第五話 もう一人の兄
あの後、ほどなくして帰ってきた父も交えて家族全員で夕食を食べた。
夕食の後は美鶴に手伝ってもらいつつ後片付け。皆が順次お風呂に入り、最後に入った旭は髪を乾かしてリビングに出る。
食卓に晴美が一人でいた。机には氷の入ったグラスと、焼酎の紙パック。その彼女が旭に気づいた。微笑みながら手招きし、
「旭くんも一緒にどう?」
「少しだけ付き合うよ」
そう応じて、旭は台所へ向かった。自分の分のグラスを出すと、焼酎を少し注いで、水で割る。
晴美が一人で酒を呑んでいるのを見るのも、それに付き合うのも初めてではない。未成年の美鶴は勿論、父の優斗もあまり酒には強くないため、家では滅多に吞まなかった。そのため、晴美が酒を手にするのは大抵食後、皆が自室に入った後だ。旭は偶に、そんな彼女の相伴に与っている。
水割りを作る手つきを見ていた晴美が、どこかからかうような響きで笑った。
「そんなに薄めるんだ」
「飲み慣れてないから。まだ二十歳になって半年も経ってないんだよ」
「お酒の飲み始めなんて、飲み過ぎて失敗するのが当たり前みたいに思ってた。旭くんは大人だねぇ」
おどけるように肩を竦めた旭に対し、晴美はどこまで本気か分からない調子で嘯く。反応に困り、旭は曖昧に笑った。
彼女と同じ席についたものの、実際のところどう話題を切り出すか、旭は決めかねていた。そんな彼の心中を知っていたわけでもないだろうが、晴美が先に彼に語りかける。
「旭くん。いつもありがとうね、美鶴の相手してくれて」
「……特別感謝されるようなことは、何も」
意表を突かれながらも、旭はゆっくり首を振りながら穏やかに応える。付け加えるように、
「僕は、今は美鶴の兄だから」
半ば自らに言い聞かせるような口ぶりだったが、それでもはっきりと告げる彼を、晴美は嬉しげに見つめる。
ただ、そこで彼女は少しだけ眉根を寄せると、真剣味を増した声で旭に問いかけた。
「旭くんは美鶴から、あの子の前のお兄ちゃんの話は聞いた?」
「前の、お兄ちゃん?」
今度こそ完全に虚を突かれた旭は、おうむ返しに問い返した。
彼の反応そのものが雄弁な答えだ。晴美は少しだけ居心地の悪そうな溜息を吐くと、その感情を押し流すようにグラスを傾ける。
父と再婚する前に、美鶴は一人っ子だと晴美から聞かされていたことを覚えている。或いは、別れた元夫の方に引き取られた息子がいたのだろうか。だが、それなら美鶴を指して「一人っ子」とは言わないだろう。
無言で説明を促す旭の双眸。それを真っ直ぐ受け止めた晴美は、諾意を示すように小さく目を伏せた。それでも少しばかりの間、彼女は無言で氷を揺らしていた。
「……私の前の夫の話も、したことなかったわよね」
「うん」
「まぁ、昔は良い人だったのよ。普通の人とも言うでしょうけど。美鶴とも私ともそれなりに仲良くやって、普通に働いて、並みの給料貰って」
平坦な、感情を押し殺した声。本人にとっても、思い出したくない内容もあるだろう。それでも、彼女の語ろうとする意志を感じて、旭は短い相槌で続きを促した。
「それがね、仕事でトラブルがあって。多分本人が悪かったことも、そうでなかったことも一緒くたに押し付けられて、辞めさせられちゃったのよ。それがショックだったんでしょうね。それからはもう、別人みたいだったわ。私にも美鶴にも辛く当たって、暴れたり喚いたり。たまに我に返ったみたいに謝ることもあるんだけど、反省はしないまま。翌日には元通り。そんなことをずっと繰り返すようになって」
伏せ気味の晴美の顔を、そっと覗き見る。辛そうな口ぶりに違わず表情は暗いが、涙はない。それが良いのか悪いのかは分からないが。
