10.闇を撒く者
あの夜――倒れちゃった先生を救急車に乗せた後、拾っておいた銃をあどみちゃんに預けた。
そして、夜の町に一人になってしまった。
結局先生がなにを隠しているのかはわからなかったし、あどみちゃんに訊いても教えてはもらえなかった。あの子も知らないのかもしれない。
反界に行ってみたら、悪魔が結構増えているのは感覚できた。
でも、わたしに出来るのは悪魔を殴り倒すだけ。先生みたいにトドメを刺すことが出来ない。
もう夜も遅いし、わたしは家に帰ることにした。
先生からもらったタクシー代は余っていたけど、なんとなく歩きたかった。最寄り駅まで歩いて十分。携帯を開くと、誰からもメッセージは来ていない。
だから、ヤシロちゃんに電話をかけることにした。夜だったけど、すぐに出てくれた。
『ルリちゃん、どうかした?』
「うーん。なんか、声聞きたくて」
『え? な、なんか照れるね……なにかあったの? 先生と喧嘩したとか?』
「なんでわかるの! いや、喧嘩って程のことじゃ……いや、なんでわかったの⁉」
『二回言ったね。まあ、ルリちゃんが悩みそうなことっていったらそれくらいかなって』
「そんな単純なオンナじゃないやい! 他にも悩みあるもん」
『どんな悩み?』
「うーん。もっと強くなりたい! とか」
『たしかに単純なオンナじゃないね』
ヤシロちゃんと話しているとやっぱり落ち着く。この勢いで、先生のことも話してしまおうか。でも悪魔や闇祓いのことで他人を……いや、友達を巻き込むのはダメだ。
「……肝心なことは言えないけど、聞いてほしいんだ」
『うん、聞かせて』
どう伝えればヤシロちゃんを巻き込まずに済むか考えながら、わたしはしどろもどろに喋り続けた。
愚痴とか恋バナとか色んな方向に脱線しながら、結局のところは先生がわたしを頼ってくれない、という所に落ち着いた。
すると、ヤシロちゃんは珍しく、真面目な重たい調子で喋り始めた。
『大人は勝手だよね、子供は巻き込めないとか言って遠ざけて。あげく勝手に居なくなったりして』
「ヤシロちゃん……?」
『だからさ、やっちゃいなよ』
「やるって、なにを?」
『肝心なことは言えないんじゃないの?』
「あ、そうだった」
ちょっぴり困惑しているわたしが居た。
もしかすると、ヤシロちゃんにも似たようなことがあったのかもしれない。
『私たちもやるんだよ。そうして、私たちだってやれるってことを大人に見せてやるんだよ。ちゃんと隣で戦えるんだぞってこと』
ひとしきり喋ると、ヤシロちゃんは黙り込んでしまった。
『……って、なんか変なこと言っちゃった。ごめん、忘れて』
「ううん、めっちゃ元気もらった! すごいねヤシロちゃん、わたしのことお見通しみたい!」
『そうかなあ。まあ、その、親友? だからかな』
「親友! ヤシロちゃん初めて言ってくれた!」
『ずっと思ってたよ、親友だって』
それからもう少しだけ喋って、また明日ねって電話を切った。
ぽかぽかの気持ち。それは夜眠って、朝起きるまで続いた。やる。とにかくやる。あどみちゃんに訊いて、自分でもやれることを見つけて先生のために頑張る!
スッキリした目覚めだった。あどみちゃんにもヤシロちゃんにも会いたいし、早く学校に行きたくてたまらない! サッと朝ごはんを済ませて、ビュンと最寄り駅を目指して走る。
「お、ルリちゃんや」
元気な声が私を呼んだ。走る勢いを殺すために地面を擦りながら、足を止めて振り向く。
「探したで。ウチのこと覚えとる?」
ラフな格好の、糸みたいに細い目をした女の人だった。
たしか……先生とのらぶらぶデートの日に一番最後に現れた邪魔な人だ。でも先生の先輩らしいから、たぶんいい人なんだろう。
「覚えてます!」
「じゃあ名前覚えてる?」
「覚えてません!」
「素直でよろしい、好きやでそういう子」
お姉さんはわたしのそばにやって来て、頭にぽんと手を置いた。
「綿抜黒子や。単刀直入に言うで。キミの大好きな先生を助けるいい方法があんねん」
⇔
矢白さんの問いに、私は正直に答えることにした。
「知らない。メッセージを送ったりもしたけど、返事もないの」
「そっか。ここならもしや、と思うたんやけどな」
矢白さんはため息を吐きながら、悩ましげに上方を見つめている。
なにか訊くべきと考えていたが、先んじてあどみが声を発した。
「羽鳥さん。先生はルリちゃん派ですから、頼るべきではないと言ったではないですか」
ルリ派? こいつはなにを言っている?
