第十六話 決壊

「……えっと」

 幾度か旭がグラスを傾けた頃になって、美鶴がようやく声を発する。彼女と目を合わせ、無言のまま旭が続きを促すと、美鶴は何故か緊張が透けて見える表情で、微かに肩を震わせた。

「?」

 やはり不自然な態度に、疑問が拭えない。それでも美鶴を遮ろうとは思わなかった。どうあれ彼女の話を聞くことを最優先に、旭も姿勢を正して真っ直ぐ美鶴を見つめた。

「……その、旭お兄ちゃんはさ」

「僕?」

 切り出し方からして、旭の話題が重要だったのだろうか。ますます疑問を深めながらも、相槌以上の反応は控える旭に、多少は緊張が解けたらしい美鶴は続けて、

「香月さんと、その、付き合ったりはしてないんだよね?」

「んん!? してないけど!?」

 思わずせかけた旭が、目を白黒させながら半ば叫ぶように答えた。

「だ、だよね」

 旭の勢いに気圧されたか、美鶴はこくこくと小刻みに頷いている。その様を見ながら、旭の胸中に苦い予感が湧いた。

 年頃の女の子だし、色恋に興味があるのは当然なのだろう。一方で、自身の過去を思えばあまりまともなアドバイスはできないし、まして経験を語るなどは不可能だ。

 かと言って、彼の懊悩を知る術があるはずもなく、美鶴はなおも話題を変える気配はなく続ける。

「じゃあさじゃあさ、もし香月さんに告白されたらどうする?」

「東雲が、僕に?」

「だって香月さん、旭お兄ちゃんのこと好きだよ?」

 胡乱そうに問い返してみたが、美鶴は勢いそのままに告げた。咄嗟に有耶無耶にし損ねた旭が、苦虫を噛み潰した顔で押し黙る。

 どういうやり取りの末に美鶴がそう予想したのは定かではないが、あり得ないと言い切るほど、旭の恋愛観も世間から乖離していなかった。

 何と言っても付き合いが長い。これだけ長い間交友関係を保っているのだから、まぁ想いを寄せられていてもおかしいとは言えないだろう。

 逆に言えばそれだけ長い間進展がなかったとも言えるが、美鶴の死後、未だに立ち直ったと言い難い旭を相手に想いを打ち明けられていない、という可能性もなくはないか。

「……どうするだろうね」

 と、そこまで思考を巡らせたところで、旭は投げやりにも思える回答を告げた。誤魔化していると感じたか、美鶴が非難めいた視線を投げるが、旭はあくまで真剣な表情を崩さず、

「正直、他の誰より気安い異性なのは確かだし、嫌いなわけでは決してないよ。けど、恋人らしい何かをする僕らを、少なくとも今は想像できない。告白されることもだけど、何よりその先のビジョンがない」

 隠し事などないことをアピールするように、両手を開いて左右に広げる旭が続ける。

 美鶴の眼差しも変わらない。なお追及の色を緩めない瞳を前に、旭は気が進まない様子で付け加えた。

「……いざ実際に告白されたら、また気持ちも変わるかもしれないとは思う」

 そして、今度こそこれで全部、という意思を込めて、空っぽの掌をひらひら振った。

 美鶴は引き続き無言だった。熟考するかのような沈黙に、旭もそれ以上は何も言わず、彼女の結論を待つことにした。

 しかし、美鶴が急にこんなことを根掘り葉掘り聞きたがるようになった切っ掛けが、心底気になった。勿論、香月とのやり取りが原因だとは思うのだが。

 単に旭にとって身近な異性だったから、美鶴が香月に、旭との仲について問いただしたという可能性もある。だが、後から直に旭を質問攻めにするくらいなら、初めから旭の方に聞きそうなものだ。

 逆に、香月から美鶴にアプローチした結果だとしたら。その場合、香月は美鶴に一体何を尋ねたというのだろう。

 例えば、旭の女性関係を聞き出そうとした――恐らくないだろう。そもそも香月自身が頻繁に旭と会っているのだ、彼女に知られまいとしている交友関係を、美鶴なら知っていると考えるとは思えない。

 ならば、香月が美鶴に告白の手伝いをさせようとした? まさか、そんな変化球を好むタイプとは思えない。百歩譲ってそうだとしても、香月の行動がそれに相応しいとはとても思えなかった。

