1.自律神経ぶっ壊れ教師ができるまで①
そう、キラキラの養護教諭になりたかったのだ。
文字通り輝く金の髪をなびかせて、生徒を想って日々を生き、生徒の想いを受け止めて人生を導く──恩師と呼ばれるような存在。
ああ、高校の時の保険の先生。軽率に名前を呼ぶのもどうかと思うくらい今でも敬愛しております。そして、あなたのようになりたかったのです。
だからこそ、バカほど治安の悪いこの霜咲市の、ウルトラ不良高校である水乱高校に赴任する哀しみも、酒と一緒に飲み込んだのです。
けれど私を襲ったのは、浮世離れの不良校をひょいと飛び越していくほどの──悪魔だった。
◇
「ンだテメオラ!」
時は赴任初日にまで遡る。
最寄り駅から歩いて十分。交通事故と刺傷事件、合計二つの事件現場に見送られるサスペンスフルな通勤を経て学校を目指していた私は、典型的なヤンキー少年少女に出迎えられた。
「誰だオラ!」
「ずいぶん美人じゃねーかァラ!」
絡まれてるのか褒められてるのか判然としない声を前に、私は笑顔を崩さずこう答える。
「新任の養護教諭です。これからよろしくね」
ヤンキーズは私をたっぷりとねめつけて来たが、これ以上構っているわけにもいかない。キラキラのスマイルを維持して「じゃあまたね~」と、スルーを決めるべく歩き始めた。
「まあ待ちなオラ!」
一人がスッと手を伸ばしてきた──刹那、私は反射的にその手首を掴んで絞めていた。
「なっ……痛えぞオラ!」
「元気なのはいいけど、ケガしないようにね?」
手を放してあげて、私は歩みを再開した。
幸いにして彼らが追ってくることはない。しかし、彼らの驚きの視線が私の背中に突き刺さる。
──や、や、やっちゃった~~~~~!
これからお世話になる学校の生徒の腕を掴んだどころか、爽やか笑顔で脅してしまった。別にそんなつもりはなかったし、隠し通す気でいたのだ。なのに私の反射神経が黙っていてはくれなかった。
新任養護教諭、西園ソフィア。
私は、元ヤンだ。
そしてなんの因果か──私が赴任した霜咲市立水乱高等学校は、県下どころか日本で屈指の不良高校とされる激ヤバ学校であった。
校門に辿り着いたとき、私は自分の認識と地図アプリを疑いたくなった。
築年数はそこそこ経ってるから校舎が汚れてても文句はない……が、その汚れたちは風雨ではなくアクリル樹脂塗料で出来ている。
最強を謳う自己主張からドエグい下ネタ、色鮮やかなグラフィティまでよりどりみどり。いや、グラフィティに関しては汚れと言うのも失礼な逸品もある。ついつい立ち止まって見とれてしまった。
市立高校らしくないファンキーな色使いの校門を抜けて、ゴミやらなにやら言及してよいものかわからない散乱物と休日なのに何故か居る不良たちから目を背けつつ敷地内へ。
これまた汚れた職員玄関で、ピッカピカのルームシューズを取り出して足を納める。
そこで、私は気を引き締めるべくフウと一息。そして心の中で、一つだけ叫ぶ。
──ここ本当に令和の高校なの⁉
ツッコんだら負けなのではないかと思って歩いて来たが、我慢の限界だった。
赴任前にもチェックしてはいたけれど、もしかしてドッキリなんじゃないかな~とか考えていたのだ。だって、不良漫画の夢をギチギチに詰めて現代にアップデートしたみたいな異常空間だったから。
引き締まり切らなかった気を取り直すために、頬をペシッと叩いてみる。ちゃんと痛いので夢ではない。その勢いで、職員室に足を踏み入れた。
すると、教員たちの視線が一斉に私の髪に向けられた。次いで、顔。こういう視線の動きには慣れている。
先生たちのたゆまぬ努力によってか、職員室は存外普通だった。外に面する窓は落書きに染まっている物もあるけれど、それさえ目を瞑ればまともだ。うん、まともまとも。
「西園先生、ですよね」
ふと声をかけられたので振り向く。声の主は、私よりひとまわり年上といった具合の真面目そうな女性だった。白衣を着ているので、理系の先生だろうか。
「同じ養護教諭の者です。よろしくお願いしますね」
私は頭に?マークを浮かべつつ、彼女に挨拶を返す。
真面目そうな人が一緒なのは助かるな、とか思いつつ、最大の疑問──なぜ私以外の養護教諭が居るのか、という問題が頭の中で鎮座していた。
養護教諭というのは基本的に一校一人だ。生徒の多いマンモス高なら複数人配置されるが、水乱の生徒数は一般的な高校の域を出ない。不良が喧嘩しまくっててヤバいからたくさん置いてあるとか? そんなことある?