「藁にもすがるっちゅうやつや。見つからへんなら、知ってそうな人を当たるっきゃないやろ」
「待って。矢白さん、あどみ……なんの話をしてるの?」
あどみはいつも通りの無表情。矢白さんは、不満げに目を細めてこちらを射すくめる。
「先生、庇ってるならやめとき。どないに優しくても、かわいくても、あれは本物の悪魔や」
それだけ言い残すと、矢白さんは指導室の前を立ち去った。
「待って!」
追いかけて廊下に出ると、日本刀を抜き放っている矢白さんがそこに居た。
斬られる──かと思えば、その刀は空を縦に斬った。そして、斬られた空間に切れ目が生まれた。
矢白さんは日本刀を鞘に納めると、スクールバッグに刀を突っ込んだ。
長さからして確実に納まり切らない筈なのに、刀はするするとバッグに吸い込まれていく。プロの闇祓いは質量保存の法則まで無視出来るのか。
そのスクールバッグには、ルリとお揃いのストラップがぶら下げられていた。
「ほな先生、さいなら」
矢白さんは先程作った切れ目に入ると、そのまま姿を消してしまった。
切れ目があった位置に移動してみるも、なにも見当たらない。
「矢白さんは空間を斬って入口を作り、どこからでも反界に入れるんです。繊細な技術を要するので先生には出来ません」
いつのまにか隣にあどみが現れていた。
「……あどみ。矢白さんがどうしてルリを追ってるのか、知ってるよね?」
あどみは押し黙ったまま、なにも答えない。
「今から憶測で喋るから、合ってたら黙ったままでいて。違ったらちゃんと抗議しなさい」
今すぐにでも暴れたがるこの身を抑えながら、私は言葉を絞り出した。
「矢白さんに、ルリがお姉さんの仇だって伝えただろ」
五秒待った。あどみは黙ったままだった。
あどみの腹に蹴りを叩き込んだ。
彼女は避けることなく直撃を受け、廊下の壁に衝突してへたり込んだ。まるで子供そのものだった。
あどみが持っていた携帯端末が、飛ばされた拍子でその場に転がっていた。
「もうてめえをガキだと思うのはやめた」
私は動かないあどみの胸ぐらを掴んで引き上げる。セーラー服が汚れていたが、表情は変わらない無表情だった。
「ウソをついたな」
「はい」
「これから殺す友達とお揃いのストラップを、捨てねえような子に」
「はい」
「全部わかってやってんのか」
「矢白さんはプロです。姉の仇討ちを求めてしまうのは年相応ですが、そのためになら非情にだってなれる方です」
「だから、友達のルリを殺せると?」
「殺せます。破裂を防ぐためです」
「仇がルリじゃないって知ったら、あの子は壊れるぞ!」
「この街が壊れるか、一人の闇祓いが壊れる可能性か。天秤にかければわかることです」
「理屈でわかりゃいいって話じゃ……!」
「そうしないとたくさん死ぬんです。あなたの生徒たちだって」
「言われなくてもわかってんだよ!」
持ち上げていたあどみを壁に叩きつけてしまいそうになったが、踏みとどまった。
こんなんでも、子供の見た目をしているのだ。やっぱり傷つけるのは忍びないし、状況はなにもかもお先真っ暗。ルリも見つからず、自分になにが出来るのかわからない。
「わかってても、あどみみたいには出来ないんだよ……」
冷静に考えれば、あどみが正しいのはわかっている。すべての情動を切り捨てるほどの冷たさでもって考えるなら。
だとしても、その正しさが許せない。
私はあどみをその場に降ろし、携帯端末を拾い上げた。持ち上げただけで点く設定らしく、割れたディスプレイにロック画面が表れた。
その壁紙を見て、私は間抜けな声を上げてしまった。
「ねえ。この、あどみと写ってる人。誰?」
あどみの顔を左手でつまんで変顔を作り、もう一方の手でスマホを握っているらしいセルフィーでのツーショット。
くせのある長い髪と、見えているのか不安になるほど細い目。
「ああ、見られてしまいましたか。……黒子です。前任の、羽鳥黒子。あなたに似て、優しい人でしたね。闇祓いには不向きでした」
わけがわからず、頭を抱えた。その様子を見て取ったあどみが「どうかしましたか?」と問いかけて来る。どう伝えるべきか、言葉を紡ぐのに時間を要した。
「えっと……その黒子、生きてるよ」
「ありえません」
いつも以上に強く、きっぱりとあどみは告げた。
「黒子はあどみの目の前で殺されました。息を引き取るその瞬間まで目撃し、記憶しています」
「遺体は?」
