Interlude03 警告

「あ、美鶴ちゃん! こんにちは」

 旭お兄ちゃんと買い物に行った五日後、金曜日。学校からの帰り道で、聞き覚えのある声に呼び止められる。

 無意識に固く閉ざした口元を解して、私は声のした方へ振り返った。

「こんにちは香月さん……ランニングですか?」

「体動かせって親がうるさくてさぁ~」

 返事のついでに投げかけた問いに、香月さんは億劫そうに目を細めながらぼやいた。

 彼女の服装は先日見たコートのような冬仕様ではなく、長袖ではあるが幾分薄手のジャージ姿だ。額にも薄っすら汗が浮いている。

「いいんじゃないですか? 旭お兄ちゃんもよくやってるみたいですし」

 当たり障りのないことを笑顔で述べつつ、内心はちょっと落ち着かない。旭お兄ちゃんに言うつもりはないけど、私は正直香月さんがちょっと苦手だった。

 だってこの人、多分旭お兄ちゃんのこと好きだし。

 そんな警戒心を面に出したつもりはなかったのだが、香月さんは何か察したのか、苦笑じみた表情で頭を掻いた。

「……んー、ところで美鶴ちゃん。折角顔合わせたついでに聞いて欲しいことがあるんだけど、いい?」

 断りづらい、嫌な切り出し方だ。思わず眉根を寄せてしまう。今度ははっきり気づかれただろうが、私はあくまでも驚いただけという体で、

「? いいですけど」

 と首を傾げる。

 ひょっとして、学校帰りの私を捕まえるために、わざわざランニングなんかしていたのだろうか。そんな疑念すら浮かんできてしまう。まさか、とは思うものの、旭お兄ちゃんのいないところで話しかけられただけでも、疑うには十分だ。

 果たして、香月さんは一つ頷くと、息を整えるように一度間を空けた。そして、睨むように強い目で私を見て、告げた。

「もしも美鶴ちゃんが旭のこと好きだとしても、告白とかしない方がいいよ」

 平然と、何の感情も籠っていない声で、香月さんは私に言った。レンズの向こうの目が、銃口のように鈍く輝いていた。

 息が詰まる。すぐに言い返すことができなかった。どんな気持ちで香月さんに相対すればいいか分からなかった。

「何でそんなことを?」

 まだ感情の置き場が分からないまま、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 そんなことを言われる理由がまるで分からなかった。私が旭お兄ちゃんに惹かれていることを見抜かれた理由――はまだ分からなくもないが、彼女がわざわざ旭お兄ちゃんの妹の私に、普通は無用な警告をしてきた理由も分からないし、それら全部を抜きにして、そもそもそんなことを言われる筋合いもない。

 考えているうちに、ふつふつと怒りが湧いてきた。その勢いで睨みつける私に、香月さんは癇に障る薄笑みで答える。

「言い返せなくて後悔したことがあるから、かな」

「……?」

 疑問に思い改めて観察すれば、香月さんの表情は自嘲しているようにも映った。ますます意図が読めない。つい無言で首を捻ってしまった。

 あまり無言で見つめ合っていたくなくて、私は確認のようなつもりで尋ねてしまう。

「香月さんて、旭お兄ちゃんのこと好きですよね?」

「んえっ!?」

途端、素っ頓狂な声が香月さんの口を突いて出た。私の方も、言った次の瞬間には後悔していた。彼女が認めようとはぐらかそうと、どちらにせよいい気分にはなれないだろうと分かっていたのに。

 香月さんは頬を赤らめながら俯き気味になり、目を泳がせて「あー」とか「うー」とか唸っている。これ以上の説明は必要ないくらい雄弁だったけど、私がそれを伝えるより先に、

「んまぁ、好きだけど……」

 分かり切ったことを、わざわざ教えてくれた。案の定、胸が苦い気持ちで一杯になる。聞こえよがしに溜息をついて、私は大きくお辞儀した。

「だと思いました。じゃあ私はこれで失礼します。あまり遅くなると、旭お兄ちゃんが心配するので」

 単に無愛想な態度を作ったつもりではいたけど、意識した以上に棘のある声が、私の口から滑り落ちた。

 旭お兄ちゃんの友達なのだし、険悪にしたいわけではないのだけど、今日の話題の後で物分かりの良いフリはできないみたいだ。

「美鶴ちゃん!」

「はい?」

 香月さんから離れると、少し強い口調で呼び止められた。やはり冷淡に返事をしながら振り返る。

 彼女は、遠くから私を見ていた。とびきりの渋面で、私を睨んでいた。

「……やめときなよ、告白とか」

「そうですか」

 あくまで他人事を聞き流すように、いい加減な相槌を返す。また顔を背けて家へと足を向ける。

 その背中にもう一言飛んできた。

「傷つくのは旭だから。絶対駄目だよ」

 一瞬、立ち止まって彼女を問いただしたくなった。その衝動を抑え込んで、私は歩き続けた。

 旭お兄ちゃんの何を知っているつもりだろう。そう反発しようにも、実際彼女は私なんかよりずっと旭お兄ちゃんと付き合いが長くて、私の知らない旭お兄ちゃんを知っている。それが悔しかったし、歯痒かった。羨ましかったし、競うのが怖かった。同じ土俵で争えば、きっと負けてしまう気がした。


 だけど、私は旭お兄ちゃんの妹だ。

 光莉さんに瓜二つで、だけど光莉さんとは違う妹だ。

 旭お兄ちゃんは私の中に光莉さんの姿を見ることに苦しんでいて、私は光莉さんと違う行動を選ぶことができる。そうすることで、光莉さんそっくりな私が旭お兄ちゃんの妹であることの苦痛を、取り除いていくことができる。

 なら――いいじゃないか。いいはずだ。

 私の想いは、恋心は、私と光莉さんが違う人物だという何よりの証になるはずだから。

 だから。


「私、旭お兄ちゃんのことが好き。大好き」


 私は焦っていた。

 香月さんに先を越される可能性に目を奪われて、立ち止まる必要を見落としていた。香月さんの警告の意味を深く考えず、旭お兄ちゃんの過去を深く知ろうとせず、私の気持ちが報われる道筋だけを見ていた。伝えても良いと信じられる要因だけを拾い集めていた。

 悪夢にうなされたときと同じ悲鳴を上げる旭お兄ちゃんを目にして、私は自分の犯した過ちに気づいた。


 私と、光莉さんの犯した過ちを知った――

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