第二話 新たな家族の朝

 それからさらに時が過ぎた。

 年が変わり、冬が終わりに近づいたある日の朝。旭は一人、台所に立っていた。

 炊飯器のタイマーを横目に、昨晩のおかずの残りをレンジで解凍する。ほどなく温め終えたそれを弁当箱に。直後に炊き上がったご飯も、保温弁当箱に移して蓋をした。

 それを終えると、今度はフライパンに軽く油を引いて温め始める。丁度そんなタイミングで、ぱたぱたと廊下を早足で歩く音が聞こえてきた。すぐに音の主がひょっこり顔を出す。

「おはよう、旭くん。美鶴起きてる?」

「おはよう晴美さ……母さん」

 挨拶とともに問いを投げてきた女性に、旭は口にしかけた返事を途中で呑み込み、言い直す。女性の方がそれに、そこはかとなく満足げに頷いた。

「うん、今日は私が言わなくてもちゃんと呼んでくれたわね」

 腕を組み、何度もうんうんと頷くのは、小暮晴美。父と再婚し旭の母となった相手だが、新たな生活が始まってまだあまり経っていない。旭としては、どうしてもまだ他人行儀な反応をしてしまいがちだった。

 苦笑と自嘲を薄く滲ませながら、旭は肩を竦ませ、

「ちなみに美鶴はまだ見てない。まだ寝てるんじゃないかな」

「……ったくあの子はもぉ~、いつまで経ってもしゃんとしないんだから」

「父さんだって起きてこないし、似たようなものだよ」

 呆れたように眉根を寄せる晴美と、今度ははっきりと苦笑を浮かべて首を振る旭。会話の傍らで、彼はフライパンに卵を割り落した。じゅう、と小気味よい音がして、仄かに香りが立ち昇る。

「ううん、優斗ゆうとさんならさっき見たわよ。多分今洗面所じゃないかな」

「そっか、じゃあやっぱりあとは美鶴だけか」

「ごめんなさいね、だらしのない子で」

 何気ない調子で相槌を打ちつつ、旭はフライパンに蓋をする。晴美が「やれやれ」と深く溜息をつく中、突如としてけたたましい足音が響いてきた。その直後。

「――起きてるっ、起きてます! 人のこといつまでも一人で起きられないみたいな言い方しないでッ!」

 ダンッ、と足を踏み鳴らしブレーキをかけて姿を現した少女は、荒っぽい声でそう主張した。

 晴美は少女に向き直ると、半眼の眼差しと冷徹な声で告げる。

「十分寝坊でしょ。早く着替えないと遅刻するわよ。あと寝ぐせ」

 母にそう指摘された少女は、パジャマ姿のままで悔しそうに赤面した。そんな彼女へと、旭は晴美の肩越しに顔を向けて声をかける。

 努めて穏やかに、はっきりとした声で。

「おはよう、美鶴」

 旭に声をかけられ、少女――美鶴は覿面に反応した。びくっと肩を跳ね上げると、母とのやり取りを恥じるような照れ笑いとともに旭に視線を合わせる。

 そして、ぺこりと一度頭を下げてから、朝の挨拶を返した。

「うんっ。おはよう。えと――旭お兄ちゃん、、、、、、!」


 新しい家族二人は、旭と父――優斗が思っていた以上にすんなりと、小暮家に馴染んでいた。

 晴美は常にはきはきした印象の女性だ。ピンと背筋を伸ばした姿には、頼もしさや力強さを感じられる。流石に五年もの間、娘を女手一つで育ててきただけのことはある、と思わせる風格だ。それでいて堅苦しさは感じさせないのも彼女の美点だろう。

(そして――)

「いただきまーす」

 黙考しながら旭の目は、自然ともう一人の新しい家族、美鶴へと向かった。セーラー服に着替えて朝食の席についた彼女は、箸と茶碗を手に朝ご飯を食べ始める。

 見れば見るほどに、姿は光莉にそっくりだ。ごく平均的な身長に、微かに幼さを残した顔立ち。同世代の少女たちに比べてメリハリの効いたボディラインや、黒のショートヘアーも含めて、ほとんど生前の光莉と変わらない。というより、光莉が生きて成長していたなら、こんな姿になっただろうと思わせる風貌だった。

 ただ、事前に思っていたほど、彼女と光莉を重ねて見てしまう機会は少なかった。というのも、性格が全く違う。光莉はどちらかというと自己主張の少ない、落ち着いた性格だったのに対し、美鶴は仕草にしても言葉にしても何かとエネルギッシュだ。その違いが、暮らすほど顕著に感じられた。

