第十八話 香月の過去

「……ごめん光莉。あたし、何か耳おかしくなったみたい」

 あの日。

 光莉に「話がある」と呼び出され、そこで告げられた言葉が信じられず、香月は笑みを引き攣らせながらそう言った。

 あり得ない内容だった。聞き違いでなければならない内容だった。どうもよっぽど疲れていたらしい。そうでなければ、あんな悪趣味で現実味のない冗談を、妹のように親しく育った幼馴染が口にしたことになる。

 声の震えを隠し切れず、香月は懇願する。

「ちょっと、もう一回言ってくれる?」

「お兄ちゃんのこと、好きにならないで」

 しかし希望は呆気なく潰え、光莉は今まで見たこともない冷たい眼差しのまま、さっきと全く同じ口調で繰り返した。

「私はお兄ちゃんのことが好きで、お兄ちゃんも私のこと好きでいてくれると思う。今まで何度も抱いて・・・くれたから」

 突き放すような、敵愾心さえ込められた口ぶり。そして倫理観を彼方へ消し去った狂気の内容。再び浴びせられた台詞に、香月の平衡感覚が打ち砕かれる。

 ふらりと体が傾ぎ、脚の力が抜ける。地面にへたり込んだ彼女を、光莉が暗い表情で見下していた。

「……兄妹だよね」

「だから何?」

「何じゃないだろッ!!」

 一言一言が、香月を打ちのめそうという敵意に満ちる光莉の声に、必死で抗いながら香月は叫んだ。

「兄妹でそんなことして、許されるわけないだろ! おかしいじゃないか!」

 情けないことに、腰が抜けて立ち上がれない。せめて香月は這うように光莉へ近づき、あらんかぎりの声で吠える。しかし、噛みつかんばかりの迫力を前に、光莉が動じる気配はまるでなかった。

「誰かの許しなんていらない。おかしいなんて言われる筋合いはない」

 香月の言い分に構うつもりなど微塵もない。そんな意志を体現するかのごとく、光莉は堂々とした姿勢で香月の前に立ち塞がる。射竦められた香月が声を失う中、光莉はなおも淡々と続けた。

「香月だってお兄ちゃんのこと好きなんでしょ。お兄ちゃんに惹かれる理由があるんでしょ。それとも香月もおかしいの?」

「だって、光莉は旭の妹で――」

「だから、それが、何?」

 年下の少女の言葉に、ただただ気圧される。香月が絞り出す反論が、言葉半ばで押し潰される。一語ごとに力を込めて吐き捨てた光莉は、冷ややかな眼光の中に僅かな怒りを滲ませた。

 香月が言えることは、最早何もなかった。半開きで固まったまま、ぴくりとも動かない口を無様にぶら下げたまま、光莉の視線を浴びる。

 何年も一緒に過ごしてきたとは思えない、未知で不気味な、隔意と侮蔑がそこにあった。光莉の言い分が理解できない香月の血の巡りの悪さを、憐れむでもなく蔑む眼差しだった。

「私とお兄ちゃんの邪魔をしないでね」

 動けない香月から、光莉は一歩離れ、そう告げた。一貫して静かな口調はしかし、清流や湖面を連想させるようなものとは程遠い。例えるなら抜き身の刀剣や、小さな毒杯のようだった。

 ――そうか、毒か

 声を失った香月の思考が、不意に得心が行ったように凪いだ。

 実の妹なのに旭に恋し、体の関係を結んで悪びれもしない精神性も。滑らかな肌に艶やかな紙、華奢な肩や腕にくびれた腰、年相応以上の膨らみを持った胸を併せた、男性を酔わせるその身体も。

 小暮光莉という少女は、旭にとって猛毒だったのだ。善良で理性的な彼をして、人の道を踏み外してしまうほどの。

 ようやく心が奮い立った。おぞましさに麻痺していた意識に、ようやく怒りが灯った。

 それはもう、手遅れだった。

「光莉っ……」

 顔を上げ立ち上がる。掠れる声で、香月は光莉の名を呼んだ。

 だが、そこにはもう光莉の姿はなかった。

「…………」

 逃げられた。いや、違う。終始見下されたまま、これ以上争う必要もないと捨て置かれた。痛いほどに理解させられた。

 今更ながら、涙が流れてくる。拭う気力もなく、瞬きのたびに零れる雫が、繰り返し香月の頬を濡らした。

 ずっと親友だと思っていた相手に裏切られ、想い人の未来を狂わされた怒りと、最後まで何も出来なかった自分自身に対する怒りで、涙はとめどなく流れ続けた。

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