そもそも、私以外の養護教諭が居るなら通達がありそうなものだけど、ここに至るまでなにも聞かされていない。それもおかしな話だ。もしかしていじめられてる? 社会人生活、もう暗雲立ち込めてる?
と……まあこの通り、赴任してすぐに違和感はあったのだ。だが、気づいていたとてどうしようもなかった。
この時既に、私の運命は決まっていたのである。
職員の皆様に丁寧な挨拶を済ませ、諸々の打ち合わせなんかを済ませた私は早速保健室へ向かおうとした。これからしばらく過ごすことになる大事な場所だ。早くこの目で見ておきたかった、のだが。
「西園先生、生徒指導室に行ってもらえますか?」
虚ろな目をした先輩教師に呼びかけられた。これが新任キラキラ後輩への態度か?
「指導室……どうしてです?」
「西園先生に行ってもらうように、とだけ聞いているので。お願いしますね」
それだけ機械的に言い残すと、スタスタ歩み去って行った。
ああ、今後が思いやられる……廊下を包み込むような落書きたちを眺めていると、なんだか胃が痛い気まで。錯覚であってくれ。
他の先生に場所を聞いて、そのまま生徒指導室へ向かった。職員室からさほど離れていない筈なのに、近づくほどに人の気配が消えていく。生徒たちが通学していれば、こんな静けさとも無縁だろうに。
指導室前に着く頃には、誰も居ない廊下に取り残されたような状態になっていた。先程と打って変わって、落書きたちが生徒のぬくもりのように感じられる。
「失礼しま~す……」
指導室の引き戸を開けた瞬間、寒気を覚えた。
この春めいた陽気の中でエアコンでも付けているのかと思ったが、空調の音はしていない。椅子と机が置かれているだけで、昼の明かりが差し込むばかりの殺風景な部屋が私を出迎えた。
「えっと……西園です。ここに来るように言われてきたんですが」
中に踏み込みつつ、視線を巡らせる。
すると、指導室のドアがバタリと閉じられた。
私は触れていない。慌てて振り向く──が、そこには誰も居ない。誰かが閉じた引き戸があるだけだ。
「よく来てくださいました、先生」
まるで幼児のような、舌足らずなソプラノが部屋に響く。誰も居なかった筈なのに。
部屋の方へ視線を戻すと、ピンクの髪の子供が立っていた。
「立ち話もなんですから、かけてください」
七歳くらいだろうか。おかっぱに切りそろえた髪と、身にまとった水乱指定セーラー服。達者な敬語にしては幼すぎる声と滑舌。
そして、意思の光が希薄な瞳──暗い穴を覗いているようで、目を逸らしたくなる。まるでチグハグとしか言いようのない謎の少女が、私を見上げていた。
少女は身の丈ほどもある椅子に、乗り上げるようにして腰を下ろす。床に足がついておらず、ぶらぶらさせていた。子供みたいだ。いや、もちろん子供ではあるのだが。
「どうかされましたか? 懸念事項があるのなら仰ってください」
いや、なにから言えばいいの──と言うわけにもいかず、少女の対面に腰掛けた。
先程から感じる寒気は変わらず、部屋もどことなく暗い気がしてならない。照明を点けたかったが、立つことすら許さない緊張が部屋いっぱいに走っている。
正直な所感を述べれば、この子を中心としたこの空間は、怖い。
「えーと、その。あなたは?」
「ここの
あどみ。
「あどみ、ちゃん……でいいのかな。この学校の生徒なの?」
問いかけると、あどみは悩むような仕草を取ることもなければ、じっとこちらを見据えたまま答えを口にする。
「そのようなことを訊いてなにになるのでしょうか? イタリアのジョークですか?」
