第四話 兄妹の時間

 夕食の材料を買った旭が家に着いたのは、午後五時を回った頃だった。家には、美鶴が既に帰ってきていた。

「あ、旭お兄ちゃんお帰りー」

 リビングのソファーに身体を埋めてゲームをしていた美鶴が、ドアの開閉に気づいて声をかけてきた。

「ただいま。留守番ありがとう」

「そんな大したことじゃないよ。一人で家にいただけだし」

 リビングを横切り、買い物袋を台所に置いて旭が返事をすると、美鶴はむず痒そうに言って首を振った。

 朝はセーラー服姿だったが、今は部屋着のパーカーに着替えている。心持ち丸めた背筋を背もたれに預ける姿は、いかにもリラックスしている様子だ。妹のそんな様を見て、旭は内心安堵した。

 見慣れた光景になりつつあるとはいえ、やはりまだやって来て間もない少女という印象が抜け切らないのは、自分の切り替えが遅いのだろうか。旭は自嘲を噛み殺し、目を細める。

 ソファーのど真ん中に陣取っていた美鶴は、さりげなく片側に寄りながら、手元のコントローラーを掲げ、

「あ、ねぇねぇ旭お兄ちゃん。一戦どぉ?」

「折角のお誘いだけど、晩ご飯の用意しないと。少し遅くなっちゃったから」

 淡く苦笑し、首を振りながら旭はそう断った。「そっかぁ」と肩を落とす美鶴が、むしろ僅かながら安堵したように見えたのは――いや、流石に勘ぐり過ぎだろう。内心で大きく嘆息する。

 家族として、妹として、美鶴が積極的に歩み寄ろうとしてくれているのは、旭も分かっている。彼にしても、なるべくそうしているつもりだ。それでも、こんな風に家事や用事を理由に彼女の誘いを断るたび、自分がどこか無意識下で、美鶴と距離を取りたがっているのではないかと自分自身を疑った。加えて、彼女にそう思われてはいないだろうか、とも。

 かといって、どこまでなら近しくてもいいのだろう。どこまでなら、普通の兄妹の距離感なのだろう。光莉との仲が真っ当な兄妹のそれでなかったと自覚している分、そんな迷いが消えない。

(ちゃんとした兄になるって、決意したはずなのにな)

 自己嫌悪に陥りつつ、部屋に上着を置いた旭がリビングに戻ってきたとき、美鶴は一人でテレビとの睨めっこに戻っていた。随分熱中しているようで、時折プレイに合わせて頭が揺れている。

 一世代前のゲーム機は、元々小暮家にあったものだ。だが美鶴がこの家にやって来てからというもの、旭や優斗よりも彼女の方が、余程頻繁に遊んでいる。詳しく詮索したわけではないが、入れ込みようを見ていると、今まで興味はありつつもなかなか触れる機会がなかったのでは、と想像してしまう。

「さてと……」

 美鶴の背中を眺めながら、旭は夕食の準備に取りかかった。真っ先に米を洗って炊飯器のスイッチを入れた後は、慣れた手つきで野菜を切り、フライパンに油を引いて火にかける。

 鮭をフライパンで焼き、適当なところでひっくり返す。そのまま野菜を入れるタイミングを計りつつ、ふと顔を上げると、いつの間にかテレビの前から美鶴の姿が消えていた。

 部屋にでも引っ込んだのだろうか、とぼんやり思いつつ、それ以上は気にも留めずに手元へと視線を戻した旭だったが――

「――おぉ、いい香り~」

「うぉっ!?」

 やおら、すぐ傍で美鶴の声がした。虚を突かれ怯んだ旭の総身がびくりと震え、それに美鶴もまた驚いて目を丸くする。

 ただ、そんな一幕の中でも料理の手つきに危うさがないのは、流石と言うべきか。すぐに落ち着きを取り戻した。微笑みながらちらりと横を見て、

「ゲームはもういいの、美鶴?」

「あ、うん。驚かせてごめんね」

「僕が大げさに驚いただけだよ。こっちこそごめん」

 美鶴が肩を落として謝るが、旭はそれに頭を振って謝罪を返した。まだ申し訳なさそうに縮みながらも、美鶴は彼の言葉に頷き、半歩近寄る。

 小気味よい音を立てるフライパンの中身を覗き込んだ彼女は、あるか無きかの如き微かな咳払いを挟んで口を開いた。

「前から思ってたんだけど、旭お兄ちゃん、料理得意だよね」

「んー、まぁ困らない程度には。晴美さんには負けるよ」

 特に誇るでもなく相槌を打ちながら具材を加える旭を、美鶴は見つめる。彼の横顔と、淀みなく動き続ける手元を交互に眺めながら、彼女は続けた。

「っていうかさ、旭お兄ちゃんって、大体何でもできるよね。料理もそうだし、掃除洗濯の手際良いし。それに頭もいいでしょ」

 指折り列挙していく美鶴の言葉に、次第に旭の浮かべた苦笑が濃くなっていく。彼は低い笑い声とともに首を左右に振って、

「こらこら、買い被り過ぎだよそれは。特に勉強はできないぞ、僕は。大した大学に行ってるわけでもないし、それも一浪してるんだから」

「えー? でもこないだのクイズ番組とか」

「雑学が豊富なのと賢いのは別」

 呆れも露わにたしなめるものの、美鶴はいまいち納得し切れていない様子で目を細める。が、彼女もそれ以上拘るつもりはなかったようで、一つ息を吐くと、再び口を開いた。

「まー、じゃあそれはいいや。けど、旭お兄ちゃんが何かを苦手そうにしてるところって、全然見たことない気がするんだよね。別の誰かの方が得意、とかはあっても、やれないことはなさそうな感じ」

