【怖い話】よなき

 オノマトペ、という言葉を聞いたことはあるだろうか。感覚的なイメージを写し取る、特徴的な形式を持った語のことである。「カチャカチャ」といえば聴覚情報を表す擬音語、「すべすべ」であれば触覚を表す擬態語だ。さらには「ドキドキ」「わくわく」のように身体的感覚であったり心的経験を表す擬情語までもがオノマトペに含まれる。さて、「おぎゃあおぎゃあ」は、何を表すか。

おそらく、多くの人の見解は一致するだろう。


 私は転職を期に引っ越しをした。元々部屋の間取り図を見て、「ここに引っ越すとしたら…」と想像するのが好きだったので、新居の候補はすぐに絞られ、連絡し内見に伺うまであっという間だった。

2つ目の内見で、とても気に入ったアパートがあった。2LDKの築3年で、物置付きの木造建築。オール電化というのも良かったし、コンビニもスーパーも駅も近く利便性がいい。隣の土地は更地で、寝室にする予定の部屋にも朝日が気持ちよく差し込みそうだった。何よりもフローリングがホワイトオークのヘリンボーンだったため北欧のような雰囲気が醸成されており、私の趣味である観葉植物がとても映えそうだった。家賃は予算より少しオーバーだったが、そのまま契約に進むまで迷う余地はなかった。アパート全体は2階建ての4部屋で構成されており、私が入居を決めた部屋は1階の東側の部屋だった。隣と上の部屋は家族で住んでおり、斜め上の部屋には夫婦かカップルが住んでいた。心機一転、新しい住居と新しい職場。不安もあるが楽しみで胸が膨らんでいた。


 結論から述べると、私の新居はほぼ欠陥住宅といっても差し支えなかった。

木造建築であることから多少の生活音は覚悟していた。しかしながら上の階からの騒音は、予想を大きく覆すとても我慢できるようなものではなかった。「どん、どん、どん」という足音は当たり前。「ガッガッガッ」という掃除機が壁に当たる音、「カツカツカツ」と野菜を包丁で切る音、「ごぉごぉ」といういびき、「ごほごほ」という咳の音、「ぶぅんぶぅん」とスマホを床に直接置いた振動音さえ響くのだ。


 先述の通り、上の階は家族で住んでいる。そのため休日も朝早くから笑い声や走る音、ひいては親御さんの叱る声や子どもの泣き声まで間髪入れずに響いてくる。「おぎゃあおぎゃあ」という泣き声ももちろん耳にする。この泣き声を聞くと少し父性が湧くというか、あやしてあげたくなる自分がいる。きっと可愛いのだろう。赤ちゃんは、泣き声でしかコミュニケーションが取れないと言う。そのため四六時中泣き声が響くのは仕方がないことだとも言える。しかし、大人の足音やその他生活音は改善してもらえるところもあるはずだ。私は管理会社に電話をした。


「実は…以前の住人さんは上の階の騒音が原因で引っ越されたそうです」

騒音がひどくなるたびにボイスレコーダーで録音し管理会社に提出したり、管理会社の方から上の階の方に注意をしてもらうこと数回。管理会社の方からそんな告白をされた。「事故物件であれば報告義務があるはずだが、騒音の場合はどうなんだろうか」怒りの矛先を上の住人に向けたら良いのか、管理会社に向けたら良いのか、果たして仲介会社に向けたら良いのか。身動きが取れなくなったような気がしてくる中で、そんなことを考えた。


 予てから不眠症だった私は、上階の旦那さんが工場の時差勤務であることから、夜中に鳴り響く足音の「どん、どん、どん」、夜泣きの「おぎゃあおぎゃあ」、時間を考えず洗濯機を回す「ごぅんごぅん」というすべての音に辟易とし、より眠れなくなるというストレスの悪循環を抱え込んでいた。日中は自分が音楽を流したり、ノイズキャンセリングイヤホンをしたりと対策できるが、寝ている間はそうもいかない。イヤホンをつけた状態では異物感がひどく眠れないのだ。