なにがなんだかわからないままにバッサリ切られた。本当にジョークを言ってこの反応が来たら余裕で泣ける自信がある。
とはいえ、一つ判明した。この子は私のことを知っている。西園ソフィアは日本人とイタリア人のハーフなのだ。しかし、私がイタリアに行ったこともない超ド級の日本人なのは知らないらしい。
「なにもないのなら本題に入りましょう。先生、こちらを」
長すぎる制服の袖に包まれたあどみの手が机の下に潜る。
そして、ゴトッという重たい音と共に小ぶりなアタッシュケースが机に置かれた。
小さいケースとはいえ、あどみが持つには大きく、重たかったはずだ。それを、この子はものともしていない。
開けるよう視線で促してくるので、ケースのロックを外していく。
こんな重みのあるケースに触れるのは初めてなので手が覚束ない。なにかヤバい取引にでも使いそうな品だ。そう考えた途端、背筋を冷や汗が伝い落ちた。
果たしてケースを開くと──黒光りするリボルバーが顔を出した。
うわー。どうしよう。
「S&WのM66に
「……かっこいい銃だねえ」
果たして、微妙な沈黙が流れる。
こっちは渾身の笑顔でやっているというのに、あどみは意味不明と言わんばかりの虚無顔で見つめてくる。感情的な色の抜け落ちたその顔と見つめ合っていると、それだけでなにか抜き取られそうだ。
本能が告げていた──なにかヤバい。
町でやんちゃしてたらヤクザが出てきたあの頃も同じものを感じた。しかし、今の私は大人なのだ。
「でも、おもちゃの銃なんて学校に持ってきちゃダメでしょ。こういうのって大体十歳以上対象だし」
この子は明らかに高校生ではないが、ただの子供でもない。ナメてかかってもいけないし、踏み込みすぎてもいけない。真ん中を行け。綱渡りから落ちないように。
「……なにも知らないようですね」
こちらの言葉に虚無顔を続けていたあどみは、ふと私の上へと視線を向けた。
いや、どこを見ているのでもない。彼女の目からは、かすかな光さえも消えていた。
一分ほど沈黙の中で待っていると、あどみの目に光が戻る。
次の瞬間、あどみの手から飛び出したアサルトライフルの銃口が私の額に向けられていた。
「…………へ?」
「どうやら手違いがあったようです。申し訳ありませんが先生、あなたには消えてもらいます」
銃口の中の闇と視線が重なる。あ、これ本物だ。ヤクザのおっちゃんがあの日見せてくれたのと同じ金属の、凶器の重みが見た目に表れている。
馬鹿げた状況から一転、死が眼前に躍り出た。一秒が何倍にも感じられて吐き気がこみ上げる。殺される。バカみたいに高鳴り出した胸がギュッと詰まる。
「あの、さ。説明してもらってもいいかな」
覚束ない呼吸から出した声は、みっともなくかすれていた。
「色々知られてしまったので」
「いやー……正直なにも知らないし、誰にも言わないから。どうにかならない?」
「もうあどみの顔を知ってしまったではないですか。呪脂にも言及しましたし」
「樹脂って樹脂? あの木の脂のやつ? あれぐらいみんな知ってる……いや~あどみちゃんはまだ知らないか! 別にそれって珍しくもなんともなくてね」
喋りながら、右に飛び退いた。
耳元でドでかい音が弾け、視界の端から光が溢れる。耳がキンとしたかと思えば頭を鈍痛が襲い、私は冷たい床に崩れ落ちていた。
頭が痛い。顔に穴開いた? でも頭の感覚は特に変わりがない。避けようとして跳んだ時に頭を打ったみたいだ。音と衝撃でクラクラしている。
顔を上げると、あどみの突き出す銃口が今一度私の頭を捉えた。
