第一話 再婚を前に

 光莉が亡くなって、二年。

 一浪して大学に入ってから過ごす初めての秋。そんなとある日、旭は家の外で夕食を済ませ、一人で帰宅した。

 普段なら、講義が終わったら帰宅し、夕食の支度をして父の帰りを待つところだ。だが今日は、父はいない。仕事の後に用事があるため、夕食はいらないという話だった。そのため、旭も大学で適当に時間を潰し、友人と時間を合わせて食事をしてきた。

 光莉を失った傷は癒えない――いや、癒え切ることはない。だが、その痛みが徐々に引いてきていることを、旭は複雑な気分とともに自覚していた。

 荷物を自室に置いて、上着を脱ぎ、ドアの傍に置いてあった掃除機を手に取って部屋を出る。それから彼は、すぐ隣の部屋に足を運んだ。

 光莉の部屋だ。

 扉を開け、中に入る。それからおもむろに、床に掃除機をかけ始めた。彼女の死を受け入れられるようになってから、それが旭の日課だった。

「……光莉」

 掃除を終えた頃、旭はぽつりと声を零した。応える者は無論なく、彼自身もそれは分かっている。力なく視線を向けた先には、勉強机に置かれた写真立てがあった。写っているのは光莉の姿。唯一彼女の死後にこの部屋に持ち込まれた物品だ。

 この部屋で交わったこともあった。旭の部屋でも同様に。回数は……どちらが多かっただろうか。もう思い出せない。

 少しずつ、光莉との時間が、思い出が摩耗していく。それを辛いと感じる反面、いつまでなら引き摺っていても許されるだろうか、とも考える。きっと猶予はそんなに長くない、とも。

 過去の過ちを忘れるわけにはいかない。けれど、あの日々を惜しんでもいられない。今度こそ、正しい兄として生きていかなければならないのだから。

 と、そのとき、玄関の方で物音がしたような気がした。煩悶から引き揚げられ、旭は光莉の部屋を後にした。

 玄関に着くと、予想通り、そこに父の姿を認めた。が、旭にとって意外だったのは、その父の様子だ。もたもたと靴を脱ぐ彼の顔は、遠目に分かるほど赤い。酔っているらしい。

「お帰り父さん。珍しいね、大分呑んだ?」

 旭が呼びかけると、一拍遅れて父が顔を上げた。半ば据わった両の目は、やはり酩酊を映している。

 旭と目を合わせた父が表情を作るまで、さらに数瞬を要した。彼はニタリと不器用な笑みを浮かべ、

「おぉ~、旭ぃ。ただいま」

 言いながら、父はようやく靴を脱いで家に上がった。

 旭の父は今日、再婚を考えている相手の家に行っていた。

 相手の女性は、父と亡き母の高校の同級生だ。父と母が結婚し、旭や光莉が産まれた後も、母は何度も会っていたのを知っている。彼女の方もまた、五年ほど前に夫と別れていて、特にその時期は母が頻繁に話していたことも聞いていた。

 旭は、父の再婚に反対するつもりはなかった。光莉と母の死を、旭とともに悲しみ、苦しんだ姿を知っているからこそ、新たな幸せを見つけられるのならそうして欲しかった。相手の女性も母を知っている、というのも、何となく安心感に繋がっていたかもしれない。以前の家族が無かったことにはならないだろうという、漠然とした思いに。

 呆れ半分に自分を見やる息子の姿を、へべれけな顔で見やっていた父だが、その眼差しが妙に落ち着かない様子であることに、そこで旭は気づいた。怪訝に思い、眉を顰める。それを見て取った父が、不意にその顔をくしゃりと歪めた。

「父さん……?」

 直前までの高揚はどこへやら、一転して暗い表情で、父は壁にもたれるようにして体を支えながら、スマホを取り出した。

「なぁ……晴美はるみさんに、娘がいるらしいって、前ぇ、話したよな」

 いまいち呂律が回っていないが、何を言っているのかははっきり分かる。なおも訝りながら旭が頷くのを見て、父は軽く手招きしつつスマホを操作する。

「お前の三つ下、光莉と同い年だってのも、言ったよなぁ?」

「……聞いたよ。それがどうかしたの?」

 一瞬、ちくりと胸が痛む。だがそれを黙殺し、旭は父に近づきながら問いを返した。

 そう、父が再婚すれば、再び妹ができる。

 今度こそ、ちゃんとした兄で在る。今度こそ、きちんと兄妹として正しい距離感を保てる兄になる。家族として当たり前に仲良く。けれど、間違っても異性の仲にはならない。そんな兄妹としての当然を、今度こそ守って見せる。旭はそう強く決意していた。それこそが贖罪になるはずだと、自らに言い聞かせる心境で。

 ところが。

「……旭。見てみろ」

 気づけば、父の面持ちは沈鬱なものに変わっていた。低く、疲れた声で告げながら、彼はスマホを旭に差し出して見せる。

 画面に映っていたのは写真だ。二人の女性が並んでいる。片方は少し前に見た、父が再婚を考えている相手の晴美さん。そしてもう一人は――

「――は?」

 心臓が止まるかと思った。いや、本当に動いているのか自分でも分からない。呼吸の仕方も、瞬きの方法も、何もかもが記憶から吹き飛んで消えるくらい、旭は動揺していた。目にしている光景が信じられなかった。


 晴美の隣に、光莉が立っていた。


「……父さん、これ……」

 どれくらい言葉を失っていただろう。長い沈黙を経てようやく口を開いた旭だが、その声は自分のものである実感も湧かないほど、冷たく掠れていた。

「名前は美鶴みつるちゃん。正真正銘、晴美さんの娘だそうだ。実際、驚いたよ。あまりに似すぎてて。声までそっくりなんだ。何度、思わず「光莉」って呼びそうになったか」

 一方で、父の方は話しているうちに多少落ち着いてきたのか、淀みない口ぶりで呟く。もっとも、その声は旭と同じく、未だ醒めぬ困惑に満ちていた。

「旭……父さん、正直自信がない。この子を、美鶴ちゃんを、光莉と重ねずに暮らしていける自信がない」

 苦渋の表情で、噛みしめた歯の隙間から絞り出すように呟く父を、旭はハッとして見る。強い眼差しを向けられたことに気づいた父は、ゆっくりと息子に視線を重ね、続けた。

「お前はどうだ、旭」

「僕は……」

 問われ、答えようにも言葉が出ない。閉じることも逸らすこともできなくなった両目で、ただただ光莉の――美鶴の写真を凝視する。画面の向こうから笑いかけてくる少女の顔を、漫然と見つめ続ける。

 汗ばんだ旭の手。彼は、その手が何かに触れたような気がした。懐かしい熱、懐かしい柔らかさ。それは錯覚でしかない。それでも彼の手にはその時、紛れもなくかつて触れた感触が蘇っていた。

 耳元に息を感じる。自分の息と重なって、耳朶を擽る熱い息と、声を――


 ――お兄ちゃん


「――僕は」

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