 ある日、私は大きな過ちを犯した。響くノイズにうんざりし、天井を大きく「バァン!!」と叩いてしまった。静まり返る上階。根本の解決にならない安易なアプローチは、一瞬効果的だった。


次の日には、元通りだった。いや、それどころか悪化していった。


私は安易な解決策を手に入れてしまい、事あるごとに天井を叩く。一時は静まり返る。「おぎゃあおぎゃあ」赤ちゃんの泣き声は止まない。大丈夫だろうか。赤ちゃんには申し訳ないと思う。心配いらないよと優しくしてあげたい。しかし、静かになる時間が短くなっていく。当たり前だろう。当人達は悪意の大小有無に関わらず普通に生活をしているつもりなのだから。


 また明くる日の夜、いつものごとく騒音が響く。「おぎゃあおぎゃあ」止まない。私も赤ちゃんがほしい。私は「バァン!!バァン!!」と天井を叩く。すると、上から「バァン!!」と床を叩く音が返ってきた。上階の住人もついに堪忍袋の緒が切れたのか、仕返しをしてきたのだった。言い分もあるだろう。「子どもがいるのだから仕方ない」「赤ちゃんの泣き声は仕方がない」「おぎゃあおぎゃあ」「洗濯機も夜中の足音も仕事の兼ね合いで仕方がない」


 こうなってしまったら、もうどちらが悪いとか悪くないではなく、ただひたすらにいがみ合うだけとなってしまった。発端はもちろん私の天井を叩く行動であったが、正義はこちらにあると信じてやまなかった私は、直接上階の住人と話すためにインターホンを押した。


 「管理会社から何度か連絡が行ってると思いますが、全く改善されている気配がありませんよ。一体どういうつもりでしょうか」

相当に苛ついた口調で上階の旦那さんに言い伝えた。

「そんなこと言われてもどうしようもないですよ。こっちはかなり配慮して足音の出ないような歩き方もしてますから」

旦那さんも顔を真っ赤にして怒りを顕にしている。

「おぎゃあおぎゃあ」

「そんな配慮は全く感じられません。子どもの走る音もうるさくてたまらないです。防音マットなどは敷いてもらってるんですか」

「敷いてますよ。4歳の子に走るなと言っても聞く耳持つわけ無いでしょう。こっちだって何度も何度も謂れのないことで注意されてうんざりしてるんです、そもそもあなたが天井を叩く音で妻も非常に怖がっているんです」


 このあたりから、私の頭は急速に冷静になった。確かに彼らの立場からすれば、大人の男があからさまに苛つきを見せている状態で、駐車場などでばったり出会ってしまっては、奥さんも子どもたちも何をされるかわからないだろう。それはなによりも怖いはずであり、旦那さんも守るべきもののためカリカリするのも頷ける。


「…確かに、怖がらせてしまう行動をとったのは私の落ち度です。すみませんでした」

私のその言葉に、旦那さんも少し冷静になってくれたのだと思う。

「いえ、元はと言えばこちらの責任ですから。これからもなるべく配慮して生活するように心がけます」

「そうしていただけると助かります、こちらも軽率な行動は控えます」

「おぎゃあおぎゃあ」

「実は管理会社にも伝えてないんですが、三ヶ月後には引っ越す予定なんです。妻も身重で、さすがに四人になると手狭になりそうなので」

「そうなんですね。改めて大人げない態度を取ってしまい、大変申し訳ありませんでした。夜分遅くにすみませんでした」

「いえ、こちらこそすみませんでした」


 風呂に入り、少しスマホをいじり、寝床につく。

「おぎゃあおぎゃあ」夜泣きの声は相変わらず響く。

「おぎゃあおぎゃあ」虐待か、と疑うほど

「おぎゃあおぎゃあ」いつもより大きく感じる。

「おぎゃあおぎゃあ」そういえば

「おぎゃあおぎゃあ」妻が身重で四人になる

「おぎゃあおぎゃあ」4歳の子

「おぎゃあおぎゃあ」今は赤ちゃんがいないのか


「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」更に大きくなる

「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」ではこの泣き声はどこから

「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」会いたい

「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」ひと目見たい


 ふと、泣き声は上の階からではなく窓の外から響いているのに気づいた。窓の外はフェンスを隔てて更地があるだけだ。何故、私は泣き声がずっと上階からのものだと思いこんでいたのだろうか。無性に声の正体を知りたくなり、居ても立っても居られず着の身着のまま外へと向かうことにした。