銃口はあどみの手から生えていて引き金が見えないために、いつ撃たれるのかも判然としなかった。今避けられたのはマグレだ。きっと次はない。
これは夢じゃない。冷や汗に痛み、こみ上げる吐き気まで嫌になるほどリアルだ。
だから、わかる。
もう終わる。
最後の景色は冷たい生徒指導室の床なんだ。その最期の視界に、つと涙の雫がこぼれ落ちた。
「……なり……のに……」
嗚咽混じりでうまく声が出せない。もう銃口を見るのはやめた。冷たい床も、溢れた涙でよく見えなかった。
「ただ……ただ、あの日の先生みたいに、なりたかっただけなのに……」
ただ恩師みたいな人になりたかっただけなのに。あんな大人になりたかっただけなのに。こんな大人の第一歩もまだのまま、何にも成れず、なにもわかんないまま死んじゃうのか。
「誰も助けられずに、終わりたくない……!」
静かな部屋に私の泣き声だけが響いて、ぐるぐるの頭の中にも自分の言葉がこだましていた。
銃声は鳴らない。鳴る頃には死んでいる筈だ。じゃあ、もう死んでいたりするのだろうか。地獄に落ちて泣いてるだけとでもいうのか。
顔を上げるのが怖かった。上げたら覚めてしまう。なにもかも、終わってしまう。
「先生。落ち着いてからで構いませんので、席についてください」
聞き間違いかと思うような幼な声に顔を上げると、あどみは先程のように生徒指導室の席についていた。手から生えていたごついアサルトライフルは、どこかに消えてしまっている。
涙と鼻水をポケットティッシュで拭って、鼻をかみながらあどみの対面に腰を下ろした。嗚咽は中々治まってくれないが、こればかりはどうしようもない。
「涙は治まりましたか」
「涙もろい大人で……ひくっ。ごめんなさいね。えぐっ。……それで? いつ私を殺してくれるわけ?」
「まずは──申し訳ありませんでした」
あどみは深々と頭を下げた。
まじまじと、まっピンクの髪が集まるつむじを見つめてしまう。こんな時なのに、ちゃんと地毛なんだな、とか考えてしまう。
「結果として、あなたを試すような形になってしまいましたので」
顔を上げたあどみと視線を重ねる。
正直彼女の目を見るのは怖かったけれど、その目には誠実な光が宿っていた。ちゃんと見つめるべきだと、教員としての私が言っていた。
「つまり、最初から殺すつもりはなかった」
「いえ、跡形もなく消すつもりでした」
「……そう。じゃあ、殺すつもりだったけど気が変わったってこと?」
「あなた達の尺度で語るのであれば、そうなるのでしょう。そして、ここからは提案です」
あどみは、机上のアタッシュケースをこちらに寄せる。
そして、どこからともなく透明な手袋を取り出した。工場なんかで使うような、ビニール製の蒸れるやつにしか見えない。
「知ったからには、消えてもらうか、こちら側についてもらうかしかありません。先生が望むのであれば、
私は即答した。
とにもかくにも、命だけは助かった……という実感を得た途端、体の力という力が抜け落ちてそのまま溶けそうになった。怖すぎておしっこ漏らすかと思った。てかちょっと漏れた。赴任初日なのに。
「悪魔というのはどうたらこうたら、負の念がなんやらかんやら──先生、人の話はかくかくしかじか」
あどみがなにやら固い言葉で話していたが、放心状態の私の耳では届いても右から左に抜けていく。闇祓いとか悪魔とか、とにかく脳が理解を拒んでいた。
なんとはなしにアタッシュケースの銃が気にかかって、手を伸ばしてみる。
すると、あどみに「待ってください。死にますよ」と止められた。あと一瞬警告が遅ければ死んでいたらしい。いや、どういうこと?