「そっか……」

 他には、と別の可能性を手繰ろうとしていたところで、唐突に美鶴が小声で短く零した。思考の海から引き揚げられた旭は、瞬き一つで現実に焦点を合わせる。その目を美鶴へ向ける。

 美鶴は淡く微笑んでいた。それは旭の優柔不断な答えに呆れたようでもあり、安堵しているようでもあった。

 胸がざわついた。

 我知らず唾を飲み込んでいた。そんな自身の抱いた戦慄に戸惑う旭を余所に、美鶴は続けてもう一言。

「よかった」

「……何が?」

 思わず問い返していた。問い返さずにはいられなかった。

 嫌な予感に、脳が急速に回転を上げていく。美鶴の返答を待たずして答えを暴き出そうと、脳の内側で絶えず光が行き来する。

 思えば、美鶴は最初に『香月と付き合っていない』ことを確認した。『付き合っているのか』と問いはしなかった。その違いに意味はなかったのだろうか。

 ――おにぃちゃん……すき

(あり得ない! あってたまるか!!)

 瞬間、懐かしい告白の幻聴が聞こえた。激しく否定する心はしかし、同時に別の可能性へ線を伸ばし始める。

 もしも、もしも美鶴の不可解な言動が、香月の旭に対する好意を知った結果なのだとして、美鶴がそれを知る切っ掛けとなったのはどちらなのか。

 美鶴から尋ねたのなら、まだ分かる。一方で香月の方から美鶴に伝えたとしたら、それは何のためか。

 先に考察した通り、美鶴を告白の足掛かりにしようとしたとは思えない。他に理由があるとしたら……例えば、先を越されないよう釘を刺した、とか。

 思いつきはしたものの、それこそあり得ないと一蹴する。血の繋がりはないとはいえ、美鶴は旭の妹だ。よしんば美鶴が旭に想いを寄せていたとして、旭の方がそれを相手にすると考えるはずが――

(――けど、もし)

 自走する思考は、それ以上進むべきではないとブレーキを踏む心を置き去りに結論へ辿り着く。

 それが最悪の可能性だと分かった上で、辿り着いてしまう。


 もし香月が、旭と光莉の仲を知っていたとしたら。


 ぶつん、と何かが切れる感触があった。

 何も矛盾はない。繋がってはならない線が、全て矛盾なく一本に繋がってしまった代償に、他の何かが失われた感覚が、残酷なほど重く圧し掛かってくる。

 可能性が真実である証明などどこにもない。ただ、その可能性に気づいてしまったこと自体が、呪いのように旭の胸を蝕んだ。

 せめて。せめてそれが誤りであることを願って、旭は美鶴を見た。旭が怒涛の勢いで思考を走らせている間に、彼の問いへの答えを用意した美鶴が、今しもそれを紡ごうとしているところだった。

 縋る眼差しの兄に、美鶴は告げる。

「旭お兄ちゃんが、まだ香月さんのこと、異性として意識してないみたいだから、良かった」

 聞き違えることを許さぬように、一言一言を噛み締めるように、美鶴は答えた。

 旭が凍りつく。突きつけられた事実が受け入れられず抗っているのか、口の端が無様に痙攣していた。

 美鶴の双眸が旭を捉える。熱っぽく潤んだ瞳が揺れている。

 見たことのない輝きだった。否。見覚えのある輝きだった。忘れられない輝きだった。

 最愛の妹が兄を映した瞳の色。旭の罪を映した色。旭が兄でなくなったことを知らしめる、色。熱。思慕。二度と目にしないはずだったものがそこにある。

 どこで間違えたのだろう。どこまで戻ればやり直せる。今からどうすれば。何をすれば、何を言えば、この過ちを取り消せる。何かあるはずだ。なければならない。まだ、今なら間に合う、どうにかなる、どうにか――


「私、旭お兄ちゃんのことが好き。大好き」


 酷く醜い悲鳴を聞いた。

 足を必死で動かし、その悲鳴から逃れるように走る。息が上がるのも構わず、がむしゃらに走り続けた。なのに悲鳴は、いつまでも旭の耳に纏わりつく。どこまでもついてくる。

 途中から分かっていた。それが旭自身の悲鳴だということに。いつもの、悪夢にうなされたときの悲鳴だ。ならば、旭が見たのは悪夢だったのだろうか。

 ああ、悪夢だ。夢から醒めることさえ許されない、逃げ場のない最悪の悪夢だ。

 幾ら走っても、逃げられなかった。美鶴の言葉が、いつまでも記憶の中で反響していた。

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