「悪魔が持ち去りました」
「……あどみ。私が闇祓いになってから、学区に入った闇祓いは?」
「羽鳥さんだけです」
「黒子さんに化けてる奴が居る」
「変化の能力を持つ悪魔は事例があります。遺体を元に化けたとなれば、相当精巧な変化が出来るでしょう」
なにがどうなっているのか頭の中でゴチャついてきたが、一つ明確になったことがある。
私が追うべきは、黒子さん──綿抜黒子だ。
「先生、もう手遅れですよ」
駆け出そうとした私をあどみが呼び止めた。
「それを決めるのはあんたじゃない」
いつになく表情を沈ませるあどみを置いて走る。
あんな顔の子供を放置するのは忍びないが、アレは子供なんかじゃないと自分に言い聞かせて反界を後にした。
生徒指導室を出て黒子に電話をかけるが、やはりと言うべきか出なかった。
如何にも怪しい黒子を追いたい所だけれど、ルリを狙っている矢白さんも気がかりだ。
どうするべきかと思案していると、見知った生徒がばたばたと廊下を駆けて来た。どうやら私を探していたらしい。
「先生、天宮探してるって言ってたよな」
「ええ。もしかして居場所わかった?」
「それが……ヤクザの事務所辺りで、ヤバそうな奴らと会ってるの見たって。今日サボってた奴から聞いてよ」
「は?」
彼からその仔細な場所を聞き、急いでタクシーを呼んだ。未だ混乱状態にある学校を捨て置くわけにもいかないが、今はそれどころの話じゃないのだ。
矢白。黒子。そして、ルリ。
「っ~~~~~あああああああもう! 次から次へとなんだってんだよ!」
乗り込んだタクシーの車中でいきなり声を上げてしまったので、運転手さんがビクリと肩を震わせて車が左右に揺れた。
バックミラーを通して、私と運転手さんの視線が重なる。
「……あの、煙草吸ってもいいですか?」
「いえ、禁煙なので……」
「ですよね」
ヤバいニコチン中毒女になることでこの場を納めた。いや、ヤバい女であることに変わりはないのでは?
ともかく、早鐘を打つ心臓を押さえつけるために呼吸を整え、目的地への到着を待った。
なによりまず、ルリを保護する。それが事態の真相と安全を同時に掴むための最短ルートだ。
今すぐにでも走り出したかった。待つことしか出来ない自分を不甲斐なく思いながら、流れていく景色を見守った。見知った大通り、ルリと一緒に歩いたこともある道。このまま進み続けたら、ルリの家の最寄り駅に着きそうだ。
その時、並んで歩くルリと黒子の姿が、景色と共に流れていった。
⇔
「──ってなわけでな、闇祓いにもあくどい奴がぎょーさんおるっちゅうわけや」
黒子さんの話を聞いていると、せっかく頼んだ紅茶も味気なく感じてしまう。
この世界はわたしの知らないことでいっぱいだった。それも、ひどいことで。
駅前で黒子さんに声をかけられたわたしは、近くの喫茶店に入って話すことにした。
黒子さんが「好きに頼んでええよ。ウチは自然派やからこういうとこじゃ飲み食いせえへんのや」と言ってくれたけど、わたしはアイスティーを頼んだだけだった。緊張していて、なにか食べれる気がしなかった。
このお姉さんは怪しい。スタイルが良くてかっこいいけど、どこを見てるかわからない細い目とか、いつもテンション高めな感じとか。関西弁すらちょっと怪しく聞こえるから不思議だ。
お父ちゃんの虎の巻を思い出す。
曰く……知らない人について行くのはもちろんダメだけど、知ってる人についてく時も一度立ち止まって考えようね。
でも、この人は先生の先輩で、先生はこの人のことを信頼しているみたいだった。
それなら、わたしが信じない理由はない。
「そこで、ルリちゃんに協力してもらいたいことが」
「あの、黒子さんは一緒に戦ってくれないんですか」
時々疑問に思ってた。闇祓いはたくさん居るはずなのに、どうして先生だけが戦ってるんだろう。もっとこの街のために戦ってくれる人がいてもいいのに。
「いたちごっこやねん。駆逐しても駆逐しても、結局根っこを排除せんと悪魔はほいほい増える。ウチが入り込んでも変わらんし、意味がない」
「それじゃ、先生のやってることが意味ないみたいじゃん!」
「そうは言うとらん。先生がやってるのは平和を維持するための戦い。そんで、その先生の戦いをより意味あるものに出来るのが、キミや」
黒子さんの細長い指がわたしを指した。わたし? わたしなんかに、なにが出来るの?