外に出ると、「おぎゃあおぎゃあ」という泣き声はどんどん大きくなる。もはや耳朶にこびり付いて離れようとしない。しかし、今はそれがとても心地よい。泣き声の主に会いたい。会って抱きしめたいという気持ちが溢れて仕方がない。


「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」

見渡す限りには、泣き声の持ち主はいなかった。それでも私は更地の中に入って音源の方へ向かう。諦めることなどできない。どこにいるんだ。私の可愛い子。


「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」

そのうち地中から声がすることに気が付いた私は、観葉植物の植え替え用のスコップを取りに家に戻り、すぐさま地面を掘り返した。最早、行動原理は泣き声の主をなだめあやし、この両手に包み込み、精一杯の愛情を与えたいという飢えにも似た欲求だけだった。


「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」「おぎゃあおぎゃあ」

気が付けばこんな小さなスコップのみで腰まで収まるほどに掘り進んでいた。かつん、とスコップが何かに当たる。慌ててそれを素手で優しく掘り起こした。それは、60cm四方程度の黒ずんだ木箱のようだった。逸る鼓動を抑えながら、しゃぼん玉すら割らすことのないような繊細な優しさと慈愛を持ち、耳を当てる。

「おぎゃあおぎゃあ」

まさしくこれだ。


「やったよおおおおぉぉぉぉおおおおおぉおぉぉぉおおおおおおぉぉぉぉおおおおおぉおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおぉぉぉぉおおおおおぉおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおぉおぉぉぉおおぉおぉぉぉぉぉぉぉおおおおおぉおぉぉぉ」

狂喜の叫び声を上げた。私が今まで聞いていた、助けを求めていた声はこれだったのかと思うと、喜びは声となり口から放たれ止まることはなかった。


私はその箱を開ける。中には、ビニールでできた赤ちゃんの人形と、手に果実と赤子を持った仏像のような物が入っていた。幸福感が胸から溢れ出る。泉のように止まらない。楽しみだ。至上の喜びだ。幸せなのだ。幸甚の至りだ。この日のために私がいたのだ。光栄だ。無上の悦びに浸る。心浮き立ち高揚感に包まれる。


 「ちょっと、何をしているんですか」

不意に後ろから話しかけられ、我に返る。話しかけてきたのは上階の旦那さんだった。当然のことだろう、さっきまで口論を繰り広げていた相手が隣の土地を掘り返しながら奇声を発し、手に得体の知れない人形を持っているのだ。


正気に戻った私は突如として口腔内に異様な生臭さと異物感を感じ、吐き出した。


赤ちゃんの人形は首と胴体を取り外すことができ、中は空洞だった。その空間に詰められた何かを、赤黒くぬらりとした液がしたたる何かを、私はいつのまにか口に含んで咀嚼していた。


手にしたそれが何なのか、真夜中の僅かな明かりの下でも分かってしまった。

きっと私を呼んでいたのはこれなんだと気づいてしまった。

地中に埋もれていながらも生々しさを失っていないそれは、


だった。


それに気付いた後、腹がぶるぶると震え、喉が酸で焼かれるような痛みとともに吐瀉物が込み上げてきた。未消化の食べ物が喉を逆流する感覚がたまらなく不快で、体温で生半可に温まった液体と固体の混じったものは口いっぱいに広がり、だらしなく穴のなかへぼとぼとと垂れていった。


私も崩れ落ちるように意識を失い穴の中へ倒れ込んだ。



誰が何の目的であれをあそこに埋めたのかは分からないが、一緒に入っていた仏像は後から調べた結果、鬼子母神像だということが分かった。子どもを守る神様だという。






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