「美鶴は、やっぱり昔のお父さんが忘れられなかったみたいで。酷いことされても、言われても、いつかお父さんが昔みたいな優しい人に戻るはずって思ってたみたい」
「うん」
「私も、正直そういう期待を持ってたんだと思う。もっと早く、あの子をお父さんから引き離しておくべきだったって、あの子のためにこそ、あの人をもっと早く見限るべきだったって後悔してる……」
少しずつ、語る口ぶりが重さを増していく。一方で旭の方は、彼女の話の中に未だ、美鶴の「前のお兄ちゃん」の影がないことに困惑していた。
話を遮るべきではない。聞き役に徹しながら、それでも胸中のわだかまりが増していく。そんな中、
「そんな、豹変したお父さんに傷つけられる日常の中で、あの子を守っていたのが『お兄ちゃん』だったの」
「……え?」
唐突に、待っていた単語が話の中に現れた。けれど、聞いてもなおその意味が分からない。かえって混乱しながら、旭は躊躇いながらも口を挟んだ。
「その、上級生とか近所の人が助けてくれた、ってこと?」
考えられる例を口にしつつ首を捻る旭。
彼が疑問に思うことも予期していたのだろう。晴美は話を遮られて戸惑う様子もなく、俯きがちだった面を上げて旭を見た。
彼女は微笑とも苦笑ともとれる薄笑みを覗かせて、首を左右に振る。
「『お兄ちゃん』としかあの子は言わなかった。けど、それが誰かは分からない――ううん、正しくは、そんな子はいなかった。実在しなかったのよ」
「実在、しない……?」
晴美の言葉を、茫然と繰り返す。口にした言葉を、何度も反芻して思索を巡らせる。
そうだ、聞いたことがある。必ずしも暴力や恐怖に晒されたときだけでなく、幼少期の子供を中心に、誰もに発現し得る現象。自分だけに見える、自分のために傍にいてくれる空想上の友達――
「……イマジナリーフレンド?」
「やっぱり博識ね」
記憶から手繰り寄せた名前を告げると、晴美は沈痛な目元を少しだけ緩めた。一つ息をついた彼女は、旭から話を継ぐように再び語り出す。
「あの子に見えていた『お兄ちゃん』がどんな人物で、どういう風にあの子を慰めたり守ったりしてたのか、詳しいことは分からないわ。ただ、その存在が美鶴の心の支えになっていた。そのことは事実みたいなの」
「……………」
どう反応していいのか、旭には分からなかった。
一方、晴美の方は一度言葉を切った後、何かを逡巡するように手元のグラスと旭の顔を見比べた。彼女の挙動に旭が気づき、不可解に思ったのと図らずも同時、晴美は意を決したように、短く零す。
「あの子にとって『お兄ちゃん』っていうのは、特別な存在なのよ」
殴りつけられたような気分だった。あらゆる思考が止まり、目の前の母を意味もなく凝視する時間が生まれた。
特別。それはどういう意味だろう。僕は特別ではないということだろうか。思い上がるなということだろうか。僕では美鶴の兄に相応しくないということだろうか。妹と、実の妹とあんな仲になるような人間には、美鶴の兄を名乗る資格などないと。
母の――晴美の姿が、実の母と重なって見える。旭を糾弾する母の姿が見える。心臓が鷲摑みにされる。呼吸が止まる。思いもよらぬ責め苦に、旭の視界が真っ暗に――
「……勝手な期待を押し付けるみたいで、本当は伝えるべきか迷ったんだけど」
声もなく固まった旭に何を思ったか、晴美は肩を大きく落としながら、申し訳なさそうに俯く。彼女の言葉を耳にして、旭は正気を取り戻した。
ここではないどこかに結ばれていた焦点が、現実を捉える。固まり切った表情で晴美を見る旭に対し、彼女は自棄にも思える調子で、
「でも、もう旭くんは私と美鶴の家族だから。だからこそ隠さず、遠慮せず、伝えようと思ったのよ」
大仰に肩を揺らし、煽るようにグラスを干した彼女は、一度閉じた目を開き、改めて旭を見た。