「キミは人と悪魔のハーフで、反界におらんでも悪魔の力を引き出せる。奇跡の存在や。その力で、現実に蔓延る悪いやつらをぶっ飛ばす。
すごい作戦だ。そう感じながら、わたしはピリッとした違和感を覚えていた。
──あれっ。わたし、この人に悪魔と人間のハーフだってこと言ったっけ?
誰かを巻き込まないために、自分の出自は絶対に明かさない。先生にだけ打ち明けることが出来たわたしの秘密。知らない人に言うわけないのに。
でも、わたしバカだから。今日もどこかで言ってたのかもしれない。
それに、この人は先生と同じ闇祓いなんだ。先輩になら、パートナーの秘密を話しちゃうことなんてあるかもしれない。
──言ってほしくなかったな。
モヤモヤし始める心を押さえつけるためにアイスティーを啜った。
冷たいばっかりで、氷も溶けててもう薄い。先生にはおすすめ出来ないな。煙草の吸いすぎで細かい味の違いはわかんないみたいだけど。
「これ見てみ」
黒子さんがスマホの画面を見せてくる。わたしのよく知る校舎を背景に、たくさんの生徒たちが殴り合っている。
「今水乱高校は荒れ始めとる。学校中巻き込んだ大抗争になるのも時間の問題や。それに、街は街で事件事故が起きまくり。もう反界が悪魔の大量発生に耐えられなくなって、行き場のない負の念が漏れ出し始めとる。その負の念がまた街をおかしくして、悪魔が増えて……もうそろそろ、この街もパーンといってまうな」
破裂についてはあどみちゃんから聞いていた。この街が大変なことになる。事故や災害、色んな形で訪れる悲劇──でも、止められるもの。
「先生は倒れた。手当たり次第に悪魔を倒しても間に合わん。このままじゃ、キミの街が、キミの知ってる人たちがもっとひどい目に遭う。そんなら、根っこを叩けばええ。合理的やろ?」
「……うん」
わたしはアイスティーを飲み干して、カップを片付けてからテーブルに戻った。
「どこで、なにをすればいいの」
「そう来なくっちゃ。話がわかる子は好きやで」
黒子さんは席を立ち「ごちそうさ~ん」と店を後にした。なにも飲み食いしてないのに。
ゆったりとした足取りで進む黒子さんについて街を歩く。今にも街が大変になるかもってところなのに、黒子さんはいつだって落ち着いていた。こっちは走り出したいくらいなのに。
「この街のニュース、ルリちゃんは調べたりしとる?」
「ううん。新しいお店の情報とかは調べるけど」
「今どきの子やね。あんな、ここはそろそろヤクザの戦場になんねん」
ヤクザ。わたしにとっては、学校の先輩がお付き合いしてる男の人ぐらいの距離感のもので、あとは漫画の奥に居る人達としか思えないものだ。
「戦争は世界に悪い影響しか起こさんから、悪魔がぎょーさん生まれる。それは紛争とか、喧嘩とか、どんなレベルでもおんなじ。そん中でも、ヤクザの抗争は街にまで影響が出る。悪魔も生まれやすくなるわけやな」
「……昔はさ、もっと抗争があったりしたんだよね? そしたらもっと悪魔が出て、大変だったんじゃないのかな」
「だから、今の世の中は便利で暮らしやすくなっとる。世が栄えて、ウチらの先輩闇祓いもめっちゃがんばったおかげってわけや」
なるほど、納得だ。黒子さんの話は聞いていて面白いし、ためになる。先生が慕うのもなんとなくわかる気がした。
「っと、話が逸れたな。ルリちゃん、あのビル見えるか?」
黒子さんが指さしたのは、なんの変哲もない白い建物だった。普段なら気にせず横を通り過ぎちゃうような、豆腐みたいなビルだ。
「あそこな、ヤクザの事務所」
「……え?」
「ルリちゃんには、ああいうのを潰して回るこの街のヒーローになってもらう。そんで、奥に居るわる~い闇祓いを張り倒して、この騒ぎを終わらせるんや」
「潰す、って……わたしが、倒すってこと? やくざの人たちを?」
「問題あるか? ヤクザなんてお天道様の下もマトモに歩けへんような社会のクズやんけ、気にすることないで!」
「いや、でも……わたしの先輩、ヤクザの人と付き合ってて。すごくいい人だって。その先輩もいい人だし」
「いい人の皮被ってるだけかもしれんで? 皮っぺら剥いだらただのクズ。そんなもんのために、この街が、人が、先生が、も~っと大変なことになってもええの?」
