第六話 二人きりの夜
それからしばらく経った。
平日は家族三人の弁当や食事を作ったり家事をしたり、たまに出かける日々が続いた。それとともに、家にいるときは極力、美鶴の要求は聞いてあげるように心掛けた。流石に食事の準備をほったらかしたりはしなかったが、ゲームの誘いにも応じるようにしていた。
「旭お兄ちゃんつよーい!?」
対戦すると大体旭が勝ってしまうのだが。かといって手加減しても拗ねてしまうので、次の機会には協力プレイのゲームを薦めた方がいいかもしれない。
休日は、普段旭がやっている分ということで、食事の準備は休ませてもらっている。代わって担当してくれているのは主に晴美だ。
彼女の方が料理は上手だ。手際も良いし、味も美味しい。勉強させてもらう傍ら手伝おうと思ったこともあったが、晴美が台所に立つときには、基本的に美鶴が隣に立っている。と言うか、立たされている。
「ほらっ、ちゃんと野菜切って。あ、ちょっと、指! 包丁使うときはちゃんと丸めなさいって言ったでしょ!」
「急かさないでよ、慣れてないんだから!」
「何言ってんの、毎週やってんだからいい加減慣れたでしょ」
「あーもう、お母さんスパルタ!」
こんな調子でなかなか賑やかなので、旭まで加わると収拾がつかなくなりそうだ。たまに苦笑いしたくなることもあるが、基本的に黙って遠くから見守るようにしている。
ちなみにたまに
そんな風に過ごしていた、とある金曜日のことだ。
「帰れない?」
『そうなのよ。この雪で電車止まっちゃって』
夕方、自宅で電話を受けた旭が復唱した言葉を、電話口の向こうで晴美が肯定した。
窓の外に目をやる。数日前からこの冬一番の大雪が予想されていたが、果たしてその通りの光景が広がっていた。辺り一面真っ白な上、今なお雪が舞っている。
「まあ、無理はしないで。こっちは大丈夫だから」
渋面になりながらも、声には出さないよう努めて、旭は呼びかけた。
隣で聞き耳を立てている美鶴も、彼の言葉からやり取りの内容は察しているらしい。不安そうな顔で見上げてくる彼女を落ち着かせるように、そっと髪を撫でる。
『ごめんねー、明日の朝には帰るつもりでいるから』
「分かった。母さんも、泊まる場所は早めに探した方がいいよ。同じような人も多いだろうし」
『ありがとう、そうするわ。また帰るときには連絡するから』
「うん。あと、美鶴と代わる? すぐ傍にいるけど」
『あー、そうね。じゃあ代わってくれる?』
旭が水を向けると、晴美がそう応えてきた。彼は美鶴の目に視線を合わせると、もう一度頭をぽん、と叩いて、受話器を差し出す。言わずとも彼の意図が伝わり、美鶴は受話器を受け取った。心なしか嬉しそうにも見えた。
「もしもし、お母さん? ……うん、聞いた。うん、大丈夫だよ」
受話器に向けて話し出した美鶴から一旦目を離し、旭はポケットから自分のスマホを取り出した。少し前に父と交わした、メッセージアプリの履歴を確認する。
気のせいなどではなく、出張に出ていた父も大雪で足止めを食らい帰れなくなった旨が、そこに記されていた。
「うん。分かってる、ちゃんとしてるって……お母さんしつこい。はいはい、うん、お母さんもね。じゃあね」
眉間の皺を指で押さえている間に、美鶴の通話が終わったらしい。短い電子音とともに、美鶴が陰鬱そうな溜息を吐いた。
咄嗟に表情を和らげて、旭は尋ねる。
「母さん、何だって?」
「旭お兄ちゃんにあんまり迷惑かけないように、ちゃんと大人しくしてなさいって」
美鶴はというと、不機嫌そうに唇を尖らせながらぼやく。しかし、直後にハッとして受話器を差し出し、
「って、ゴメン切っちゃった! 大丈夫だった!?」
「いや、こっちは必要なことは話し終わったから、大丈夫だよ」
慌てる彼女から受話器を受け取り、電話機に戻しながら旭は笑う。恥ずかしさもあってか少し赤くなりながら縮こまった妹をもう一度撫でた彼は、その目を窓の方へ向ける。
つい先ほど見た時と変わらない、いや、むしろこの短時間でさらに強くなったようにすら思える降雪を目にし、彼は億劫に息をつく。
「……お父さんも、帰ってこれないんだよね」
美鶴が小声でそう言うのを聞き、背筋を叩かれたような衝撃が走った。
不安なのだろうか。そうだとして、何が不安の原因なのだろうか。瞬時に様々な考えが頭を巡る。黙考の末、旭は探るように尋ねた。
「やっぱり、母さんがいないのは不安?」
ぴくりと美鶴の肩が跳ねた。彼女は弾かれたように旭に向き直り、首を振りながら、
「ううんっ、そんなことないよ!」
力強く否定が飛んできた。
旭も敢えて追及はしない。だが、ぎこちない笑顔でそう告げる彼女の言葉を、額面通りに捉える気にはなれなかった。
微笑で頷いた彼は、引き続き柔らかな声音で問いを重ねた。
「何か、僕にして欲しいことはある?」
再び美鶴の肩が揺れる。驚いた表情で旭を見つめ、二度三度と目を瞬かせた。無言で小さく首肯する兄の姿に、彼女は逡巡を見せた。
黙りこくって下を向く美鶴の隣で、旭は静かに佇む。そんな彼の袖が不意に引かれた。顔はまだ上げないまま、美鶴は蚊の鳴くような声で呟く。
「……その、一個、お願いしてもいい?」
「いいよ。言ってみて」
二つ返事で旭が頷くが、なおも美鶴は躊躇いを見せた。言いづらそうに何度も口を開きかけては閉じを繰り返し、旭に目を合わせたかと思うと視線を宙に泳がせる。
そんなに頼みづらいことというのは、一体何なのだろう。旭の方も内心身構えてしまう。それでもあくまで沈黙を守って待つ彼に、長い長い葛藤の末、美鶴は再び声を絞り出した。
「あの、あのね」
「うん?」
「……「お兄ちゃん」、って、呼ばせて欲しい」
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