贅沢すぎる悩み

増田朋美

贅沢すぎる悩み

その日は、なんだか2月というより4月か5月くらいといったほうが良いと思われるほどの暖かさだった。それでは、なにか不吉なことが起きてしまうのではないかと思われるが、大体の人はそれに気が付かずに、なんだかなで終わってしまうのである。

その日。

「こんにちは、あの、右城くんいますか?」

そう言いながら浜島咲が製鉄所を訪ねてきた。何故か一人女性を連れてきている。その女性は今まで見たこともない女性である。なので、咲のやっているお琴教室の生徒さんかと思われたが、それもなんだか違うようなのだ。

「実はちょっと相談したいことがありまして。」

と、咲は女性を水穂さんの前に座らせた。水穂さんたちも、なんだか改まっている様子だったので、急いで布団の上に座った。

「一体どうしたんです。なにか悩んでいることでもあったんですか?」

水穂さんが言うと、

「はい。実はですね。ちょっと悩んでいることがあるのよ。それでは、ちょっと、あなたの名前と、それから、今悩んでいることを、ちょっと言ってみなさいよ。」

と、咲はその女性の背中を叩いた。

「はい。奥村と申します。奥村千代子。」

「はあ、どっかの歌手みたいな名前だな。そんなやつが、どうしてここへ訪ねてきたんだよ。お前さんの職業は?」

杉ちゃんが言うと、

「はい。最終学歴は、武蔵野です。ピアノをやってて、卒業したあとは、コーラスの伴奏を10年くらいやってました。」

と、奥村千代子さんは答えた。

「それで、いつから、何について悩んでいるんだよ?お前さん、ご家族は?」

と、杉ちゃんに言われて千代子さんは、

「今は、息子と二人暮らしです。と言っても、まだ、一歳にもなってないんですけど。」

と答えたのであった。

「なるほど。おんぶにだっこが必要な年齢だな。それで、お父ちゃんは、いらっしゃらないの?」

杉ちゃんという人は、こういうときに何でも聞いてしまうので、それが逆に困ってしまうこともあるのであるが、こういうときには役に立つものでもあった。

「ええ、主人はいません。」

千代子さんはそう答えるのであった。その言い方から、多分死別したのではなくて、誰か一緒にいた人がいて、愛想が尽きてしまったんだろうなということがわかった。

「それで、息子さんは、今どうしていらっしゃるんですか?」

水穂さんがそう言うと、

「今は一応、保育園にいってます。合唱の練習が終わる時間まで預かってくれることになっているので、五時に迎えに行くことになっていますけれど。」

千代子さんはそういった。

「まあそれは平均的なお迎え時刻だわな。それなら、子育てもうまくいっているんじゃないか。一応仕事に行っているときは預かってもらっているんだろ?」

杉ちゃんが言うと、

「そう人からは言われるんですけど。」

と、彼女は言った。

「はあ。なにか悩み事でもあるの?保育園の先生とうまくいってないとか?」

杉ちゃんは直ぐに聞いてしまった。

「そういうことでは無いんです。本当にこれは贅沢すぎる悩みだから人に言うなと言われたんですけど、でも、黙っているだけでは、どうしても辛くて。そうしたら、咲さんが、ここであったら、話を聞いてくれるかもしれないからって、連れてきてくれたんですよ。」

千代子さんが言うと、咲が、

「あたしは、こういう人たちを、助けられる、いわばエージェントみたいなものかな?」

と、わざと明るくいった。それを言うくらいだから、結構深刻な悩みなのかなと、杉ちゃんたちは思った。

「ほら、言っちゃいなさいよ。もうこういうときは、悩みを口に出しちゃったほうが良いのよ。もう誰彼の評価は関係なく、急いで言っちゃいなさい。」

咲に促されて、千代子さんは、

「本当に、贅沢な悩みで申し訳ないのですし、倫理的に言ったら、こんなことで悩んでは行けないと思ってるんです。だけど、どうしても、辛いことがあって、それではあの頃に帰りたいと思ってしまうんです。」

と、勿体ぶっていった。

「もったいぶらないでさ。言ってみなよ。言わなくちゃ、前にも後にも、右にも左にも進まないよ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「あの、息子のことですけど、美紀がいなくなってくれればいいのにって、思ってしまうんです。こんな事、母親が思っては行けないんだと思いますが、それでも思ってしまうんです。美紀がいなくなってくれれば、あたしはまた演奏会に出演できて、大学時代と同じようにできるかもしれ無いって思ってしまうんです。」