「それに触る前に、この手袋をつけてください」
先程あどみが取り出した透明な手袋を渡される。やっぱりビニールっぽい素材で、絶賛手汗まみれの私の手では着けるのに苦戦してしまう。
「つけたら、こちらに身を乗り出していただけますか。顔に触れますので」
なんとも言い難い蒸れ感を手袋の中に感じつつ、あどみの方へ顔を寄せた。いざ顔を触りますと言われると緊張が増す。なにをされるかわからない恐怖は、歯医者に向けて口を開くそれよりも異質だ。
すると、あどみはどこからかカッターナイフを取り出し、右手親指の腹を切った。白くて細い子供の指に一条の傷が生まれ、赤い血が溢れ出す。
この子の血も赤いんだなと安心させられると、子供の怪我を前にしているという実感が湧いてきた。
「なにやってんの。私絆創膏しか持ってないよ」
「気にしないでください。あなた達と違ってすぐ治りますから」
あどみは血のついた親指を突き出すと、私のおでこにそれを当て、模様でも描くみたいに踊らせた。湿り気を感じる。血が付着しているのだ。
瞬間、なにかがひっくり返った。
体中の、体の内側も含めた感覚という感覚がズレて、浮き上がって、ふわりと漂う──奇妙な気持ち悪さに溺れかける。苦しくはない。ただ、気分が悪い。
やがて、感覚が着地を始める。気分の悪さが薄れると共に、なにかが確実に変わっている、いや、私自身は特に変わっていない。取り巻く周囲が変化している。
「あなたに感呪性を植え付けました。電波を送受信するための機構を取り付けたと思っていただくのがわかりやすいかと」
「かんじゅせい……」
「呪いを感じると書いて感呪です。この世の果てからあなたの中までを巡る呪いと祝福を感覚し、司るための才覚……言ってもわからないですよね、すみません」
「ちょっと、私のことバカだと思ってるでしょ」
「では先生、手袋も浸透したかと思うので銃を握ってください」
スルーされた。そして、浸透と言われてはたと気づく。いつの間にか、付けていたはずの手袋が消えていた。
「あのさ……なにが起きているのか説明してもらってもいい?」
「先生、人の話はちゃんと聞いた方があなたのためです。教員のあなたが一番よくわかっているのでは?」
「ウッ」
鋭い言い草からして、先程右から左に抜けている間にお話済みだったのだ。なにも言い返せない。本当にごめんなさい。
「先生の手と一体化したそれは、呪具に力を込めるための手袋です。あなたの持つエネルギーを変換してくれる上に、過度な呪いから守ってくれます」
「付けないで銃持ったらどうなってたの?」
「来世まで含められる程度にはしっかり呪われて死ねます。せっかく助けた命が無駄になるところでしたね」
来世とか言われてしまうと規模感が狂い始めるけれど、既にこの状況がトチ狂っていた。今はこの子の話を真面目に聞いて、生き残るために努力する時だ。一世一代の大授業である。
「では先生、そろそろ行きましょうか」
「え? どこに?」
「実地授業です」
あどみは銃の入ったアタッシュケースを手に歩き出し、ドアを開いて廊下に出ていった。
慌てて彼女を追いかけると、あどみ以外に誰も居ない、寂しい廊下が私を出迎えた。
誰も居ないとなぜわかるのかと聞かれたら、なんとなくとしか言いようがない。今私が居るこの空間には、さっきまで居た先生方すら存在していない。
「先生、今この世界を感じていますね? それが感呪性です」
可愛げのある声が廊下に反響する。この子が持つ深淵のような怖気にはまだ慣れることができない。
あどみは勝手知ったるとばかりに、落書きだらけの廊下をスタスタ進んでいく。ダボダボセーラー服の袖が地面に擦れてホコリを集積し始めていたが、ツッコむ気にはなれなかった。
人はまったく居なくとも、やはりここは水乱高校の校舎らしい。小走りであどみに追いつき、並んで歩きつつ浮かんだ問いを投げてみる。
「つまり……ここは異世界とか、そういうものってわけ?」
「いえ。正確には、現実をひっくり返した世界──我々は基本的に〈反界〉と呼んでいます」
聞いていたところで簡単に飲み込める話でもないが、覚えるに越したことはないはずだ。
「ここには悪魔が集まります。いわばここはゴキブリホイホイの中です」
淡々と語られるファンタジックな言葉と的確すぎる例えが相まって、脳みそが情報を飲み込んでくれない。夢ではないとわかっていても、そうそう順応できるものではないのだ。
「てか、悪魔ってなんなの?」
「人の負の念──または、呪い、闇といった表現が成される存在の集積体です」
わけがわからなかった。私はばかみたいに口を開けたまま首を傾げてしまう。
「川を想像してください」
「皮? 皮膚?」
「流れる方です」
やばい状況に放り込まれているからか、想像力も変な方向に向かっていた。これから生徒の前で変なこと口走らないようにしないと。
