ガラスの世界

 風が心地よく吹き抜け、木々の葉がそよぐ音が耳心地いい。

 昼下がりの住宅街は、穏やかな日常が流れていた。家々の窓には、明るい光が差し込み、家族の温かな話声が聞こえてくる。

 住宅街を、回覧板を手にした中年の女性が歩いていた。

 たるみが目立ち始めた顔は50代前半。

 女の名前は、つじ久子ひさこという。最近になって、この住宅街に引っ越してしてきたばかりだ。今は夫と二人暮らしをしている。

 やがて一軒の家に着く。

 その家は、ここ10年以内に出来たばかりの真新しい一軒家だ。

 呼び鈴を押すと、玄関のドアが開き女性が姿を現した。

 30前後の若い女性だ。

 首まで伸びたミディアムヘア、おっとりとした目に優しい口もと。少し小柄な、どことなく陰のある美人だ。

 名前を村田美希みきという。

 首元に雫型の青いネックレスが輝く。上質な色はアクアマリン。

「回覧板を持って来たの」

 久子が回覧板を手渡すと、美希は申し訳なさそうに回覧板を受け取る。

 美希は、消え入りそうな声で礼を言う。

 そこで久子は、家の中から芳しい紅茶の香りをかいだ。

「いい香りね」

「よかったら上がって行きますか?」

 美希の誘いに久子は遠慮もみせずに、家の中に上がることにした。

 リビングは白を基調とした清楚な雰囲気で、洗練された家具がセンス良く配置されている。

 ディスプレイラックの上には、美希と男性の仲睦まじい姿を撮った写真がコルクボードにピンでとめられ、飾られていた。男性は30代後半ほどか美男と言っていいだろう。美希の旦那だと久子はすぐに分かった。

 二人は幸せそうなオーラを放っているのを見て、久子は内心でねたましく感じた。

 美希は、ティーカップに紅茶を注ぐと久子に差し出した。

 白いカップに注がれた琥珀色の液体から湯気と共に芳しい香りが立ち昇る。

 一口飲むと、口の中に柑橘系の豊かな香りが広がった。舌の上を滑る感触だけでとても香り豊かだという事がうかがえる。

 普段久子が飲んでいる紅茶やコーヒーと違って、安さが一番の魅力のスーパーではなく、専門的な商品であることは一口で分かった。

「どこで買ったの?」

 遠慮のない久子の言葉だが、美希は清々しく答える。

「頂きもので、私もよく知らないんです。私の仕事は家での翻訳で、お茶は外国の友人が送ってくれるんです」

 同じ女としてここまで違うのか、と久子は紅茶をすすりながらしみじみ思った。

「そう言えば旦那さんを見たことないけど?」

 その質問に美希は青いペンダントをいじりながら答える。

「……芳樹よしきさんは、遠くに行っているんです。会いたくても会えなくて。……でも、いつか二人ゆっくり腰を据えて一緒に暮らしたいなって」

 少し陰のある声で美希は答えた。

 それを聞きながら、久子は思った。

(良いご身分ね。旦那が海外に行ってて、自分は優雅な専業主婦もどき)

 美希の境遇を久子はうらやみながら、彼女のペンダントに目を細めていた。


 ◆


「これは、ガラスです」

 久子は鑑定士に言われた言葉が信じられず、唖然とした。

 宝石と思っていたのが、まさかただのガラス玉だとは思わなかったのだ。

「クソ!」

 久子はガラスのアクセサリーの入った紙袋を手に、裏通りにある宝石買取店を出た。彼女は浪費癖があり友人や知人の家に入っては、金目になりそうな物をよく盗んでいたのだ。

 以前住んでいた所から、ここに引っ越したのも、それが理由であった。

「あの女。ケチな物を身に着けて」

 久子は転がっていた空き缶を蹴っ飛ばした。

 カンッと音を立てて浮き上がった空き缶はアスファルトの上を跳ねるが、力を失って転がり止まった。

 そこに村田美希が立っていた。

 陰鬱な顔は、深い怒りを表している。

「……返して」

 美希の言葉に久子はギョッとしたが、金に変えた訳ではないので正直に言い放つ。

「これ全部ガラスよ。あんたがいつも大事にしてた青いペンダントも同じ。どこに居るのか知らないけどケチな男ね」

 あざ笑う久子の言葉を、美希は静かに聞いていた。

「芳樹さんなら居るわ。ガラスの世界に」

 久子はいぶかしむ。

「は?」

 美希が指を向けたのは、久子が持つ紙袋。それは美希の家から盗んだアクセサリーだ。

「何言ってるの?」

 困惑する久子に、美希は告げた。

 モーニングジュエリーのことを。


【モーニングジュエリー】

 モーニング(mourning)とは悲しみ、哀悼の気持ちを意味する。

 中世ヨーロッパでは、遺髪や遺骨を収めた指輪やペンダントなど、旅立った故人を偲ぶための形見として作った。

 かつて日本でも遺髪を保管する文化があり、愛する人を何らかの形で傍に置いておきたいという気持ちは、時代・世界を問わず変わらない。

 現代では、遺骨や遺灰をガラスや宝石にし、故人を偲ぶ形見とする手元供養がある。


 久子は手にしていたのが、死体の一部だと知って嫌悪感を表す。自分がとんでもない事をしでかしたと後悔するも、もう遅かった。

 美希は文化包丁を持ち、久子の前に立っていた。

「私の芳樹さんを返して……」

 久子の腹に包丁が深々と刺さっていた。

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