黒子さんはいつだってカラッとした明るい調子で喋るから、怖いことを話しているけど悪い感じはしなかった。正しいことを言っている気がした。
「目ェ覚めたとき、悪いやつを殴り倒して改心させてこの街救ったと来たら、愛しのソフィちゃんだって喜ぶで」
想像して、手が震えた。わたしに出来る? 先生のため、だとしても……。
ぽん、と肩に手が置かれた。黒子さんの大きな手だった。
「急にこんなこと言ったらアレやな。一晩じっくり考えてみ。ウチの勘で言えば、まだ間に合う。キミの決心を待つぐらいには時間あるで」
ほなな~、と黒子さんはどこかに帰って行ってしまって、わたしは事務所前にぽつんと取り残されてしまった。
普段から通る道だった。買い物に行く時に何度もあのビルを見ているし、何度も見ているから印象になんて残ってない。そんな場所に事務所があるなんて、まったく信じられなかった。
その日は学校をサボって街をフラフラして、そのまま家に帰った。何度もサイレンの音がして、いつもより街がざわざわしていた。わたしの胸は、ずっときゅっとしたままだった。
家に帰っていつも通りご飯を食べて、いつも通りお風呂に入って、ベッドに潜った。いつもならすぐに眠れるのに、目が冴えて眠れない。
携帯で街のニュースを調べてみると、自分がどれだけ街のことを知らないかを突きつけられるみたいだった。
たくさんの人が住んでいる霜咲市。その中にある水乱。みんなを助けるために、わたしたちは戦っているんだ。
そんな風に考えても、まだピンと来なかった。ニュースサイトを閉じると、ホーム画面に先生の写真が出てくる。前に隠し撮りしたやつ。
先生。目が覚めたとき、街が、学校が大変なことになっていたら。先生はきっと、すごく悲しむ。
結局、それが引き金になって、わたしは黒子さんにメッセージを送った。
送信するボタンを押して、ため息をついた──その一息の瞬間を刺すみたいに携帯が震えて、先生という文字列で心臓が跳ねた。
夜分にごめんなさい。
昨日はありがとう。それと、ごめんね。
話したいことがたくさんあります。ルリさえよければ、電話で話したいです。
思わず携帯を抱き締めていた。先生、目が覚めたんだ……。よかった。本当によかった。
先生とおしゃべりしたい。
でも、喋ったらバレてしまう気がした。
それに、わたしの覚悟も揺れてしまう。先生に、大人に甘えたくなってしまう。
だって、怖かったから。
まだ先生にも言ってないこと──昔、友達を小突いて大怪我をさせた。
その時はまだ、力を制御する方法を知らなかった。わたしは同年代の子供たち……違う。どんな人間とも違う力を持っていた。
水乱は不良高校だから、挑みかかって来る人も居るかもしれない。力をセーブできるか不安だった。
でも師匠に体の使い方を教わってきたから、上手く馴染めた。喧嘩で出来た友達も居たから、嬉しいことだってたくさんあった。
悪い人をやっつけに行くためには、喧嘩と違って本気で戦わなくちゃいけない。
今のわたしが本気で殴って来たのは悪魔だけ。人を殴れば、どうなるかはわからない。
それでも、やるって決めたから。
「おつかれ、ルリちゃん」
ビルを出ると、釘バットを手にした黒子さんが立っていた。いざという時助けに入ってくれる構えで、外を警戒してくれていた。
「どやった?」
わたしは肩を回したり足をぶらぶらさせて、自分の体が問題ないことを確認した。
「楽勝だったよ」
「そか。そりゃ重畳ってもんや。ほな、次行こか」
「次?」
「事務所はいくつもあんねん! それに、この街に住んどるのは一つの組だけやない。全部潰すで。それが街のため人のため、ほんで先生のためや」
たしかに、抗争が起きるってことは組がいくつもあるってことだ。全部倒さなきゃ、街から抗争はなくならない。
黒子さんが歩き出すので、それに着いて行く。けれど、並び立ったところで「ちょいストップ」と呼び止められた。
「ルリちゃん、言いつけ通り着替えてきたのはええけど、ここ忘れてるで」
黒子さんはウェットティッシュを取り出して、わたしの顔を拭った。
「こっちは自分で拭き。終わったら行くで」
アルコールくさいウェットティッシュを受け取ったところで気がつく。
拳に血がついていた。
〈つづく〉
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