Interlude01 私の恋心
私はお兄ちゃんのことが好きだった。
私のお父さんは、昔は普通の優しいお父さんだった。それがおかしくなったのは、小学校の三年くらいの頃だったと思う。
仕事に行かなくなったお父さんは、いつも家で落ち込んでいた。ほとんどいつも自分の部屋に籠っていて、そうかと思えば、たまにすごい大声を上げながら嵐のように暴れ回った。物を壊し、私やお母さんに手を上げた。とても怖かったのを覚えている。
お母さんがいるときはかばってくれた。だけど、お母さんはお父さんの分まで仕事をしなければいけなかったから、家にいない時間も長く、その間は私とお父さんの二人きりだった。お父さんを避けるように部屋に隠れて、だけどずっとそうしているわけにもいかないから時々部屋を出て、そういうときに限ってお父さんが暴れ出したりするのだ。
今にして思えば、お父さんの暴力は理性的だった。狡猾と言ってもいいかもしれない。怪我をするようなことは殆どなく、痛みと恐怖だけを与えられた。そのくせ時折我に帰ったように、私やお母さんに謝り倒して落ち込むのだから、見放すことも出来なかった。
それでも結局何年か経って、お母さんはお父さんと別れた。もうお父さんの機嫌にビクビクしたり、怖い思いをしなくていいのだと思うと嬉しかった。
それが、お兄ちゃんとの別れを意味しているとしても。
いつの頃からか、私の傍にはお兄ちゃんがいた。
お父さんに怒られたとき、叩かれたとき。学校で嫌なことがあったとき、一人ぼっちで部屋に隠れているのが無様に思えたとき。お兄ちゃんは必ず現れて、私の孤独に寄り添ってくれた。
と言っても、お兄ちゃんは本当に存在したわけではない。お兄ちゃんは私をかばってくれなかったし、私に何も言ってくれなかった。触れることさえしなかった。誰も、私だってお兄ちゃんの姿を見たことはなかった。ただそこにいることが、私にだけは感じられた。
何もしてくれなくても、一緒にいてくれるだけで、私にとっては心強かった。
「お兄ちゃんがいるから大丈夫だよ」
お父さんと二人きりになることを心配したお母さんに、そう打ち明けたこともある。当然というか、お母さんは戸惑ったようだった。余計に心配かけちゃったな、と反省したのを覚えている。
数年間、ただそこにいるだけのお兄ちゃんに救われる日々を過ごして、私はお父さんと離れて生活するようになった。
お母さんがお父さんと別れ、私とお母さんの二人で暮らすようになってから、お兄ちゃんは現れなくなった。そのこと自体は寂しくなかった。お兄ちゃんが現れるのは私が辛い思いをしているときだけで、一方的に支えてもらうことに申し訳なさもあった。心配をかけなくてよくなったのなら、それに越したことはないと、架空の存在相手に思ってさえいた。
ただ、助けてもらうばかりで何も返すことができなかったのが、心残りでもあった。
その後、中学に入って少し経った頃に、私は自分にとってお兄ちゃんがどれほど大きな存在だったのか知ることになる。
「
そんな不恰好な告白をしてきたのは、同じクラスの三木谷くんだった。特別格好いいわけではなく、目立たない方ではあったけど、細かいことに気が回る優しい男子だった。
善い人だった。少なくとも当時の私が知っている範囲で、彼の善性を疑う要素はなかった。
けれど。
「ごめんなさい」
迷わなかったわけではない。それでも彼の告白を断るまでに、あまり長い時間はかからなかったように思う。
理由は単純だった――お兄ちゃんの方が素敵だった。そう感じたのだ。
顔も声も知らないのに。何をしたわけでもないのに。
それでも。もし、かつてのお父さんに脅かされる日々に、私の隣にいたのがお兄ちゃんではなく三木谷くんだったら、あの頃の私はあれだけの安心を得られただろうか。そう考えると、自ずと答えは決まっていた。
同時に、強く思い知った。私にとって理想の相手は、その基準は、今はもうどこにもいないお兄ちゃんなのだと。
私は、お兄ちゃんに恋をしていたんだと。
それからさらに何年か経ち、お母さんが再婚することになった。相手の男性はお母さんの学生時代の同級生で、二年ほど前に奥さんを事故で亡くしたのだという。その亡くなった奥さんも、お母さんの友人だったのだとか。
新しいお父さんができることは別にいい。心配だったのは、その男性の連れ子、新しく兄になる人のことだ。
当たり前だけど、新しい兄はかつてのお兄ちゃんとは違う。その当然を、私はどれくらいきちんと呑み込めるだろうか。かつてのお兄ちゃんのような優しさ、安心感。そんな求めても仕方がないものを求めて、困らせたりはしないだろうか。
実際に顔を合わせてみるまで、そう思っていた。
「初めまして。小暮旭です」
一目見たときに、新しい兄とお兄ちゃんの影が重なった。
顔も声も、姿も知らなかったのに。人となりも、好みも、私を何て呼ぶのかさえ知らなかったのに。旭さんの誠実そうな面差しや佇まいは、まるで長年彼が私をすぐ傍で支えてくれていたように錯覚させた。
一目惚れとはこういう感じだろうか。少なくとも、このとき私は運命というものを信じていた。
私の心が、実態のないお兄ちゃんを理想として定めたのは、旭さんと出会うためだったのだ。
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