた。心配をかけまいと気丈に振舞う様子が痛々しい。
ガタン、と音がして馬車が走り始める。通りの角を曲がって馬車の姿が見えなくなるまで、ノーランは主人が乗った馬車を見送り続けた。
「……ボクがなんとかしなきゃ」
ラグナーが毒を盛られた事に一番ショックを受けているのはノーランだ。もしもいつも通り毒見をしていたらラグナーが目を失う事は無かった。気を抜くと後悔の波に押しつぶされそうになる。
だが、嘆いている暇はない。両手でぺちんと頬を叩いて気合を入れる。
ラグナーが居ない今、店を守れるのは自分だけなのだと言い聞かせ、やるべきことをやるために店の中へと戻って行った。
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