第九話 両親の帰還
示し合わせたのか偶然か、両親は翌朝、揃って帰宅した。
「ごめんね二人とも~! 特に旭くん、美鶴が何か迷惑かけなかった?」
「お母さんホント私のこと何だと思ってるの!? かけてないし!」
開口一番、そんな心配を口にした晴美に、美鶴が頬を膨らませて食ってかかる。そんな彼女の頭を優しく撫で、優斗がフォローに入った。
「そうだな。旭の相手をしてくれてありがとう、美鶴」
「むふー」
途端、これ見よがしなドヤ顔で胸を張る我が子を、晴美は微笑ましさの混じる苦笑で見やる。それから旭の方に目をやって、ふと表情を曇らせた。
「……あれ、旭くん? 顔色悪い?」
「何かあったか?」
晴美の言葉で気づいたらしい、優斗も遅れて心配そうに旭の顔を覗き込む。対して、旭は誤魔化すわけでもなく苦笑で首を振り、
「嫌な夢見たせいで、その後寝つけなかったんだ。後で昼寝して調整する」
「そう? 無理はしないでね」
嫌な夢、という言葉である程度察したらしい。不安そうにはしつつも、晴美はそれ以上追及せずに引き下がった。
旭は感謝を込めて小さく頷き、
「何か食べる? 僕と美鶴は朝ごはん済ませちゃったけど、パンとシリアルは買い置きあるよ」
「いや、大丈夫だ」
「分かった。お風呂は今沸かしてるところだから、沸いたら入りなよ」
「やだ、どこまで気が利くのこの子……」
優斗とのやり取りに、晴美が感涙に咽ぶポーズで顔に手を当てる。大げさな、とは思うものの敢えて言及しないでいると、美鶴も腕組みして頷き始めた。それ以上かける言葉も見つからず、旭は軽く肩を竦める仕草を見せた。
そんな三人を見回した優斗は、再度旭に注意を向ける。
「ありがとう。掃除や洗濯は父さんたちでやっておくから、眠れるようなら休んだらどうだ?」
「あー……ええと」
水を向けられた旭が目を泳がせる。少し間を開けて、その視線は美鶴に向けられた。
意図を濁した、不安の眼差し。対する美鶴はそれに、胸を張って力強く頷く。
「心配しないで。私だって掃除洗濯くらいちゃんとできるの知ってるでしょ」
「安心して旭くん。ちゃんとお昼の準備までさせるから」
「……おおぅ」
母に釘を刺され、途端に萎れて肩を落とす美鶴の姿に、思わず旭が吹き出した。そんな彼の反応を目にした晴美と美鶴も、ホッと頬を緩める。
「うん、じゃあ任せるよ。全然上手くならないし、父さんも使って」
己が父を示しながら、旭は美鶴たちに頷く。憮然とする優斗を余所に、美鶴と晴美は示し合わせたわけでもないのに二人同時に親指を立て、
『オッケー!』
母娘の呼吸に、たまらず旭はもう一度吹き出してしまう。傍らでは優斗が愕然と顎を落としていた。ぴたりと息の揃った二人とは対照的だ。ここまで旭と父の呼吸が揃ったことは、恐らく今までなかったように思う。
――光莉と母はどうだっただろうか
ふと過った疑問から逃げるように小さく頭を振って、旭は踵を返した。部屋へ向かう背に、晴美が一言問う。
「お昼の用意ができたら起こしてもいい?」
「うん、お願い」
肩越しに振り返り頷くと、晴美はそれに頷き返した。それを確認してから、旭はリビングを去る。
彼の足音が遠ざかるのを待ち、さらにしばらく経つまで、残った三人は無言を保ったまま立ち尽くす。十分に待ってから、最初に口を開いたのは優斗だった。
億劫そうな溜息に続き、彼は美鶴の方へ目をやって、
「仕方ないのかもしれないけど、旭のアレは中々治らないな……すまない美鶴、迷惑かけただろう」
眉間に皺を寄せて唸る父に、美鶴は首を横に振る。ただ、彼女の表情にも陰がある。不安か、もしくは口惜しさからか、口元を渋く歪めて応えた。
「ううん全然。でも、心配しかできないのは正直ちょっと嫌だな……」
「……かといって、あまり深掘りするのもね」
晴美の口調も、美鶴と同じく苦い。優斗にしても穏やかならざる気持ちは同じだ。
彼にとっては同時に、美鶴に対する後ろめたさもある。旭が昔の家族のことを引きずっているのは、美鶴も承知だろう。光莉のことにも思い当たるはずだ。姿が似ていることは理解の上としても、重ねて見られて気分がいいはずはない。
簡単に吹っ切れないとは思っていたが、美鶴の容姿を知った上で、彼女の兄になると決断したのは旭だろうに、いつまでも美鶴を傷つけるような振る舞いを続ける息子に苛立ちを感じないこともない。そうは思っても、結局強く叱るような覚悟はまだ持てないままだ。
居心地悪く嘆息して肩を落とす優斗に、晴美も物憂げに寄り添う。そんな二人を見やりながら、美鶴は今日の朝食の会話を思い出していた。