千代子さんは、顔を隠したままそういったのであった。

「はあ、何だそれ。」

杉ちゃんは直ぐ言う。

「あのねえ。お前さんはお母さんなんでしょう?それなのに、いなくなってくれればいいって、何だよ。そんなんじゃ、子供が生まれても浮かばれないよ。」

「そうなのよ。あたしも、そういったのよ。だけど、千代子さん、すごい悩んでいるみたいだから。それで、杉ちゃんとか右城くんに聞いてもらったら変わってくれるんじゃないかなと思って、それで連れてきたのよ。」

杉ちゃんの話に咲もそういった。

「本来、動物の場合、自分の子供を愛さないなんて、こんなバカバカしい話があるか、そんなんじゃ美紀くんが可愛そうだって、あたしも何度も彼女に言ったのよ。それなのに、千代子さんたら、ずっと悩んでて、あたしも呆れちゃった。野生の動物は、自分の子供に手を出す邪魔者にすごい威嚇するって言うけど、人間は、そういう事をしなくなっちゃったのかしら?」

「それに、彼女を、支援するというか、ちょっと手を出してくれるやつがいてくれないっていうのも問題だよな。彼女をサポートしてくれる、公的機関とか、そういうものも全く無かったの?悩んでるんだったら、カウンセリングとか、そういうところに通うもんだと思うけど?」

杉ちゃんが直ぐに言った。

「でも、きっと叱られるだろうなと思って、私誰にも相談できなかったんですよ。」

と、彼女は悲しそうに言った。

「まあ叱られるよ。だけど、それは改めなくちゃいけないから。それは大事なことだから、ちゃんと改めろ。もしかして、息子さんに根性焼きをするとか、そういう事してないだろうね?」

杉ちゃんに言われて、彼女は申し訳無さそうに涙をこぼしてしまった。

「はあ、てことは、やってんだ。それじゃあまずいよ。早く誰かに相談してさ。一刻も早く、彼に手を出さないって、誓いの言葉を掛け軸に書いて、貼っておけ。」

「ごめんなさい。もう少し、しっかりしなければだめだと思うんですが、だけど、何もできなくてここまで来てしまって、、、。」

ちょっときつい感じで杉ちゃんがそう言うと、奥村千代子さんは、泣き出してしまった。

「泣いちゃだめ。そういうことは、ちゃんと、改めないとさ。美紀くんだって、そうなれば大きなキズを残してしまうことになるぞ。そうなる前に、お前さんが考えを改めなくちゃ。もう二度と、根性焼きはしないって、ちゃんと誓いを立てなくちゃ。ひどいときには、犯罪に繋がってしまうこともあるよ。」

「杉ちゃん、まず辛いんだねって受け入れてあげることじゃないかな。」

杉ちゃんの話を打ち切って、水穂さんが言った。

「は?それがなんだって言うの?だって、これは虐待とかそっちに繋がっちまう可能性もあるんだぞ。それに親だって子供だって、非常に大きな事デもあるだろうが。そう言うことはね、少々、厳し目に見たほうが良いんだ。」

杉ちゃんが言うと、

「でも、受け入れてあげないと、彼女は自分の思っていることで、苦しむことになるよ。だからまず、辛いんだねって、彼女に言ってあげよう。」

水穂さんは静かに言った。

「そうだけど。すでに、根性焼きをしたりしているんだからさあ。」

「いえ、大丈夫です。こちらの方に、そう言ってもらったらそれで十分です。あたしが思っていることなんて、やっては行けないんだから。やってはいけないことを願望にしているとろくなことがありませんよね。早く改善しなければと思っているんですが、それがどうしてもできないんです。」

杉ちゃんの言葉に、奥村千代子さんは言った。

「何だ、わかっているじゃないか。やってはいけないってちゃんと知ってるんだったら話は速い。それなら、保育園の先生や、お前さんのお母さんなんかに、ちゃんと話してだな。それで、育児のぐちをこぼせる相手を作れ。それが得られればだいぶ違うから。それで、美紀くんがいなければいいなんて言う悩みから遠ざかるようにしてもらえ。」

「杉ちゃん、でも、彼女はきっとそういう存在がいないんだと思うよ。もしかしたら、お母さんとも不仲だったとか、そういう理由があったかもしれないね。」

水穂さんは、杉ちゃんの言葉に、優しく言ってくれた。

「ほんなら本人に聞いてみようか。お前さんはお母ちゃんと仲が悪かったのか?」

杉ちゃんに聞かれて、奥村千代子さんは、こういうのであった。

「ええ、母とは、高校進学のときに、志望校が違っていて、それですごい喧嘩をしたことがあって。大学は卒業させてもらいましたけど、それ以降は殆ど連絡取ってなくて。それに母は、私を女で一つで育ててくれましたから、なかなか相談しようにもできないんです。」