「川の水が気化して雲になるように、人の負の念が気化して集まると悪魔が生まれ、人に災いをもたらします。これは古くから続いている人の世のシステムです」
「はあ……古くから、ねえ」
不思議なことに、こうして歩いている内に、認識よりも実感の方が追いついて来ていた。
先程あどみに血を塗りつけられてからというもの、妙な怖気を感覚している。悪魔、呪い、闇祓い──そういうものがどうやらあるらしいという感覚だけが私の中にある。
廊下の窓から外に目を向けると、妖しい赤褐色の空の元に、霜咲の街並みと学校のグラウンドが広がっていた。反界の空は赤褐色なのだ。見ているだけで気分が悪い。
もちろん、視界のどこにも人っ子ひとり居ない。反響する足音と景色によって、世界に私たちだけなのだと突きつけられているようで嫌になる。あどみの気配や足音ですら欲してしまう私が居た。
「先生、そろそろこれを」
声に振り向くと、開いたアタッシュケースを抱える少女の姿が目に入る。中身が銃じゃなければ可愛いだろうに。
「本当に……握るの? 呪いの銃」
「はい。お望みならどんな呪いが付着しているか可能な範囲で説明を」
「いらないいらない間に合ってるからマジで。気持ちだけ貰うから」
「そうですか」
どことなくあどみの無表情が曇ったように見えたのは気の所為としておく。
ヴィンテージものらしい回転式拳銃に手を伸ばし、触れた。手袋を付けているような感覚はない。グリップの固く冷たい感触、そしてこの重さ。
本物の銃だ──初めて触るけれど、なんとなくわかる。これも感呪性のなせる技か。
「弾は込めておいたので、引き金を引けば弾が出ます。悪魔が現れたらハリウッド映画みたいに構えてください」
「ねえ、その例えどうにかならない?」
「わかりにくいでしょうか?」
「いや、わかりやすすぎて困ってる」
二階への階段を登りつつ、前に観た映画を思い出しながら銃を構えてみる。こんな重たいものを構えたまま動いていたらすぐに腕が疲れそうだ。
「呪いに慣れたら軽くなりますよ」
「ちょっと、心読まないでよ。……なんか、この後ろのやつをガチッてやるんじゃないの?」
「M66はダブルアクションなので、撃鉄を起こさなくても撃てます」
「ダブ……?」
「先生が銃について知る必要はありません。強いて言うならリロードのやり方ですが、それも含めて呪いがあなたを助けます。狙撃や反動といった付帯事項は気にかけず、ただ力を込めて撃つことが肝要です」
呪いってなんなんだ。万能物質? あどみに訊いてもへんちくりんな答えが返ってきそうなので、気にするのはもうやめる。
二階に上がり、廊下に出た。長く続く廊下には生徒たちの教室が連なるが、やはりここも静寂の中だった。縦横無尽に走る落書きや乱雑に放り出される机と椅子ばかりが、虚しく主張を続けている。
「では先生」
あどみは小さな手を胸の高さにまで上げると、廊下の先を指さした。
セーラー服を着た女子生徒が、そこに立っていた。
「悪魔です。撃ってください」
変わらず冷静に告げられる幼いあどみの敬語を受け──私は、構えようとしていた銃を下ろしてしまった。
生徒は顔を俯かせたまま、覚束ない足取りでこちらへ歩き出す。暗い廊下で顔の見えない姿は不気味に映るけれど、確かに女子生徒の形をしているのだ。
「先生、照準の定め方は知っていますか? 呪いがカバーするとはいえ──」
「それくらい知ってる! 知ってるけど……知ってるからって出来るものじゃないでしょうが!」
生徒と私の距離は徐々に詰まり、教室一つ分程になっている。揺れる前髪の奥に顔がチラつき始め、俯かれたそこにしっかりとした輪郭や表情があるのが見え始める。
「あどみ、あ、あれ、本当に……」
「悪魔は概念的な存在で、反界の影響を強く受けます。ここは水乱高校を中心とした反界なので、悪魔も学生の形を取るんです」
「なら教師を悪魔殺しに参加させないで!」
「そのような倫理観の持ち合わせがある人を呼ぶ手筈ではなかったので」
「それを言われちゃどうしようもない!」
じりじりと迫る生徒に対し、私はすり足で後ろに下がり始めてしまう。対峙しているのは生徒ではない悪魔。そんなことはわかっている。これが夢じゃないこともわかっているのだ。
私と一緒に後ずさりをしていたあどみが「先生、左を」と促すのでそちらの階段へ振り向く。
音もなく階段を上がってきたらしい青い顔の男子生徒が、目の前に居た。
「…………ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
二人の生徒に迫られるがまま、絶叫する私は廊下の端へと追い立てられていた。窓のある壁に背をつけた途端、足を滑らせて尻もちをついてしまう。この際窓から飛び降りる? そもそもこの窓開く?
