不器用な約束
放課後の教室は、一日の喧騒が去った静かな空間だ。
黒板には、先生が授業中に書いた文字や図が残っているが、今は夕日に照らされて、うっすらとしか見えない。
そして、教室には一人の少年が黄昏れていた。
スポーツマンらしく短く刈られた髪と、細身の体。
名前を斎藤
時刻は夕方の5時過ぎ。
この時間なら放課後の部活動をしている生徒も多いのだが、少年は居場所を無くしたように教室に残っていた。
すると、そこに一人の少女が引き戸を鳴らして入ってきた。
艶のある黒髪を肩に届かない程度に伸ばした、すらりとした少女だ。
名前を
「斎藤、何してるの? サッカーはどうしたの」
茜は自分の席に向かいながら、冬樹に尋ねた。
「……やめた」
茜は驚く。
「どうして?」
冬樹は訊かれて、つまらなそうに答える。
「マネージャーの
茜は呆れた。ため息をつく。彼女は冬樹と中学の頃からクラスが同じだった。彼の性格をよく分かっているのだ。
「……つまんないことで、やめたものね」
すると、冬樹は茜を恨めしそうに睨む。
「失恋した奴の気持ちは、つまんないことか」
茜は、かぶりを振った。
「新しい恋をすれば?」
冬樹は、げんなりした顔をする。
(慰めてるつもりかよ)
冬樹は心の中で突っ込んでしまった。
でも、茜の言うことも分かる。
「新しい恋か……」
冬樹はそう言うと大きなため息をついた。
そんな様子を見て、茜がしたり顔をする。それは彼女のちょっとした、いたずら心だった。
「じゃあ。約束しない?」
茜が言うと、冬樹は疑うような眼をする。
そんなことも気にせずに、茜は楽しそうに続けた。
「お互い30歳になっても、独り身だったら一緒にお酒でも飲まない? そして酔った勢いでホテルに付き合ってあげるわ」
茜は悪戯っぽく笑う。
冬樹は一瞬キョトンとしてから、愉快そうに笑った。
「新島って、いい性格してるな」
彼の屈託のない笑顔を見て、茜は少しドキリとしたが、すぐにすまし顔に戻った。
「それ程でもないわ」
二人は楽しそうに笑い合った。
◆
時が流れた。
茜は高校を卒業後は進学をし、大学を卒業後は大手の企業に就職をした。
二人は互いに連絡をし合うことは無かったが、三年ごとに開催される同窓会に出席しては、互いの近況を楽しんでいた。
30歳となった頃、同窓会に出席するが、冬樹の姿は無かった。
「斎藤はどうしたの?」
茜が幹事に訊くと、暗い表情をした。
「……アイツは来れなくなったんだ。国際緊急援助隊になったのは知ってるだろ。南米での救助中に」
「ウソ……」
茜は愕然とした。
同窓会を終えた茜は、自分の気持ちを整理するために一人、バーに立ち寄った。カウンター席で静かにカクテルを傾ける。
スマホでニュースを確認すると、日本の援助隊の一人が救助活動中に起きた事故に、冬樹が巻き込まれたことが分かった。彼が意識不明の重体ということだ。
(アイツのことだから、助かるわ)
茜は自分に言い聞かせるように思うが、嫌な予感は頭から離れない。
すると、隣に誰かが来た気配があった。
「よお」
と、馴れ馴れしく話しかけてきた。
聞き覚えのある声。
冬樹だ。
顔を上げると、そこに彼が座っていた。
「斎藤。ニュースで事故に遭ったって……」
茜は驚きのあまり、固まってしまった。
でも冬樹は軽く受け流す。
「俺には《約束》の方が大事だ」
冬樹は茜にいたずらっぽく笑いかける。
茜は急に恥ずかしくなった。そんな昔の約束なんて、冬樹が覚えているはずが無いと思っていたのだ。彼女は冬樹の無事が嬉しくて、カウンターにある彼の手に自分の手を重ねる。
冷たかった。
血の温かみが伝わってこない。
茜は驚いて冬樹を見つめる。
すると、彼は気まずそうに言った。
「……一緒に飲めなくてゴメン。今の俺にできるのは遠い海外から、この日に会うことだけだったんだ。『菊花の契』のように」
冬樹は述べた。
【菊花の契】
『雨月物語』の一遍。
学者・左門は、病に伏していた武士・宗右衛門を看病し回復する。宗右衛門は再会を約束し、国に帰るが、そこで囚われの身となる。
宗右衛門は、このままでは約束した日に左門の元には戻れない。そこで古の言葉を思い出す。
『人が一日に千里を行くことはない。だが魂は千里を一日で駆ける』
この道理を思い出し自ら刃を立て、左門との再会の約束を果たすのであった。
彼の言葉に驚いたが、茜は酔いもあり高校時代の思い出や現在の悩みを語る。
「……30歳になったけど、未だに恋人がいないなんて、私ってダメなんだろうな」
茜は悲しそうに呟く。
「そんなことないよ。出会いを待ってるだけだ」
冬樹は優しく語りかける。
「元気でな」
冬樹はそう続け消えていった。
茜はどうすることもできずに、ただ見送るだけだった。
「私って不器用ね。なんで素直に言わなかったんだろ……。失恋の直後じゃタイミングが悪かったのかな」
その声音には切なさが滲んでいた。
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