酒気を感じさせない、穏やかで澄んだ眼差し。親としての、家族としての信頼と慕情。過たずそれを知らしめる彼女の双眸に、旭は見入る。目が合ったことを感じ取った晴美は、一拍おいて囁いた。
「旭くんには旭くんの過去と想いがあるのは分かってる。それでも私は、美鶴があなたを「お兄ちゃん」って呼べる、呼びたがってることが嬉しいの。そういう相手がいることは、きっとあの子にとって良いことだと思ってる。だから、無理をしない範囲でいい、それでも、どうかあの子があなたに甘えるのを、頼るのを、許してくれないかしら」
旭はそれを、無言で受け止めた。
新しい母の想いを、懇願を、受け止め、静かに噛みしめる。自らの気持ちと重ね合わせ、答えを模索する。彼の心情を察してか、晴美もそれ以上は何も言わず、旭の返事を待っていた。
「……僕は」
やがて、旭がゆっくりと口を開く。
「僕は、光莉にとって、良い兄じゃなかった」
「……そうなの? 仲は良かったって聞いたけど」
「仲は良かったよ、少なくとも僕はそう思う」
やや驚いたような晴美の疑問に、旭は肯定を返した。同時に皮肉げな、複雑そうな苦笑を浮かべる。
「けど、兄妹としては別だった。僕は光莉に、きちんとした兄として接してあげられなかった。兄らしいことを、兄として正しいことをしてやれなかった。ずっと、それを後悔してる」
自分の手元を見下ろし、心情を吐露する。
思えば、誰かに聞かせるのは初めてのことだ。それでも、今さら止めようとは旭は思わなかった。新たな母になら、伝えることを躊躇わなかった。
「美鶴が妹になったのは、僕にとっても良い機会だと思うんだ。今度こそ、妹にとって誇れる兄で在りたい。頼れる兄で在りたい。だから、美鶴の願いも我が儘も、僕にできることは何だって叶えてあげたいと思う。兄としてしてあげられることは、全て」
言葉が、想いが湧き上がるに任せて、旭はそう言い切った。
その直後、彼は自分の頬を、涙が一筋滑り落ちていくことに気づく。我知らず涙を流していたことに軽く驚きを覚えつつも、気持ちはむしろ晴れやかなくらいだった。まるで自然と零れた涙が、禊であったかのように。
晴美は、動揺を塗りつぶすように微笑を浮かべ、
「繰り返すけど、無理はしちゃ駄目よ?」
「してないよ。大丈夫」
「……あと、あんまり甘やかし過ぎないようにしてね」
不安そうな、もしくは信用していないかのようにも思える、重ねての指摘。対して旭は、グラスに残った酒を飲み干して、ふぅ、と息をつく。薄い笑みを浮かべ、彼は頷くでも否定するでもなく言った。
「気をつける。もし僕が甘過ぎたら、そのときは美鶴も僕も叱ってよ、母さん」
「!」
驚きに、晴美が目を瞬いた。次いで嬉しげに顔を綻ばせる。
「やっとそう呼んでくれた……」
「……待たせてごめん」
「ううん、いいの」
少しだけこみ上げた申し訳なさに、旭が目を伏せるが、晴美は首を振りながら手を伸ばした。旭の両手を自分の手で包み込み、肩を震わせた。
旭は拒まない。親子の、新しい親子としての絆がようやく形になった実感を、彼もまた胸を熱くしながら噛みしめていた。同じように、美鶴とも。今一度、今まで足りなかったものを形にしよう。そんな想いを胸に刻みつけながら、母の手の温もりを感じていた。
しばらくして、晴美の手が離れる。どちらからともなく目を合わせた二人は、示し合わせたように同時に小さく目礼を交わした。
「お休みなさい、母さん」
「うん、お休みなさい、旭くん」
短く言葉を交わして、旭はグラスを洗ってリビングを離れる。
部屋に戻った彼は、明日からの日々に向けて決意を新たにしながら、ベッドに入るなり眠りに落ちた。
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