「開きますよ」
「もう心読まないで恥ずいから!」
「反界は校外も含むので」
「冷静に説明続けんな! てかあんたは大丈夫なの⁉」
「そこはほら、銃とか出るので」
ひょいっとあどみの手からアサルトライフルが生えた。手品かよ。
「じゃあその銃でどうにかして!」
「過干渉は禁じられているので」
「のでので言いすぎ! ってうひゃあああああああああああああ!」
あどみと言い合っている間に生徒たちに完全に取り囲まれた。
私は銃を構えようとする──が、どこかで脳がストッパーをかけている。生徒なのだ。私が傷つけるなんてもってのほか。私が癒やさなくてはならない生徒の形をしているのだ。それを、この手で。
瞬間、生徒たちの肉体が溶けるようにして変貌した。
腕が形を失い、肥大化し、刺々しい形を成そうとしている。私を襲う武器にでもなろうというのか。私がビビッて動けないのをいいことに、ニタリと笑う少年少女は腕を遊ばせてこちらを見下ろしている。
気づいたら銃を構えて、撃っていた。
でたらめに付けた狙いでも弾は飛び、女子生徒の顔面を貫いている。反動らしい衝撃はあったけれど、なにかが受け止めてくれるようなソフトな感触が撃つのを楽にしている。
いける──確信と共に
「こ……こんなんが、私の生徒なわけあるかぁぁぁぁぁああああああああああっ!」
生の銃声で耳がキンとする中、あどみの「お疲れ様です」という声が響く。労われた気はせず、ただかわいい声が耳から抜けただけだった。
肩で息をしながら、その場にしばらく座り込む。興奮していた。いい気分では断じてない。引き金の感触によくわからない手応え。手に残り続けるそれをどうすべきかわからないまま、息を整えていく。
「先生、今日はここでお開きにしましょう」
あどみは私の銃を回収し、アタッシュケースに収めた。本当は肌身放さず持っていてほしいそうだが、銃刀法でパクられても困るので預かることにしたらしい。
立ち上がって、白衣についた埃を払う。買ったばかりのピカピカの白衣だったもの。これを身にまとって、私はキラキラの養護教諭になるはずだったのだ。
「では今日の分の報酬をお渡しします」
当たり前のように告げたあどみは、懐から封筒を取り出し、手渡して来た。
見た目以上に重たく感じるのは、この中身を私の感呪性が感じているせいだろうか。それとも、人間の欲望センサーが敏感すぎるのか。
「基本的には教諭としての給与と合わせて振込ですが、初任給は現金手渡しがよいと耳にしましたので」
「え……いや、あの」
「説明したいことはまだまだありますが、それは明日以降に取っておきましょう。今日はゆっくり休んでください」
いや、そっちに言いたいことがあるように、こっちだって訊きたいことが山盛りだ。勝手に行かれても困るのだが。
「それでは先生、さよーなら」
ぺこりと頭を下げたあどみと私の間を、どこからともなく現れた教室の引き戸が隔てる。
瞬間、世界も私も逆上がりさせられたみたいな感覚に襲われた。
気が付いたときには、現ナマの詰まった封筒を手にして生徒指導室の前に突っ立っていた。
「……え?」
こうして、私の養護教諭生活──もとい闇祓い生活一日目が終わる。
かに、思えたのだが。
保健室に戻ると、私がやるべきことは同僚の先生がすべて終わらせていた。そこで私は察した。このために二人居るのだ。そんな特別が許容されるようになっているんだ。
そうして何も成せないまま定時で上がった私なのだが……反界を出てからというもの、私のお腹は常に鳴り続けていた。あまりにも鳴るので近くで犬でも鳴いているのではと思い込みたかったけれど、空腹感が黙ってはくれない。
ふと、あどみの言葉を思い出す。エネルギーを変換する手袋。そのエネルギーとは、カロリーのことなのではないか。
退勤し、駅までの道のりをフラフラで進んだ。新しい仕事の一日目なんて疲れるものだけど、ここまでの疲労と空腹に襲われることもまずないだろう。苦しい。誰か助けて。
そんな私の前に、ラーメン屋は姿を現した。
腹は減り、金はある。ちょうど夕食時に近い時間だが、並ばず入れる程度に席は空いている。
「…………」
するすると吸い込まれた私は、味玉ラーメン餃子セットを注文した。替え玉もした。
〈つづく〉
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