第七話 「お兄ちゃん」

「ごめん。本当にごめん。けど、お願いだから、別の呼び方をしてくれないか?」

 そう、必死で体の震えを押さえつけながら、旭は掠れる声で言った。

 目の前で晴美が、そして美鶴――初めて会ったばかりの、新しい妹が目を丸くしている。当の旭自身だって、自分の反応に驚きを禁じ得なかった。

 まさか、美鶴に「お兄ちゃん」と呼ばれただけで、光莉と同じ呼び方をされただけで、意思とは無関係に体が動かなくなるなんて、想像していなかった。

「「お兄ちゃん」以外なら、何でもいいから。だから、ごめん……」

 込み上げる吐き気を、必死の形相で堪える。只ならぬ雰囲気に、晴美と美鶴、それに優斗は互いに顔を見交わした。

 晴美も美鶴も、光莉のことは既に聞かされていた。彼女の見た目と声が、美鶴とそっくりであることも。ただ、美鶴の姿を見たときでも声を聞いたときでもなく、彼女が呼びかけた途端に旭がこんな反応を返すとは思っていなかった。

 緊張に満ちた表情で、美鶴が唾を呑む。案ずるような母の視線に視線で応え、彼女はその目をゆっくりと旭に向ける。

 探るように、

「……旭さん」

「……うん」

 直前までのショックは抜け切らない様子だったが、それでも少しは和らいだ表情で旭が頷く。一方、美鶴はなおも神妙な面持ちで続けた。

「旭くん」

「うん、それでもいい」

 二言目に、彼はもう一段明るさを増した顔で再び頷いた。それでも、美鶴の表情は対照的に物足りなげだ。自ら口にした呼び名がしっくりこないようにも見える。

 悩む素振りで沈黙する彼女を、他の三人が見守る。ややあって、彼女は逸らしていた目を旭へと戻した。

 ゆっくりと口を開く。

「「旭お兄ちゃん」、は駄目?」

「ちょっ……!?」

 最初に反応したのは、旭ではなく晴美だった。目を見開いた彼女は、美鶴の口を手で塞ごうとして止め、次いで旭の顔色を窺い見る。優斗も声は出さなかったものの、息子を凝視しながら半歩横に体をずらし、美鶴と旭の間に割って入れるように身構えていた。

