第三話 東雲香月
「おっそい! 遅いよ旭。いつから君は、寒空の下で女の子を待たせるような男になっちゃったかなぁ!」
正午五分前。自宅の最寄り駅から電車で十五分ほど行った待ち合わせ場所に到着するなり、旭に浴びせられたのはそんな罵声だった。
彼の正面にあるのは、一人の女性の姿だ。名前は
下手をすると中学生あたりにも見間違えかねない小柄で扁平な身体を、袖が盛大に余るほどのロングコートで隠している。寒さに鼻を赤らめた顔つきも、同様に幼い。大きく黒い眼は少しばかり吊りがちで、猫科の動物を連想させた。こんな見た目だが、意外にも旭と同い年である。小中高のみならず、大学までも同期になった――つまり彼女も浪人している――腐れ縁だ。
ちなみに成長に乏しい見た目に反し、視力は徐々に下がってきたらしく、一昨年から眼鏡をかけている。
ぷりぷりと子供っぽく怒りを露にする彼女に対し、旭は素知らぬ顔で、
「洗濯に思ったより時間かかったんだ。というか、約束の時間には間に合ってるだろ」
「いつもは二十分前には着いてるじゃないか」
「だからってそれを理由に怒られても知らないよ」
なお言い募る香月に、聞えよがしに溜息をつく旭。眉根を寄せて「むむむ」と唸っていた香月だが、結局それ以上言っても無意味と思ったらしい。元より、本気で糾弾しようと思っていたわけでもないし。
「ま、いいや。お昼どうする?」
「一階のクレープ屋でいいだろ。チケットは?」
「まだ受け取ってない」
「じゃあそっち先だな」
短い言葉を交わし、二人はエスカレーターに乗った。
上った先の映画館で、事前に予約しておいたチケットを受け取る。再び一階に戻った二人は、次いで奥まった場所に店を構えたクレープ屋に向かう。ムービーチケットを提示すると割引されるのだ。
「にしても、遅刻の言い訳が洗濯とはねー。主夫かね君は」
キャラメルナッツのクレープを端から齧りつつ、香月が先の会話を蒸し返す。やや眉を顰めて、旭は彼女をジロリと睨み下ろした。
「勝手に遅刻したことにしないでくれ……両親は仕事、妹は学校。家に残るのは僕一人だ。家事くらい当然するよ。休みの間も家でゴロゴロしてるだけの東雲は別だろうけど」
厭味を交えつつ応じると、旭は手にしたツナサラダを齧った。
どうせまた、子供じみた怒り顔で食ってかかってくるだろう、という予想に反し、香月はしばし無言。意外に思って目を向ける旭の顔を、香月が無表情で見上げる。そして、
「上手くやっていけてるみたいだね、新しい家族と」
穏やかな声でそう語りかけられ、旭はしばらく言葉を詰まらせた。戸惑う彼を見上げた香月は、少しだけ口元を綻ばせて、再び囁く。
「安心したよ」
「……ああ、良い人たちだよ。母さんも、妹も」
そこでようやく、無意識に強張っていた肩を撫で下ろしながら、旭が頷いた。細めた目には、気遣いに対する感謝と、微かな申し訳なさが浮かんでいた。得意そうに鼻を鳴らして、その肩を香月がぽんと叩く。
「今度あたしのことも紹介してよ。っていうか、会ってみたい」
続けてそんなことを言う彼女に、旭は微かに苦笑。
「それは別にいいけど……でも多分、東雲、最初は驚くと思うよ」
「驚く? 何にさ?」
彼の苦笑と言葉の意味が分からない。怪訝そうに首を傾げながら、香月は呑気にクレープを食べる。
言い聞かせても、あの衝撃の何分の一ほど伝わるだろうか。そんな思いが、旭に回答を躊躇わせる。一方で香月も、無言で口の端を曲げる彼の姿に何らの葛藤があることを察し、敢えてそれ以上催促はしなかった。
結局、旭は力なく頭を振って、
「まぁ、また今度、実際に会わせるときに話すよ」
「ふぅん?」
捻り出された返答に、胡乱そうに相槌を打つ。そして残ったクレープを口に放り込み、香月は肩を竦めた。ニヤリと笑った彼女は、旭の袖を引いて言う。
「ま、じゃあその時を楽しみにしとくよ。そろそろ行こっか?」
あっさりと切り替えた彼女の態度を、旭もまた疑問を持たず受け入れる。ただ、彼は自分のクレープの最後の一欠を食べつつ、自分の口元を指さした。
「ついてるぞ」
端的な指摘。きょとんと目を丸くした香月が、反射的に舌を伸ばして口の端を舐める。クリームの甘さを舌先に感じた彼女は、誤魔化し笑いを浮かべて囁いた。
「良ければ味見する?」
「結構だ」
冷ややかな眼光とともに言い放ち、旭は歩き始めた。
映画はなかなか面白かった。ゾンビ物のパニック映画だったのだが、人物間の疑心暗鬼や駆け引きの描写にも注力しており、それでいて最終的には残った者たちが協力し合って窮地を脱する爽快な展開もあり、最後はその後に希望を残す幕引きだった。