「苦手なことにはわざわざ手を出してないだけだと思うけど」

 やや面映ゆいのか、口元の苦笑が緩む。

 料理の手は止めないままに、旭は横目で美鶴の表情を窺った。予想以上に真剣な面持ちについ吹き出しそうになったのを堪え、彼は何気ない調子で問いかけた。

「それとも、分かりやすい弱点とかあった方が良かった?」

 それは、特に意図があっての問いではない。投げかけられた言葉を、ただそのまま打ち返したような気分だった。返事があることは分かっていても、その内容にはあまり関心がなかった。返事があればそれでいいと思っていた。

「んー、どうかなぁ」

 思案するような声。それからややあって、彼女は続けた。

「完璧なおに……兄、っていうのも素敵だとは思うけど」

 口に仕掛けた言葉を引っ込め、慌てて言い直す。ただ、続く言葉にはさっきまでの無邪気さとは少し違う、些細だけれど自然と意識が引っ張られるような感覚があった。旭の菜箸を動かす手が止まる。

 もう一度美鶴へと目を向けた彼は、義妹の微笑と相対した。見つめたその表情には、特に不自然なところなどなく――

「私も兄のこと助けてあげられたらなぁ、とも思うよ」


 またしても声に違和感、否、さっきよりも強い。我知らず、旭の背筋が震えた。

 さっきまでの、無邪気さを宿した甘えたそうな声とは違う。荒涼として、諦念と自虐に膿んだ、彼女の口から聞くのは初めての声。

 言外に何かを含んでいることは確かなのに、その形が掴めない。得も言われぬ不気味さに、旭は数瞬、息をすることさえ忘れた。

 がちゃっ

「ただいまー……おぉ、いい香りだね。いつもながらいい腕してるなぁ、旭くん」

 丁度そのとき晴美が帰ってきた。リビングのドアを開くなり、小鼻を小さく動かしながら破顔する。美鶴に釘づけになっていた旭の視線が、その声に引き寄せられた。

 強張る頬を無理矢理動かし、笑顔で母を迎えながら、彼はフライパンに蓋をした。背中にじわりと浮かんだ冷や汗を感じたが、どうにか平静を保つ。

「お帰り、仕事お疲れ様。もうしばらくかかるから待ってて」

 いつもと同じように労いの言葉をかけ、その合間に一瞬だけ美鶴の様子を盗み見た。彼女も旭と同じく、帰宅した母の方へ目を向けている。その表情に、特に変わったところはない。

「ありがとね。何か手伝うことある?」

「大丈夫だよ」

「そう? あ、むしろ何かあるなら美鶴に手伝わせてちょうだいね。美鶴も、旭くんの邪魔ばっかりしないの」

 尋ねる母に軽く相槌を打つ旭だったが、彼女は娘の方に注意を移しながら唇を尖らせた。美鶴は美鶴で、母の指摘に頬を膨らませ、

「邪魔なんかしてないし! ちょっとお喋りしてただけで」

「つまりお手伝いは何もしてないわけね? あぁもう、テレビの前ゲーム機出しっぱなしだし」

「あ、ごめん。それは片す、片づけます」

 指摘されるや否や、首を縮めて彼女はリビングへ戻っていった。何やかんやで、真っ当な指摘には素直なものだ。

 ジト目で睨む母と、不満げながらも自分の非を認めてせっせと片づけをする娘。思い返せば、実母と光莉の間ではあまり見なかったやり取りだ。けれど、二人の間にある親子の絆は旭にもはっきり感じ取れる。自然と口元が綻んだ。

 けれど――

(さっきのアレは何だったんだ……)

 ついさっきまでの美鶴の態度が、どうしても頭の片隅に引っかかったまま離れない。

 美鶴は光莉とは違う。当たり前だが、それを呑み込むまでにはどうしても時間を要した。そして、二人が『どう』違うのか、というよりは美鶴がどんな子なのか、旭は未だにあまり理解していないことに気づいた。

 これは、良くない。

 ちゃんとした兄に。美鶴にとって、妹にとって今度こそ良い兄になるのなら、その妹のことを知らずにいていいはずがない。それを今の今まで見落としていた自分自身に、思わず落胆の息を吐きかけたくなった。

(かといって、直接本人に問い質すようなことでもないしな)

 フライパンの蓋をずらし、中身を確認しつつ思案していた旭は、もう一度その目を晴美へやった。娘を見やるその眼差しは、厳しくも温かい。

 誰にともなく小さく頷いて、旭はコンロの火を止めた。

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