第十話 日曜の予定
「今日のお昼は、私とお父さんが茹でたスパゲティです」
数時間の休眠を経てリビングに呼び戻された旭に、得意げな美鶴がそう告げた。
父は無言。そして隣では晴美が沈鬱な面持ちで目を伏せ、
「これくらいでよくそんなに威張れるわね……」
押し殺した小言はしかし、美鶴には届かなかったらしい。誇らしげに胸を逸らす姿勢は微動だにしなかった。対して優斗の方は多少堪えたらしく、物言わぬまま目を泳がせた。
二人で麵を茹でる、というのも逆に器用な気がするが、もしかすると優斗の方は見ていただけという可能性もあるな、と旭は見て取った。無論、単に美鶴一人で事足りたということかもしれないが。
ともあれ、晴美の厳しい態度に失笑しつつ、
「ありがとう美鶴。よくできました」
「ふふん、褒められちゃった」
「実食の結果によっては評価が下がります」
「急に厳しい……」
感謝と称賛を投げかけた途端、「甘やかすな」と言わんばかりの眼光が晴美の方から飛んできた。胸中で苦笑しつつもう一言付け足すと、美鶴は綻ばせていた口元を一転して引き結び、能面のような表情でぼやく。
市販のパスタソースを和えて皿に盛りつけ、完成。全員で手を合わせて食べ始める。茹で時間はきちんと守れていたようで、いい具合のアルデンテだった。
「どう?」
緊張も露わに美鶴が訪ねてきたので、旭は黙って親指を立てて見せる。彼女は安堵とともに晴美へと目を移し、晴美は呆れ混じりに頷き返した。
そんな和やかな昼食が終わるかという頃のことだった。
「ところで旭お兄ちゃん。急なんだけど、明日って暇?」
「いや、特に予定はないよ」
唐突に投げかけられた問いに、旭は食後のコーヒーを口にしつつ応えた。
何か用でもあるのだろうか。何となく察しながらも、わざわざ問い返す必要は感じず待つ。案の定、美鶴は間を空けずに、
「駅ビルに服見たりしに行こうかなって思ってて、もしよかったらだけど、一緒に行かない? 旭お兄ちゃんが見たいお店とかあれば付き合うし」
そう提案してきた。意外そうに眉を上げた旭は、思案するように顎に手を当てる。
「駅ビルかぁ。そろそろ本屋は見に行きたかったし、そういうことなら一緒に行こうか」
「ホント?」
「うん。荷物持ちくらいするから、買い物が嵩張っても大丈夫だよ」
嬉しそうに美鶴が確認を求めてきた。微笑みながら旭も頷く。
しかし彼の台詞に、美鶴はどこか困ったような笑みを浮かべた。おや、と思う間もなく、彼女は小さく首を振って言葉を返す。
「気持ちは嬉しいけど、別に服買うわけじゃないよ」
「……ん?」
予想だにしなかった応答に、旭は目が点になってしまう。傍らで聞いていた優斗も同じような反応だ。他方、晴美は心当たりがあるらしく、苦笑とも自嘲ともとれる微妙な笑みでそっぽを向いた。
「あー……一人親の頃にあんまり贅沢させてあげられなかった弊害なんだけど。この
「安上りでいいでしょ。それに、どういうのが流行ってるのかは一応知っておきたいってだけで、別に流行りものが着たいわけじゃないし」
痛ましげな声音でぼやく母に対し、美鶴はやや唇を尖らせながら言ってのけた。
旭と優斗は、あまりに突然の衝撃に口が半開きのまま固まった。何というか、美鶴は割と活発で今風の少女だと認識していただけに――その認識の内容自体、大いに偏見があったが――侘しいとさえ思える行動と発言に、すぐさまリアクションが取れない。
何とか先に正気を取り戻した旭は、言葉を選びながらぎこちなく語りかける。
「その……我慢とか節約してるなら、あまり気にし過ぎる必要はないと思うよ? 普段着以外におしゃれのための服が欲しいなんて、自然なことだし」
