時は僕たちを兄妹にしない
えどわーど
Prologue
暑い。
ベッド脇の小さなライトだけが照らす部屋の中。ふと気が緩んだ瞬間、そんなどうでもいい感想が泡のように過る。
息は荒く、衣類をすべて脱ぎ捨てた体は、汗と唾液とそれ以外の体液でべとべとだ。耳を擽るのは、僕と同じように乱れた熱い吐息。一回り小さく、幾分も柔らかい肢体が、同じベッドに横たわっていた。
火照った肌に指を滑らせる。引き攣るような声とともに、びくりと弾んだ手足がシーツを掻き回し、衣擦れの音を立てる。
暗がりの中、潤んだ瞳が僕を捉えた。
「おにぃ、ちゃん……」
呼ばれる。返事の代わりに僕は、彼女の髪を撫で、額にそっと口づけた。少し塩っぽい汗の味がした。
僕、
恋愛感情があったわけじゃない。未知の行為に対する単純な興味があり、一番身近で信頼できる異性が互いだった、それだけのこと。それ故か、かえって「兄妹だから」という倫理観のブレーキが働いてくれなかった。
それでも、最初の頃はまだマシだったのかもしれない。二度目の行為に及んだのは、その二か月くらい後。「すべきではない」という認識は、この頃からずっとあった。しかし結局、中毒性のある快楽を知ってしまった僕たちは、徐々に体を重ねる頻度を増していった。今では月に一、二度。
避妊はしているとはいえ、自分たちがどれだけいけないことをしているのかくらい分かっている。それでも、引き返すには遅すぎた。そうするには、もう互いの味を、心地良さを、僕たちは知り過ぎていた。
いや、或いは――
「……
小声で投げた問いは、どんな答えを期待して放ったものだろう。自分のことなのに、それが酷く曖昧だ。
けれど、どちらにせよ光莉の答えは、いつもと変わらなかった。
「うん……気持ち良かった……お兄ちゃんは?」
「良かったよ、もちろん」
呼吸を整えながら、光莉が尋ね返してくる。
迷いなく答えてから、気づく。本当に止めるべきだと思っているなら、僕が「否」と言えばいいだけのことなのに。それができないから、結局いつまでもこの関係を続けてしまうのだろう。
苦い自嘲が胸に落ち、溜息が零れる。そんなときだ。
「……ね、お兄ちゃん」
不意に脇腹をつつかれ、声を掛けられる。短く声を上げて相槌とする僕の目を、光莉が覗き込んできた。
その瞬間、訳もなく背筋がぞくりと粟立った。理由がまるで分からない。分からないまま、僕はただぎょっとして身を竦ませた。
光莉は僕の表情に気づいただろうか、気づかなかっただろうか。それを知る術は僕にはない。けれど少なくとも、僕には光莉の表情が、不思議なほど克明に見て取れた。
熱に浮かされたような瞳、一層はっきりと紅潮した頬。直前までの行為によるものじゃない、そう直感した。
その唇が、震える。
「お兄ちゃん。キス、したい。キスしよ?」
「な……」
思いもしなかった言葉に、僕は短く呻いた。それから、何とか自分に喝を入れて首を振る。
「そ、それは駄目だって。前に二人で決めたことだろ?」
動揺は拭い切れないまま、それでも僕は光莉に言い聞かせる。
二度目に身体を重ねる前に、二人で話し合ったのだ。本来、恋人としかしないようなことをしてしまったのだからこそ、キスだけは絶対にしない。本気で好きになった相手とそういう関係になったときのために残しておく。そして、そんな相手がどちらかにできたときには、これ以上この関係は続けない。そう、はっきりと誓い合った。
まさか忘れたのだろうか。懐疑の眼差しを向けた僕に、光莉の口の端が辛そうに歪んだ。「ばか……」と小さく罵倒が漏れるのが聞こえる。
「お兄ちゃんとこういうことしてたの、最初は確かに、興味本位だったよ。でも、誰だっていいなんて思ったこと、一度もない」
かと思えば、今度は両肩を手で掴まれた。離すまいとするように、細い指に力が込められているのが分かる。
僕は何も言えない。黙ったままの僕に、光莉は押し殺した声で続きを告げてきた。
「最初の頃は、お兄ちゃんならいいって思ってた。今は違う。今は、お兄ちゃんがいい。お兄ちゃんじゃなきゃやだ」