「昨日はごめん」
そう口火を切ったのは旭の方だった。まったく同じ言葉を告げるつもりでいた美鶴は、予想外の事態に言葉を詰まらせる。
顔を伏せて謝罪した旭は、顔を上げると続けて、
「大丈夫って言ったのに結局取り乱して、本当に悪かったと思ってる。ごめん。我慢させて心苦しいんだけど、やっぱりまだしばらくは、「お兄ちゃん」って呼ばないでいて欲しい」
一息にそう言い切ると、彼はもう一度頭を下げた。
意表を突かれ咄嗟に返事ができなかった美鶴だが、どうにか頭を回転させるべく深呼吸。少し遅れながらも、彼女は口を開いた。
「悪いのは私だよ。旭お兄ちゃんに無理させてるかもって、分かっててお願いしたから。ごめんなさい」
こちらも面を伏せて言う美鶴を、旭はやはり後ろめたそうに見やる。彼女ならそう言うだろうと予期していた様子だ。
息を吐きながら首を振り、
「美鶴は悪くないよ……けど、お互い様ってことにしておこうか。否定しあっても決着つかないだろうし」
自嘲と等分ながらも、笑みの混じる表情で旭が零した提案に、美鶴も苦笑を浮かべながら首肯した。
彼女の反応を確かめた旭は、次いで間合いを外すように目を逸らした。おや、と美鶴が注意を引かれた瞬間、再び旭の目が彼女を捉える。迎え撃つ視線に、数瞬とはいえ萎縮させられてしまう。その隙を突くように、旭がまた語りかけた。
「それと、昨日のことは父さんや母さんには黙っておこうと思う」
「い、いいけど。何か理由があるの?」
「経緯はどうあれ、美鶴が「お兄ちゃん」って呼んだこと、母さんが知ったら怒るかもしれないから。こういうことに関してはあの人、結構美鶴に厳しそうな気がする」
尋ねれば、遅滞なく答えが返ってきた。予めその問答を想定していたような、淀みのない口ぶりだ。
彼の見立ても尤もではある。反論はない。ただ、美鶴は彼の返答そのものでなく、このやり取りで抱いた違和感に歯噛みしたくなった。
言葉の選び方、間の取り方、話の運び方。それら全てに感じた『駆け引き』の気配は、家族としての距離から一歩遠いところにある。旭との間に薄紙のごとき壁が一枚生まれたこと、そうなるきっかけを作ってしまったことが、酷く悔やまれた。
「……そうだね。分かった」
そんな失意をせめて顔には出さないよう努めながら、美鶴は小さく頷いた。
そう示し合わせたのが、両親が帰ってくる一時間ほど前。旭の顔色が悪いことには気づいた二人も、当事者たちが口を噤めば、その理由に思い至れるはずもない。
隠し事をする罪悪感はある。けれど、旭は黙っていて欲しいと言った。それは彼自身が語ったように、美鶴の立場を案じたためでもあるだろう。
だが一方で、「お兄ちゃん」と呼ばれて取り乱したこと、もしくはそう呼んでもいいと一度は告げたことを知られたくないのではないか。美鶴はそう感じていた。無論、理由までは分からないが。
「…………」
旭が美鶴から距離をとった――ように思えるのは、美鶴の兄としての立場を保つためなのだろう。これ以上醜態を晒さないよう、美鶴と光莉を重ね合わせる機会を減らせるよう、ほんの一歩距離を開いた。美鶴はそう理解した。
納得がいかないわけではない。けれど、同時にこうも思う。
旭が美鶴の善き兄であろうとしてくれるのと同様に、美鶴もまた善き妹であろうとすべきではないか、と。
たとえそれが、かつての旭と光莉の仲とは違ったものであったとしても。いや、むしろその方がいいのだろうか。どちらにせよ、そのためには美鶴からの歩み寄りが必要なはずだ。
「……よしっ」
己を鼓舞するように、両手で頬を軽く叩いた美鶴は、彼女の突然の行為に目を丸くしていた晴美と優斗を見上げて言った。
「じゃあ私、掃除機かけておくから、二人はお風呂入って着替えておいでよ。洗濯はその後の方がいいでしょ」
「あ、うん、そうね」
想定外にはきはきと提案する美鶴に驚きつつも、晴美は相槌を打った。傍らでは優斗も同じく頷いている。
折よく、給湯器がお風呂が沸いた旨をアナウンスしてくる。それを聞き流してリビングを後にしようとした美鶴だったが、何かに思い至ったかのように足を止めると、両親の方を――否、優斗の方を振り返った。
「あと、お掃除の後でいいんだけど、お父さん」
「何だ?」
呼びかけられて、優斗は首を小さく捻りながら尋ね返す。
美鶴は周りを気にする素振りで視線を巡らせたかと思うと、声を落として、
「掃除とか終わったら、ちょっとお話しよ。旭お兄ちゃんのこと聞きたいの」
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