第十三話 望まぬ邂逅

 美鶴と別れて数分。

 意外にも広いハンカチ売り場を、旭はゆっくりと練り歩く。未だコレという一品は見つけられていない。

「これだけ数があるのになぁ……」

 一人ごちてみるものの、実際には数が多いからこそ、目を通したつもりで見落としているものがあるのではとも思ってしまう。事実、ちょっと目がチカチカしてきた。

 目頭を手で押さえる。かと言って、音を上げるつもりはない。自分なりに選別を頑張らなければ、美鶴の気遣いと期待を裏切ることになる。

「……おっ」

 とその時、深い緑が視界を過った。視線を戻し、そのハンカチを手に取る。

 芝を思わせる地味な色合いの、絞り染め風の柄だ。生地の風合いも柔らかい。全体的に落ち着いたデザインでありながら、どことなく遊び心のある不規則な柄には魅かれるところがあった。

 何となく、美鶴が選びそうにはない柄だ。

「これは候補に加えるか」

 少し満足そうに口元を緩め、一度開いたハンカチを畳む。

 その彼の背が、突然叩かれた。

「!」

「あーさひっ! 何やってるんだよこんなとこで」

 不意を突かれて驚くと同時、香月の声が聞こえた。慌てて振り返ると、香月は不審がるでもなく、気さくな笑みで彼を見上げている。

 反射的に、旭の表情が硬くなる。この場にいるのを見られたからではない。予期しなかった遭遇、準備なく迎えるこの後の展開を思い、焦りが湧き上がった。

「東雲……」

「女もののハンカチなんか探してるの? ひょっとして妹ちゃんへのプレゼントか何か?」

 迷惑というほどでもないが、周囲にはっきり聞こえる声で喋り出す香月を見下ろし、旭は落ち着くよう自分自身に念じつつ、

「いや、母さんの方。もうすぐ誕生日なんだ」

「ほうほう……ってことは、妹ちゃんも一緒に来てたりするの?」

「ああ来てる」

 続く問いかけに肯定を返す。どうしても気が急いた。

 はっきりとした確信はないにしても、香月も旭の様子がどこかおかしいことには気づいたらしい。初めて訝るように眉を顰めながら彼女が黙ったのを、好機とばかりに旭が続けた。

「東雲。先に聞いておいて欲しい。その妹のことなんだけど――」

 ――が、遅かった。

「旭お兄ちゃん、その人お知り合い?」

 彼らのやり取りが聞こえたのか、或いは遠目に旭が誰かと話している姿が見えたのか、美鶴が近寄ってきた。背後からかかった声に、背筋が凍るのを止められなかった。

 旭の目の前、いや眼下で、香月が小さく息を吞むのが聞こえた。鉛を飲み込んだ気分で、旭はゆっくりと美鶴に向き直る。

「美鶴」

 ただ呼びかけるには不必要に強く、彼女の名を呼ぶ。その声音に圧を感じて、美鶴は体を強張らせた。

 彼女を怯えさせる可能性があることを承知の上で、香月に投げかけた牽制。功を奏したとは言えるだろう。それでも、願った結果には程遠かった。

 香月にそれとなく注意を向ける。彼女は言葉もなく、愕然とした様子で美鶴を凝視していた。初対面の人間が見せたただならぬ形相に、美鶴は不安げに旭を見つめる。

 苦渋を滲ませる嘆息をひとつ、旭は美鶴の眼差しに応えた。

「美鶴。こいつは東雲香月。昔から、長い付き合いの友人なんだ」

 敢えて同じ意味の言葉を、強調するように二度重ねた。美鶴もそれで、香月が示す反応の理由を察したらしい、驚きを浮かべて目を瞬いた。

 当たり前だが、いい気分はしないだろう。そう思うとともに、こんな形での邂逅を防げなかったことを激しく悔いる。また一方では、香月の反応を責める気持ちもあった。

 常識で考えて、光莉が生きているはずなどないのに。

「東雲。この子が僕の今の妹の、美鶴。黙ってないで挨拶くらいしてくれ」

 咳払いを挟み、旭は次いで香月の方に、少し強い口調で告げた。気つけのつもりで、頭を軽く小突く。硬い手応えとともに、香月の頭が揺れた。

 なお応答が鈍い香月に、旭が思わず苛立ちを面に出しかけたそのとき、

「あ、えと、初めまして。小暮美鶴です」

 先に美鶴の方が、名乗るとともにぺこりとお辞儀をした。下げた頭を、様子を窺うようにゆっくりと上げる美鶴だったが、それでも香月の返事はないままだ。

 いい加減、もっと強い調子で怒った方がいいだろうか。そんな迷いとともに、ひとまず二人の間に割って入ろうとした旭だったが、寸前になってようやく香月が口を開く。

「……初めまして」

 のろのろと頭を下げ、同じ速度でまた上げる。ぼやく声に張りはなく、眼鏡の下の両眼には生気がない。ただ機械的に挨拶を返しただけと分かる有様だ。

(流石に、これ以上一緒にいさせない方がいいな)