「はあ、そうなんだねえ。お母さんとか、そういうものは、普通は、なんか諍いがあっても、直ぐに戻ってしまうものだけどねえ。ちょっとやそっと喧嘩したことがあっても、それはもう良いやってどっかで考え直すものなんだけどな。今の若いやつはそれもないか。」

杉ちゃんは呆れたというか、そういう顔で言った。

「まあ、おとなになって、年取ってくれば、わかってくると思うんだけどね。それが今はちょっと時間がかかるっていうか、どっかの専門家とか、そういうやつになんとかしてもらうとか、そうしてもらわないと、だめなやつが増えてきてるってことかな。そういう間に入ってくれるやつが、見つけにくい世の中になってるのかな?」

「見つけにくいことは無いと思うわ。だってこれだけインターネットとか発達してるのよ。だから、そういうのを専門にしている人の情報が直ぐにわかると思うんだけど。なんでありつけないのか、あたしも不思議だったわ。」

咲も、杉ちゃんに合わせてそういう事を言ったのであるが、

「そういうことなら、インターネットで直ぐに見つけて、幸せになれると思うんだけど、なんかそういう事やってくれるやつは、やたら増えているのに、幸せな顔してるやつは、減っているような気がする。」

と、杉ちゃんが言った。

「それで、お前さんは今は、仕事はできてるの?確かコーラスの伴奏やってるって言ってたよね。悩みのせいで、仕事も上の空で、なんて事無いだろうね?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「ええ、一応合唱団には居るんですけど、今は活動休止していて。」

と、千代子さんは答えた。

「はあ、なるほどね。それでは、余計に大前さんの悩みが増幅しちゃうんだろうな。そういうことなら、保育園に預けている間、ここに来て、ちょっと、悩みを誰かに話してみたらどうだろう?それでもしかしたら誓いの言葉を出せるかもしれないよ。」

杉ちゃんに言われて、千代子さんは決断した。

「わかりました。それでは、通います。」

その日から、千代子さんは、製鉄所に通い始めた。製鉄所と言っても、鉄を作るところでもなく、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をする部屋を貸し出す施設だった。千代子さんも、施設内で、勉強してもいいし、なにか仕事をしてもいいと言うことになったが、千代子さんのすることは何もなかった。他の利用者たちは、現在女性が利用しているのであるが、彼女たちは、通信制の高校と専門学校に通っている女性であって、一人は、もう子育てが終了してしまっているし、もうひとりはまだ15歳で、子育てには無縁の女性だったから、千代子さんの話を聞くのは、主に水穂さんが担当することになった。他の利用者たちは、15歳の利用者は正義感が強くて、虐待をする女性とは話をしたくないと言うし、もうひとりの利用者は、なんだか昔を思い出すようだと言って、千代子さんを相手にしなかったので。

千代子さんは、水穂さんに自分の話を聞いてもらっていた。水穂さんに千代子さんは、自分が母親にしてもらえなかった事をたくさん話した。学校のみんなと同じ柄のバスタオルが欲しかったのに、買ってもらえなかったこと、学校ではなくて、近所の温水プールへ行きたかったのに、学校のプールに行けと言われたこと。そういう思い出で、自分はこうだったああだったと語るのだった。お母さんに何もしてもらえなかったと言うけれど、彼女がもう少し、お母さんに優しくなってくれれば、というか、お母さんと彼女の間に、お互いの主張を翻訳してくれる人間がいてくれれば、こんな事態にはならなかったのではないかと思われるのだった。水穂さんは、それは口にしなかったが、でも彼女の話を聞いているとそういうところがあった。

その日も、奥村千代子さんは、一生懸命水穂さんに自分の悲劇を一生懸命話していた。水穂さんは、もう疲れてしまった顔をしていたが、彼女は、自分の話に夢中になっていてそれに気が付かなかった。彼女が、お母さんが自分をおいていって、仕事に行ってしまったと話したと同時に水穂さんは激しく咳き込んで、布団の上に倒れ込んでしまった。千代子さんがびっくりして、水穂さん大丈夫!といったので、直ぐに利用者が飛び込んできて、水穂さんに枕元にあった水のみの中身を飲ませた。これを飲んでしばらくすると、水穂さんは咳き込むのをやめてくれた。