と、旭は思ったのだが、対照的に香月はさっきから不満顔で彼の隣を歩いている。足取りも心なしか荒っぽく、のしのしという音も聞こえてきそうな雰囲気だ。
映画館を離れ、電車に乗っても彼女の態度は変わらない。家の最寄り駅に着いて、電車を降りた頃になってようやく、彼女は微かに口を動かした。
「まさか幼馴染の
「それで不機嫌だったのか」
ポロリと零れた呟きを耳にした旭が、拍子抜けしてぼやく。
片や、香月は余程鬱屈していたのか、堰を切ったように愚痴り出す。握り拳で旭の横っ腹を小刻みに叩きつつ、
「酷くない!? 序盤はあんな仲良さそうだったのに、ゾンビになった途端主人公に見捨てられて!」
「そりゃゾンビになっちゃったらな」
「しかも列車から蹴り落すときの台詞っ。あれ幼馴染に最後にかける言葉としてどうなのさ!」
「僕に聞くな。そして殴るな」
気のない相槌を打ちながら、徐々に強さを増す香月のパンチを遠ざけるよう、彼女の頭を押しのける。的を失った香月の拳は、なおもやり場のない怒りを表して空を切った。
どうやら相当お冠らしい。思えば見に行く前、キービジュアルを指さしながら「この
憤懣遣る方ない様子の彼女と、それを押さえる旭の姿を、通行人は微笑ましげに眺めて通り過ぎていく。何も知らない者からすると、それこそ仲の良い兄妹にでも見えているのだろうか。
同意を得られない不満からか、香月はジト目で旭の横顔を睨む。そして、
「何だよ、旭の薄情者。こーんな可愛い幼馴染が落ち込んでるのに何とも思わないの?」
「初耳だなー、東雲は可愛かったのか」
「可愛いでしょー?」
「ええ?」
「……ていっ」
一瞬で表情を変え、にこやかな笑みとともに両手の人差し指を両頬に添える。猫撫で声の香月にしかし、旭の相槌はとうとう氷点下まで温度を下げた。直後、その膝裏に蹴りが入る。
痛くはないが、意表を突かれて旭の身体が傾ぐ。どうにか踏み止まって抗議の視線を向けるが、香月は元の不機嫌顔でそっぽを向いてしまっていた。
已む無し、と嘆息した旭は、手を乗せたままだった香月の髪をくしゃりと撫でる。
「……拗ねるなって」
「何だよぅ。放っておけよぅ」
嫌そうに手を払われる。それを意に介さず、なおも目を合わせようとしない彼女の横顔を覗き込みながら、旭は小声で告げた。
「そんなに落ち込むなよ。あのキャラは東雲じゃない」
「そーだね。あたしはあんなに可愛くなかったね。ふんっ」
人の往来を気にすることもなく、いよいよ子供じみた態度で怒りを露わにする香月。見下ろす旭は渋面だったが、それでも香月だけを責めることはしない。
嘆息し、なおも小声で語りかける――今度は、少しばつが悪そうに。
「悪かった……意地張っただけで、実際可愛いから機嫌直してくれ」
その言葉が香月に届くまで、幾らか時間がかかった。唐突に足が止まり、弾かれたように顔が上向く。数歩先で振り返った旭と向き合った彼女は、きょとんと目を瞬いた。かと思うと、
「な……何だよぉ、そう思ってるなら最初からそう言いなよもぉぉ!」
突如腕を勢いよく振り回し――余った袖がばたばたと音を立てた――照れ混じりの声で上機嫌に叫んだ。大股で旭に近寄るなり、コートの袖で彼の腹をべちべち叩きながら香月は続ける。
「そういうことなら仕方ないなぁ。もう一回、もう一回だけ言ってくれれば、今回は機嫌直してあげようかなぁ~。大サービスだぞっ」
期待に輝く瞳が、真っ直ぐに旭を射抜く。彼はそれに、微笑みとともにやんわりと頷いた。ゆっくりと口を開き、穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「あんまり往来で騒ぐなよ。周りに迷惑だろ」
「おい唐突にそういうこと言うのやめろぅ。冷める上に反論しづらいだろ」
「じゃ、僕は夕食の買い物するからこれで。気をつけて帰れよ」
「恥ずかしいからって誤魔化して逃げようとすんな。さよならまたね」
諭された香月のテンションが、一瞬で平常に戻った。さっきまでの乱高下が嘘だったかのような平静ぶりは、逆にいつから冷静だったのかと問い質したいところではあったが、旭はその衝動を無視して軽く手を振り、目の前のスーパーに足を向ける。
まだ不平を零しながら手を振り返した香月だったが、そこで彼女は思いついたように手を止めて、もう一言付け足した。
「お母さんと妹ちゃんに、よろしく言っといて」
「……ん、話しておく」
頷いた旭の口元には、薄い苦笑が浮かぶ。勝ち誇った笑みでもう一度掌を揺らすと、香月は踵を返して立ち去った。
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