 そう判断せざるを得なかった。旭は険しく眉根を寄せ、香月の肩を掴む。適当な口実をつけて別れよう、と彼は言葉を探す。

 クス、と失笑が聞こえたのはそのときだった。反射的に振り向くと、美鶴が困ったような笑みを浮かべて、一歩香月に近寄ってきていた。

「私、そんなに光莉さんに似てるの?」

「っぇえ!?」

 あまりにも想定外だったのだろう。美鶴から放り投げられた問いに、香月の沈黙は木っ端微塵に砕け散った。旭も同じような反応だ。開いた口が塞がらず、滑稽な表情で美鶴の顔を見つめるばかりだ。

 動きを止めた旭と香月の間を縫うように、美鶴がさらに一歩進む。微笑はそのまま、少し屈んで香月と目の高さを合わせようとする彼女の姿に、吊り上がっていた香月の肩がゆっくりと下がっていった。

 呆れたのか、自嘲か、能面のようだった香月の表情が少しだけ緩む。

「びっくりして言葉が出ないくらい似てる」

「やっぱりそうなんだ。旭お兄ちゃんも時々そんな反応する」

 投げ捨てるような口ぶりで香月が答えると、美鶴は悪戯っぽく笑いを交えて頷いた。気にしていない、と態度で示そうとしているかのようだ。

 痛いところを突かれて唇を噛んだ旭の方へ、香月の目が向けられる。

「え~? 駄目じゃないか旭。大事な妹ちゃんにそんな態度とったら」

「うるさいよ。東雲だって人のこと言えないだろ」

「だってあたしは妹ちゃんがどんな顔してるか知らなかったし。先に話しておいてくれれば、心の準備くらいしたのにさ」

「んぐ……」

 またも痛いところを突かれ、口ごもる。それを見て、香月はますます増長した笑みを浮かべながら、ちらりと美鶴を横目に見た。

「一緒に暮らして結構経つはずなのに、まだそんな反応するのは良くないと思うなぁ。ねぇ美鶴ちゃん?」

 わざとらしく親しげに話してみせることが、香月なりの謝意の表れなのだろう。さっきまでとは打って変わって気安い口調に少しばかり鼻白んだものの、美鶴もそれを察した様子で肩を竦めた。

「あんまり責めないであげてね。旭お兄ちゃんだってわざとじゃないんだから……そりゃあちょっとは傷つくけど」

 半眼でぼやいた彼女だが、すぐに屈託のない笑顔に変わる。つくづく胸に刺さる言葉ばかり投げかけられた旭は、静かに冷や汗を流さずにはいられなかった。

 ただ、二人のやり取りを見ていて、気になることもあった。少しばかり意趣返しのような気持ちも込めて、旭は美鶴に注意を向ける。

「ところで美鶴、ひょっとしたら勘違いしてるかもしれないけど」

「? 何?」

「東雲は僕と同い年だよ」

 平坦な調子で放たれた指摘に、香月は胡乱げに首を傾げる。

「そんなのわざわざ言わなくても、ねぇ?」

 小馬鹿にした口ぶりで、彼女は美鶴に水を向けた。対する美鶴は、大きく見開いていた目をそっと逸らし、

「う、うん、もちろん、分かってますよ」

 ぼそぼそと呟きながらしきりに頷く彼女の横顔に、香月と旭の細い眼光が突き刺さった。

「……え、嘘だよね。冗談だよね」

「そのダボ袖コート姿じゃ、子供が背伸びしてるようにしか見えないだろうしな」

 二人が続けざまに口を開く。美鶴の反応に愕然とする香月と、もっともらしく腕を組みながら美鶴を擁護する旭。そんな声に、美鶴は居心地悪そうに体を傾け、少しでもその視線から遠ざかろうと試みる。

「嘘じゃないです。ちゃんと年上の方だって分かってます」

「急に敬語にならないでよ! さっきまで普通にタメ口だったの、もしかして年下だと思ってたからなの!?」

「違いますし! 中学生みたいなんて思ってませんし!」

「中学!? そんな幼く見えるわけないだろ!」

「だから思ってないですって!」

 徐々にヒートアップする二人を、少し距離を置いて見守る。その最中、旭は自分が無意識に微笑んでいることに気がついた。

 光莉が生きていた頃、香月との仲も良かったとは思う。けれど、二人がこんな風に喧々諤々の言い争いをしていたのを見たことがない。今の美鶴と香月のようなじゃれあいが見られるのは、新鮮で少し楽しかった。

(とは言え、周りに迷惑が掛かる前に止めなきゃな)

 既に手遅れかもしれない使命感を抱えつつ、旭は叫び合う二人に近づいた。

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