「大丈夫ですか?」

千代子さんがそう言うと、

「父親は、どこに居るんですかね?」

水穂さんは細い声で言った。しかしそれ以上答えなかった。薬が効いて眠ってしまったのである。

「父親はどこにって、誰にも頼らないで、あたしは一生懸命生きてきたのよ。男なんて、あたしの母のときもそうだったけど、食いしん坊で悪いやつで馬鹿よ。それでは、なんの役にも立たないって、母が言ってたもの。だから私だって、男には頼らないで、一人でやろうと思ってたのに。」

千代子さんは、悔しそうにつぶやいた。

「それでは、ご主人とは別れてしまったんですか?」

水穂さんを介抱した年配の利用者が、そういう事を言った。千代子さんがええと答えると、

「そうなのねえ。あたしのときは、子供のこと考えると、やっぱり別れられないからって仲直りしたもんだけど、そうも行かないのかなあ。今の子は。そうやって、白黒はっきりできなくても、生きていかなくちゃいけないことって結構あると思うんだけど?」

年配の利用者が言った。

「あたしが尊敬している人の歌詞にもあったわ。」

と、若い利用者が言う。この利用者は実体験に乏しい年齢ではあるが、よく本を読んでいたため、そういう文学的な知識を持っていた。そういうのが氾濫しているのもまた困ったことでもあるが、でも若い世代に取っての道標になってくれる文学というのも、ある意味では、必要なのかもしれなかった。

「だから、何でも決着がつけるまで戦おうとか、そういう姿勢で生きちゃうと、辛いだけだから諦めようってことも必要なのよ。それもちゃんと覚えないと。だから、子供に根性焼きさせちゃうとか、そういう態度が出ちゃうんじゃないの?」

年配の利用者が、千代子さんに言った。千代子さんは、小さな声でそうねとだけ言ったのであるが、

「それもわかるようにならないと、子供を育てるってのは難しいわよ。例えば、同じ部屋に人間がひとり増えることになるんだもの。人間だもん、命令すれば何でも動くとか、そういうものじゃないわよ。だけど、思いがけないところで、嬉しくさせてくれたりしてさ。そういうことができるってのも、また、人間なのよ。」

年配の利用者は年配者らしく言った。

「あたしの主人だって、変な癖があってねえ。それをなんとかしてくれないかと思ったけど、一向に良くならなかったわよ。だけど、誕生日にケーキ買ってきてくれたりしてさ。だから、一緒にいようって思ったんだ。」

「おばあちゃんは幸せね。それなら、十分、幸せだったと思うわよ。」

若い利用者がそう言うと、おばあちゃんの利用者は、ただの年寄よなんて言うだけであった。

「ただの年寄か。あたしも、そういうことがわかるときが来るかしら?」

千代子さんが、そう利用者たちに言うと、

「くるというか、もう来てるんじゃないかしら。だって、あなたにはもう子供さんが居るんでしょ。それなら、その子をなんとかするっていう義務があるじゃないの。それなら、いつかわかるではなくてわかろうとする姿勢を持つことよね。それから、やっぱりね、女がひとりでどうのっていうのは、ちょっと問題があると思うのよね。まあ、結婚まで行かなくてもいいからさ、誰か、助けてくれる人というか、そういう人、作りなさいな。家の主人だって、このあたりどこまでわかっているか知らないけどさ。でも、一生懸命やってくれたから、それでいいかな。」

と、年配の利用者はいった。こういうところは亀の甲より年の功というべきなのかもしれないし、歳をとった人でないと、分からない情報なのかもしれない。

「まあ、おばあちゃんのご主人って、そんなに大雑把な人だったんですか?」

若い利用者がそう言うと、

「なになに、イヤダイヤダと言いながら、それでも一緒にいられるってのが本当の夫婦何だと思うわよ。それができるから、子供ができるわけでしょ。でもそれができる前に、今の子は、離婚しちゃうとか、なんというか、そうなってしまうのかなあ。まあ、年寄とはそこが違うところよね。まあ、お節介なおばあちゃんだけど、そういうおばあちゃんが今の世の中いてもいいかな?」

と年配の利用者は、にこやかに笑っていった。そうやって、いろんな事をゲラゲラ笑って片付けてしまうことができるおばあちゃんが、もしかしたら、彼女、奥村千代子さんのような女性に必要とされることになるのかもしれなかった。


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贅沢すぎる悩み 増田朋美 @masubuchi4996

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