 と、旭の視線に気づいたのか、顔を上げた美鶴がきょとんと目を瞬いた。小首を傾げ、

「どうかした? 旭お兄ちゃん」

 問われた旭は、そこで初めて自分が不躾に注目していたことを自覚した。誤魔化すように笑みを浮かべると、首を振って応える。

「いや、何もないよ」

「? そう?」

 今度は反対側に首を傾けながら、丸い目で呟く美鶴。

 すると、彼女の隣にいた晴美が茶碗を置いた。一足早く食べ始めていた彼女は、空になった自分の茶碗と皿を示すと、低い声で告げる。小言を言うときの声だ。

「寝坊したくせに悠長に食べてるから、遅刻しないか心配してくれてるんでしょ」

「分かってます―。けど慌てて食べたら身体に悪いから、焦りすぎないように気をつけてるんですー」

 美鶴もまた、同じようなトーンで母に言葉を返した。こういうやり取りは、見ていて「親子だなぁ」と思う。

 旭より先に、優斗がクスリと短い笑いを零した。これ幸いと、旭は彼の方へ視線を移して、

「ちなみに、父さんも人のこと言えないからね」

「分かってる、分かってる」

 途端、後ろめたそうに渋面を作って優斗は頷いた。可笑しそうに彼を見下ろした後、晴美はキッチンのカウンターに置いてあった弁当箱を一つ手に取り、旭に向き直る。

「ご馳走様。いつも朝ご飯とお弁当ありがとね、旭くん」

「春休みの間くらい、この程度のことはしないと。やることないから」

 礼を言われた旭は、微かに苦笑。

 事実、大学が休みに入ってからはほとんどやることがなく、両親が仕事に、美鶴は高校に行っている間、主だった家事はほとんど旭が担当している。元々父と二人暮らしをしていた頃から、遅くなりがちな父より旭の方が家事を行うことが多かったし、もっと言えば母と光莉が健在だった頃も、掃除や料理をこなす機会は多かった。

 社会経験と小遣い稼ぎを兼ねてバイトをしようと思ったこともあったが、優斗と晴美に「出来ればそれより家のことを」と頼み込まれ、結局その通りにしている。

 尤も、二人のその意見はどちらかというと、「家族での時間を少しでも増やせるように」という意図があってのことだと思う。もっと言えば、美鶴と過ごす時間を増やしてほしい、ということだろうとも。

「それじゃ、行ってきます」

『行ってらっしゃい』

 出かける晴美に、残った三人が口を揃えて声をかけた。笑顔で一つ頷き、彼女はそのまま玄関の方へ消える。

 ドアの開閉の音が聞こえた後、遅れて優斗も食べ終えた。湯飲みのお茶をずず、と飲み干した彼は、立ち上がり椅子の脇に置いてあった鞄を手にし、次いで弁当箱を取った。

「じゃあ、父さんも行ってくる。美鶴、学校行くときは気をつけて」

 穏やかな口調で言いつつ、自身も遅れがちだったためか、美鶴の返事を待たずにさっさと立ち去ってしまう優斗を、美鶴が目で追った。咀嚼していたご飯を呑み込み、ぽつりと、

「……行っちゃった」

「余裕がある風を気取ってたけど、あれで結構せっかちだから」

「ふーん」

 実父とあって、容赦なく揶揄する言葉を嘯く旭だったが、緩んだ口の端には確かな親しみが浮かんでいる。美鶴もそれを察し、微笑みながら相槌を打った。

 その彼女も、時計にちらりと目を走らせてからは、食べるペースを上げた。目玉焼きの黄身を丸ごと吸い込むように一口で頬張り、残りのご飯を掻き込んで、お茶を飲み下す。けふー、と静かに息を吐いた後、彼女は両手を合わせて小さく俯いた。

「ご馳走様でしたっ」

「お粗末様。行っといで」

 言い終えると同時に立ち上がった美鶴へと、旭は弁当箱を差し出しながら応える。子供を相手にするような態度だったか、と内心反省する旭だったが、美鶴は気にした様子なく弁当を手に取った。

「ありがと、おに……旭お兄ちゃん」

 反射的に飛び出しかけた言葉を留め、言い直す美鶴の表情は、僅かに強張っていた。それに旭は気づかぬふりで、ただ頷きを返す。安堵に美鶴の肩が落ちた。

 玄関に向かう美鶴を、旭も箸を置いて見送りに追う。靴を履いた美鶴は、ドアに手を掛けて振り返り、旭を見ながら口を開いた。

「あ、そだ。旭お兄ちゃん、今日はお出かけだっけ?」

「一応。けど洗濯とかは済ませてから行くし、夕方には帰ってくるよ。心配しないで」

「そっか。分かった」

 首肯し、彼女の問いに答えた旭に、美鶴が口元を綻ばせる。彼女はドアを押し開けて、鞄のベルトを肩にかけて空いた手を振り上げた。

「じゃあ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。気をつけて」

 手を振り返し微笑み返す。自然にドアが閉まるまで、美鶴は嬉しそうに手を振っていた。

 ぱたんとドアが閉まると、その向こうで慌ただしく駆け出した足音が聞こえる。旭はリビングを振り返って時計を確認。美鶴が電車に間に合うかどうかは、なかなか際どいところだ。思わず苦笑が漏れる。

 玄関の鍵を閉めて、リビングに戻る。朝食の残りを食べ終え、片付けを始めた。

 四人分の食器。そのうち二人分は、美鶴たちが引っ越してきたときに持ってきたものだ。新たな家族の証、息遣いを感じる。旭にとってはその温もりが、思っていた以上に心地よかった。

 喪失感はまだ消えない。それでも、実感を失っていた家族と過ごす時間の温もりを、再び手にできたことは純粋に嬉しかった。

「……っと、あんまりもたついてると、約束に遅れるな」

 はたと気づいて、物思いに耽っていた頭を振ると、自分に言い聞かせながら旭は止まっていた手を動かし始めた。食器の片付けが終わったら、次は洗濯と掃除だ。ゆっくりしている暇はない。

 長い大学の春休み。新しい家族での生活。そんな日常を、旭は彼なりに満喫していた。

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