 三人の注目が集まる中、旭は自分の胸に手を当て、ゆっくりと呼吸する。敢えて閉じていた両目をゆっくりと開くと、真っ先にその目を美鶴の双眸に重ねた。

「いいよ」

「いいの!?」

 旭の承諾。途端に美鶴が表情を輝かせた。呆気にとられたように目を瞬かせる晴美と、安堵して肩を落とす優斗、二人の様子など気にも留めず、美鶴が旭の両手を取った。

「じゃあ、旭お兄ちゃん! 旭お兄ちゃんって呼ぶね! あ、私のことは好きに呼んで」

「うん、じゃあ「美鶴」でいいかな」

「もちろんっ」

 破顔する美鶴と、微笑みながら呼び返す旭のやり取りを、大人二人は少し離れて見守る。二人は揃ってもう一度安堵の息を吐いた。

「……最初はどうなるかと思ったけど」

「……ひとずは、どうにかなったかな」

 小声でそう交わし、旭と美鶴へ視線を戻す。

 両親の前で、初めて兄妹になった二人は、今日まで別々に過ごしていた時間を取り戻すように、熱心に語り合っていた。


 そんな出来事も、もう何ヶ月も前だ。

 激しい懊悩が窺える美鶴の顔を見下ろし、初めて彼女に「お兄ちゃん」と呼ばれた日を思い出し、旭は苦い気持ちになった。

 申し訳ないと思いながらも、美鶴に光莉の姿を重ねずにはいられなかったあの日。少しでもその影を遠ざけたくて、「お兄ちゃん」と呼ばないでくれと頼み込んだあの日。

 あの日から、我慢を強いていたのだろう。他ならぬ旭が。美鶴に。

 ――あの子にとって『お兄ちゃん』っていうのは、特別な存在なのよ

 晴美の言葉が蘇る。初めて会ったときには知りもしなかった、美鶴の『お兄ちゃん』に対する拘り。それを、今の旭は知っている。

 気づけば無意識に、旭は美鶴の肩に手を置きながら、もう一方の手で彼女の頭を撫でていた。

「ごめん。今まで、そう呼びたくても呼べなくて、辛かった?」

「……ううん、そんなことないよ。旭お兄ちゃんに嫌な思いして欲しくなかったし」

 否定の言葉を紡ぎながらも、視線は旭の目を避けて下を向く。分かりやすいな、と胸の内だけで呟きながら、同時に言外の答えに申し訳なくもなった。

 ぽん、ぽんと繰り返し美鶴の髪を撫でながら、

「美鶴。いいよ。「お兄ちゃん」って呼んでも」

 そう伝えると、彼女はすぐには反応しなかった。言われたことを反芻するかのような無言の間を置いて、唐突に顔を上げたかと思うと真ん丸の眼で旭を見つめてきた。

「えっ……えっ! ホント!? 何で!?」

 余程信じ難いらしい。必死に問う彼女だったが、旭は平静を装いながら彼女の握り拳をそっと包んで諫め、やはり落ち着いた声音で言い聞かせる。

「多分、もう大丈夫だから、かな。美鶴とも、母さんとも一緒に暮らすようになって結構経つし、あの時より気持ちも落ち着いたから」

 ある程度誤魔化しつつ、そう伝えた。

 美鶴は、なおもしばらくは戸惑い露わに硬直していた。だが、それも無限には続かない。ゆっくりと緊張を解いた彼女は、兄を見上げたまま微笑を浮かべた。

 そして、

「…………お兄ちゃんっ」

「うん、ここにいる」

 縋るように差し出された手を握って、旭は頷いた。今にも泣きそうなほど目を潤ませながら、美鶴が破顔する。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

「うん。どうしたの?」

「呼んだだけっ」

「そっか」

 触れた手が握り返してくる。絡まる指の感触を、温もりを感じながら、旭は呼びかけられるままに相槌を打った。

「……本当に、いいの? これからも「お兄ちゃん」って呼んでいい?」

 それでも、美鶴はなおも不安げに確認してきた。それだけ、初日の印象が強かったのだろう。我ながらみっともないところを見せたな、と自嘲が過るが顔には出さず、旭は再度首を縦に振る。

「いいよ。もう我慢しなくていいよ」

「~~~っ!!」

 美鶴は声にならない歓喜を漏らし、今度は旭の体に縋りついてきた。さすがにこれは予期できず、勢いに押されて一歩下がる旭に構わず、彼の胸に顔を埋めた美鶴がくぐもった声で言う。

「……お兄ちゃん、ありがと」

「これくらい、何でもないよ」

「ありがとう、お兄ちゃん……ありがとう」

 同じ言葉を繰り返す美鶴をあやすように、背中を撫でてやる。すすり泣く声が微かに聞こえたが、言葉をかけるよりも、落ち着かせるように何度も背中に、肩に触れた。

「ぐすっ……ずっと、ずっと」


「ずっと、こうしたかった……」


「……うん」

 途中、聞こえてきたそんな言葉に、それでも旭は短く相槌を返すだけ。

 その意味を糺すのは、きっと今ではない。そう漠然と考えながら、彼は無心に妹をあやすことに勤めた。

 普通の兄が、幼い妹にそうするのと同じように。


 夕食を済ませ、美鶴を風呂へ送り出してその後。リビングに一人残った旭は、ソファーに深く身を預けていた。

 美鶴の声が、記憶の中で反響する。そのたびに、指が何かを求めて小さく震える。

(違う)

 声にはせず。断じて声にはせず、旭は自分自身に訴える。

(美鶴は違う。光莉とは違う。僕が汚した妹とは違う!)

 傷口を抉るように、痛みを楔にするように、何度も何度も自分に向けて繰り返す。再び過ちを犯さぬように、かつての咎を克明に思い起こす。

 ――或いは、誰よりも何よりも愛しかった少女の影を、他の何かに塗り潰させまいとするように。

 それでも。


   ――お兄ちゃん


「ッ!?」

 その声を思い出すだけで、脳みそが揺さぶられる。あの熱が。汗ばんだ肌の感触が。乱れた息遣いが。理性を蝕む匂いが。記憶を辿って過去から浮上してくる。

 指が耳が鼻が唇が、過去の情報に侵され、引っ張られる。あの甘さを思い出す。あの至福を、歓喜を、劣情を、それをぶつける躍動を、吐き出す快楽を、受け止められる安堵を、一つ一つ、紐を解くように思い返す。

 そして閉じたままの瞼の裏に、光莉の姿が――

「ぉぇっ」

 猛烈な吐き気に、思わず手で口元を覆った。幸い、裏返りかけた胃はすんでのところで落ち着きを取り戻す。

 反射的に見開いた目は、意味もなく付けっ放しにしていたテレビを捉える。箱の中で流れる映像の内容が、混乱した脳は全く理解してくれない。痛いほどに早鐘を打つ心臓さえ、自分のものではないかのようだ。

 微かに滲む視界の中、恨みがましく眼前を睨みながら、彼は思う。

(僕は、今度こそちゃんとした兄になる。そう誓った。そう決めた。そうならなくちゃいけない……!)

 唸るように、叫ぶように自分に言い聞かせ――それでも。それなのに。

(……なれるのか、こんな僕が。「お兄ちゃん」なんて呼ばれただけで、こんな風になる僕が)

 覚悟も弱音も、決して声には出さない。

 それでも、不安と自らへの失望は、鉛のように重く旭の背中に纏わりついて離れなかった。

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