第八話 悪夢
ある昼下がり。
特に用事もなく、旭はリビングで一人、本を読んでいた。読み返すのも何度目かになる小説、見知った物語をゆっくりと目でなぞっていく。
時折彼がページをめくる以外、何も音の無い静寂。それを破ったのは、とたとたと階段を下りてくる足音だった。
おや、と顔を上げた直後、背後から誰かに抱きつかれた。肩の後ろから腕を回され、旭の顔の真横にもう一つ、顔がにゅっと突き出される。
目を向けずとも、こんなことをするのは一人しかいない。苦笑を噛み殺し、彼は妹の頭に手を伸ばした。少し荒っぽく撫で、
「どうしたの、急に」
尋ねてみても、答えはない。猫のように喉をごろごろ鳴らしたかと思うと、今度は腕を引いて横を向くように促してくる。仕方なく応じると、今度は満足げに正面から抱きついてきた。旭の胸板に頭を押し付けてくる妹に半ば呆れながら、彼女の頭をぽんぽんと叩く。
「今日は何? 甘えんぼモード?」
からかう響きも込めて再度問いかける。すると、ぐりぐり擦りつけられていた頭が動きを止めた。幾らかの静止を経て、彼女はゆっくりと顔を上げると、下から旭の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん」
「何?」
呼びかけにただ応える。自分に向けられた無邪気な丸い目を、同じように疑いなく見つめ返す。旭がもう一度妹の髪に指を潜らせた瞬間、
「いつもみたいに、名前で呼んでよ」
凄まじい絶叫を聞いて飛び起きた。
起きてから、それが自分の悲鳴だったことに気がついた。
鼓動は乱れ、脂汗が流れ落ちる。意識は一瞬で覚醒していた。普段なら、目が覚めれば夢の内容などすぐに忘れてしまうのに、今見た夢は忌々しいほど鮮明に脳裏に焼きついている。
懇願されるあの瞬間まで、自分はじゃれついてくる妹を、一体誰と認識していたのか。
自問。そして自己嫌悪。同時に、自分の中でかけがえのない何かが壊れたような喪失感。押し寄せる感情の波に、酷く吐き気がした。
「くそっ!」
胸に溜まったどす黒い何かを吐き出したくて、ベッドを殴りつけ悪態をつく。
が、荒っぽくぼやいた瞬間、部屋のドアのあたりで物音がした。驚きとともに、ベッドサイドのライトを点ける。薄明りに照らされて、ドアの隙間から覗き込む美鶴の姿が浮かび上がった。
思わず息を呑んだ。が、旭は溜息とともに全身の強張りを解くと、どうにか平静を装って、
「ごめん、起こした?」
「……たまたまお手洗いに行った帰りに、すごい声が聞こえたから」
「……驚かせてごめん」
身を縮めて美鶴が応えたが、どこまで本当か。いずれにせよ心配をかけたことを改めて痛感し、旭はベッドから降りて彼女の方へ歩み寄る。
大丈夫、と言っても安心させられるはずもなく、結局彼は首を竦めながら、
「ちょっと、夢見が悪かったんだ。心配かけちゃったね」
暗がりの中、見上げる美鶴の表情ははっきりとは読み取れない。それでも、言葉を探るような息遣いは、兄を気遣う気配が感じられた。それを察しつつ、旭はドアをそっと押す。
見方によっては、美鶴を拒むように。
「寝直すよ。美鶴もお休み」
囁くように告げてドアを閉じようとした旭だったが、美鶴はそれに抵抗した。むしろ体を挟むようにしてドアを押し返し、旭をなおも見上げ続ける。
旭は眉を曲げ、言葉を探す。そんな彼の手がドアを離れると、美鶴もまたドアに添えていた手を離し、旭の方に伸ばした。シャツの端をちょこんと摘まみ、僅かに引っ張る。
唾を呑み、幾度も躊躇を吐息として漏らしながら、美鶴は一歩、また一歩と旭に近づいていった。
旭は動けない。自分から距離を詰めることも、彼女から離れることもできず、拒むこともできず、その場に縫いとめられる。
「……お兄ちゃん」
腕を伸ばせば抱きつけそうなくらいすぐ傍で、蚊の鳴くような声で美鶴が呼びかける。か細い声にも関わらず、耳にした瞬間、旭の背筋がみっともなく震えた。自らの醜態に歯噛みするしかない。
「お兄ちゃん」
「…………」
さっきよりも少しだけ強く、美鶴の声。怖気を堪えるように全身を強張らせた旭の顔色を少しだけ見上げて、彼女は口元にあるか無きかの苦笑を浮かべた。
そして、旭のシャツから手を放した。
「……ごめんなさい」
一歩下がって、美鶴が呟く。言下に覗いた寂しさや諦めに、僅かに遅れて気づいた旭が愕然と目を開く。
「まっ――」
「引き留めてごめんね。もう部屋に戻って寝るね。お休みなさい、旭お兄ちゃん」
呼び止めようと腕を上げかけた旭から、美鶴はさらに一歩離れる。旭の足が前に進む前に、さらに一歩。下がりながら、後ろ手にドアを開けて、美鶴は部屋から廊下へ足を下ろした。
追いかけようとして、しかし旭の足は動かない。上体が僅かに傾ぎ、指先が揺れ、それでもそれ以上美鶴に近づけない。静止の言葉すら、喉に詰まって出てこなかった。
凍りついた旭を余所に、美鶴の姿がドアの向こうに消える。ぱたん、と乾いた音を立てて、彼女と旭の間が隔絶される。
閉ざされたドアの前で立ち尽くしていた旭は、それからしばらくして、幽鬼のような足取りでベッドへと戻っていった。糸が切れたようにベッドに座り込むと、力なく項垂れる。寝転がるでもなく、そのままの姿勢で再び動きを止め、無音のままに時間が流れていく。
変化があったのは、十分以上も経ってからだ。
「……ぁァッ!」
嚙み殺した声で吐き捨てるとともに、固く握りしめた拳を己の太ももに叩きつけた。微かな音を立てて、鈍い痛みが走る。それでも、自らに向けた憤りが晴れる気配はまるでない。
――お休みなさい、旭お兄ちゃん
去り際の美鶴の言葉が、頭の中で反響する。
彼女の、妹の期待に応えられなかった証。彼女が「お兄ちゃん」と呼ぶことを諦めた、旭が諦めさせた証。
もう我慢しなくていい。そう告げたはずなのに、その約束を反故にしてしまった。そんな己があまりに情けなく、腹立たしかった。
「くそっ……なんで、この程度でッ……」
呪うように、誰にともなく呟いて、旭は片手で目元を覆った。もう片方の手で、もう一度脚を殴りつける。堪えきれず漏れ出した嗚咽が、陰々と部屋に響く。
取り返しのつかない過ち。どうにもならない挫折。自責と後悔に胸を焼かれながら、彼は力なくベッドに倒れこんだ。
重力に引かれ、涙が流れ落ちる。縋るようにシーツを握りしめた彼は、口から零れた瞬間解けて消えるような小声で、
「……何で僕は、美鶴の兄になれるなんて思ったんだ……」
初めて己の選択を、心の底から恨んで吐き捨てた。
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