「あ、ああ。ひょっとしてお小遣い少ないか? もしそうなら言ってくれれば……」
「いや、私だっておしゃれ着くらいちゃんとあるし。そんなしょっちゅう着るものでもないし、いちいち流行を追いかける気がないってだけで」
二人の様子があまりに真剣なせいか、美鶴の口調もやや硬い。それでも彼女は、おどけるように肩を竦めて、
「わざわざお金かけるなら、むしろ普段着をちょっと良くするとか、文具類を買い足すとか」
「実用に偏り過ぎてる……」
慄くように旭が呟く。すぐ隣の父は、「それについてはお前も人のこと言えんだろうに……」と小声でぼやいていたが、無視。
「他には何かないの? 欲しいものとか、したいこととか」
つい踏み込んで尋ねる旭に、美鶴は少し考える素振りを見せた。しばし間が空いて、答える。満面の笑みとともに、
「んー、フグとか~、カニとか~?」
「そう来たか……」
「急に風向き変わったな……」
半ば以上無意識に後退りしつつ、旭と優斗が小声で戦慄を零した。晴美は晴美で口元の苦笑を濃くしていたが、敢えて口を挟む気はないらしい。
美鶴は、自らの発言について深く気にする様子はなかった。本心ではあるし、一方で実現が難しいことも分かっている。だからといって実現不可能というほどでもなく、期限もない。言うだけ言うくらいいいじゃないか、程度の気持ちだった。
が、不意に旭が表情を緩めて、わざとらしく鼻を鳴らす。彼は父の肩をぽんと叩くと、言い聞かせるような声で言った。
「でもそういうことなら、そのうちフグチリとか出してもいいんじゃない? たまの贅沢ってことで」
「あ、カニじゃないんだ」
と、これまた悪気なく発した美鶴の呟きに、旭の肩が微かに跳ねた。余計な一言を悔いて口を手で押さえる美鶴を余所に、旭の脳内を値札と家計簿が駆け回る。
無論、小暮家の家計を支えるのは社会人である両親だ。しかし日々の買い物の多くを担う旭だって、当然ながら家の懐事情はある程度心得ている。食材の店頭価格も同様だ。
「……フグチリとか、いいんじゃないかな」
短くない沈黙を経て、再度そう言った。
カニは駄目だった。
二度目のフグチリが妙に重苦しく感じられたのは、果たして錯覚だろうか。思わず固まる美鶴と対照的に、旭は何度か小さく頷いている。そして、やおら優斗の方へ向き直った。
「鍋はいいよ。準備も片づけも楽だし」
「それはいいけど、何故こっちを見る」
言い知れぬ圧に、優斗の頬を汗が一筋流れ落ちた。
「大事よね、楽なのって。いくら料理に慣れてたって手間は手間だし、簡単なら簡単な分誰にだってできるし」
「いいよね、鍋。とてもいい」
旭どころか、いつの間にか優斗の隣に移動していた晴美までもが調子を揃えて語り出した。その目は優斗だけでなく、美鶴にも向けられている。結託した母と息子に挟まれて、残された父と娘は心中を共有するかのごとく視線を交わした。
リビングが謎の重さに支配されかけた中で、不意に旭は笑い声を零した。
「まぁ冗談はさておいて。とにかく明日のお出かけのことは分かったよ」
「え? あ、うん。はい」
彼が向けた話題が、そもそもこの会話の発端だったことを思い出すのに、美鶴は少し時間を要した。何とか相槌を絞り出したものの、不自然に二度頷いてしまう。
おかしそうに笑みを浮かべながら、旭が続けた。
「荷物が大きくなっても大丈夫だから」
さっきも聞いた言葉を、念を押すようにもう一度。それも彼なりの優しさだと分かっているからこそ、美鶴は面映ゆそうに体を揺すった。
「うん、分かった」
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