「光莉……」
「こういうことするのも、キスするのも、お兄ちゃんとがいいの。他の誰かなんて考えたくない。ねぇ、お兄ちゃんは?」
辛うじて名前を呼んだ。僕に問いを投げる光莉の声は、どこか縋るようなようでもあった。
彼女の瞳を覗き返し、目を細めて僕は悩む。告げるべき言葉に悩んでいたというよりは、その問いに対する自分の本心が咄嗟に分からなかった。
目の前に横たわる、一糸纏わぬ妹の肢体。ついさっきまで獣欲に任せて貪った柔肌に注意を移す。何度抱いても、一向に飽きることのない裸体を見ながら、僕は、これが他の誰かのものだったら、と想像する。
「……今まで、真剣に考えたことなんてなかったな」
独り言のように、そんな声が零れた。
真剣な表情で瞬きする光莉。僕はその頬に、そっと手を当てた。途端、驚いたのか、彼女が目を真ん丸に見開いたのが見えた。
自分の口元が自然に綻ぶ。そっと背中を押されるような錯覚に抗わず、僕は胸に湧いた思いをそのまま口にした。
「好きだよ、光莉。今までずっと、自分でも気づいていなかったけど。妹としてじゃなくて、お前のことが好きだ」
「ふぇ……」
と、僕の告解に何を思ったか、光莉が変な声を漏らした。雰囲気もへったくれもなくくしゃみでもするのかと思ったが、彼女は僕から目を逸らして俯いてしまう。
始まりは、野卑な肉欲だったかもしれない。それでも、タブーと知りつつ何度も行為に及んだのは結局、その制止を振り切ってしまえるほどに、光莉を愛おしく思っていたからだ。
どうしてそれに気づかなかったのだろう。気づき、認めてしまえば簡単なことなのに。他の答えなど見つからないのに。
僕は、もうどうしようもないほど、妹への恋に溺れているんだ。
僕が手を添えた頬が震える。光莉は蚊の鳴くような声で、
「……ん、知ってた」
「そうか?」
「気づくの遅い」
「そうか。ごめん」
「……キスしてくれたら許す」
拗ねたように尖らせた唇を突きつけ、光莉が唸った。零れかけた苦笑を噛み殺し、僕は彼女が求める通り、その唇に自分のそれを重ねた。
初めは啄むように短く、軽いキスを繰り返し。次に吐息ごと食い荒らすように深く、舌を絡ませる。
傍らにあった華奢な体を抱き寄せ、その上に覆いかぶさりながら、汗ばんだ肌を指と掌で蹂躙する。口の中に納まりきらなかった嬌声が二人の唇の隙間から漏れるたび、加速度的に興奮が増していく。
「ん、きゅ、ふぅぅぅぅ!?」
痙攣する光莉の両手が、僕の背中を這った。その無言の訴えに応えるように、そして自分の欲望に促されるままに、僕もまた光莉の体を強く抱き寄せる。
「おにぃちゃん、おにぃちゃんっ……好き、好きぃ!」
柔らかい膨らみを胸板で押し潰し、細い腰を折れそうなほど抱きしめる。けれどその感触よりも、光莉が零す言葉の方が、何倍も僕の心を揺さぶった。彼女の耳元に口を寄せて、息を弾ませながら僕も言葉を返す。
「僕も、好きだよ、光莉……好きだ、愛してる」
「ひゃ……っっっ」
囁いた途端、電気が流れたように光莉の背筋がびくりと跳ねた。声にもならず溢れる甘い息。ぎゅっと結んだ瞼の端からは涙が、喘ぐ口の端からは涎が、それぞれ筋を残して垂れ流れる。
不意に、僕の脚に光莉の脚が絡みついてきた。誘い、求める仕草。微かに残っていた逡巡は、彼女の脚が蠢くたびに霧散していく。幾らもかからず僕がその気になったのが伝わったか、光莉の喘鳴に期待が混じった。
最早確認も取らず。僕は少しだけ持ち上げた体を、ゆっくりと沈めていく。
脳裏に火花が散るほどの一際熱い衝撃とともに、僕らの距離がゼロになった。
神様の存在を信じたことはなかった。
けれど、このときばかりはその存在を意識せずにはいられなかった。天罰だと思わずにはいられなかった。
僕と光莉が、初めて恋しい人と繋がる心地良さを知った次の日、光莉は母とともに、事故でこの世を去った。
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